【割れ物につき取り扱い注意】

だが、悟飯が移動しようとした先には、悟空の左腕があった。
再びシンクの縁を掴む悟空の左腕に行く手を阻まれ、脱出を謀った悟飯は、希望に反して悟空の腕の中でもぞりと身動ぎをひとつとったに過ぎなかった。
悟飯の肩から顔を突き出した悟空に心臓の鼓動が煽られる上に、背面から押さえつけられている為に腹部にシンクが食い込んで、苦しくて堪らない。
この腕を何とかできないものだろうかと、シンクを掴む悟空の左手を恨めしく見下ろした時だった。
負傷した手を捉えられ、悟飯は悟空の突然の行動に驚いて息を呑んだ。
あっと思った時にはもう、怪我をした悟飯の指は悟空の口内に含まれた後だった。
いつかTVか何かで見たのと同じシチュエーションが、実際に己の身の上に起こっているのが悟飯には信じられない。
しかも、実生活に於いて実践する人間が、こんな身近に実在するなんて。
と呆然としたのも束の間、今度は悟空の口内が蠢いて傷口から流れる悟飯の血を舌で舐めとり、途端に傷口のひりついた痛みと痛み以外の何かが全身を駆け巡って悟飯は赤らめた顔を顰めた。

「・・・ッ!!」

「あれっ!?まだ、血が止まらねぇ。可笑しいな、唾つけときゃ治ると思ったんだけどな?」

と、悟空の口内から開放されても出血の止まらない悟飯の指を見た悟空が訝しげに首を傾げ、この男をつき動かした医学的根拠のない理屈の単純さに、悟飯は赤面したままで失笑した。

「お父さんの唾より、絆創膏の方が治りが早そうですよ」

「そっか。んじゃあ、手当てしてやるから来いよ」

何も知らない無邪気な笑顔で悟空は悟飯の手を引いて歩き出し、キッチンから連れ去られるのを悟った悟飯は慌てて蛇口を止めて、そのあとへと続いた。
恐ろしいことに悟空は、自分が何をしでかしていたのか、まるで無自覚だった。
我が子だから遠慮や気兼ねはいらないと、とうの息子の年齢も関係なしに思っているのだろう。
そして、その息子が、父親である自分に親子の情を超えた並々ならぬ想いを寄せているなどとは露ほども知らずに。
いっそのこと、今、この場で告白してしまおうか。
息子の僕が血の繋がった父親の貴方に、同性でありながら禁忌の想いを抱いているのだと。
だから、さっきのように気安く触られては困るのだと。
貴方に邪気はなくても、僕は様々な想いが錯綜して当惑してしまうのだと。
悟飯の告白を聞いて驚いた悟空は、過去の自分の行動を鑑みてくれるだろうか。

「いつかと、立場が逆だな」

「あの時はあめぇが居てくれて、助かったんだぜ」

「帰ったらチチは居ないしさ、片手しか使えないのにどうやって怪我の手当てをしようかって、途方に暮れててよ」

「おめぇが手作りの軟膏の作り方を覚えててくれてたのも、嬉しかったしな」

悟飯が寡黙な分、悟空は饒舌だった。
悟飯をリビングのソファに座らせて、救急箱を取りに行く間も、傷の手当てをしている間も、悟飯の返事を待たずしてずっと喋っていた。
そんな、悟空のテンションが普段より高めであったことも、悟飯の心境に複雑さを増す要因となった。
ひさびさに悟飯とふれあえたのが、よほど嬉しかったとみえる。
だけど、あんな触られ方は二度と御免だ。

「この手じゃあ、もう皿は洗えねぇだろ」

手当てを終えた直後にも絆創膏に血が滲んでゆく悟飯の手を握り、悟空はこれ以上もなく優しい声で言った。
その手の暖かさもさる事ながら、負傷した指には触れないところに、悟空の気遣いと為人が現れていた。

「あとはオラに任せとけ。終わったら軟膏を作ってやるから、それまで待ってろよ」

「・・・残りのお皿、ぜんぶ割らないでくださいよ」

「馬鹿言え、オラだってそのくらいできるさ」

冗談めかした悟飯に、悟空もそれなりに返してくる。
会話だけは、日常のそれとまったく変わらなかった。
だがふたりが纏った空気は、見えない手で胸を押さえつけられているかのように息苦しかった。
最後にウィンクを残してキッチンに消えてゆく悟空の後ろ姿を見送った悟飯は、ソファの背もたれにぐったりと背中を預けると、瞼を閉じて胸につかえた重苦しい塊を吐き出した。
さっきの出来事は何だったのか。
悟空の触り方が変だった。
父親が息子の身体の筋肉を確かめるのに、あんな触り方をするだろうか。
悟飯に経験はないが、男女が愛し合う時に男性が女性に愛撫を施すとしたら、あんな触り方をするものではないだろうか。
それとも、ただの思い過ごしか。
悟空は本気で、悟飯の筋肉を確かめたかっただけなのか。
あれを変だと思う悟飯の感じ方が、可笑しいだけなのか。
それにしては、悟空の手はあまりにも際どいゾーンにまで伸びていた。
あれでは、悟飯が危機感を抱くのもむりはない。
いや、悟空のことだから、きっとあのまま脚の筋肉も触ろうとしていただけなのだろう。

「参ったなぁ、もう・・・。デリカシーなさ過ぎ」

脚を触るなら、前以てそう言ってくれれば、あんなに警戒しなくて済んだのに。
そもそも悟飯のように特異な事情を抱えていない息子であっても、思春期の真っ只中に自分の父親からデリケートゾーンに侵入されたら『何やってんだよ!』と一喝しそうなものだ。
例えそれが、単なる冗談だと百も承知の上でも。
だが、さきほどの悟空がその例えに該当するかどうかは、悟飯にはわからない
悟空の行動のすべてを冗談で片付けるには不可解な点がいくつかあったし、悟飯の指を口に含んだ時のあの眼も怖かった。
最近の悟空は、以前にも増してあの眼をするようになった。
怒らせたわけではないと思うのだが、怒らせていないのだとしたら、あの眼には何か理由があるのだろうか。
それとも、意味があるのかも知れないと、悟飯が思いたいだけなのか。
思い出せば思い出すほど、悟飯は思考の深みへと沈んでいった。
解答の見えないまま思案に暮れている今のさまは、まるで巨大な迷路に迷い込んでいるかのようだった。
さっきから同じところを何度も何度もぐるぐると廻っている。
どうしてこんなことをするのかと悟空を問い詰めたのならば、この迷路から抜け出せるのだろうか。
いや、真に悟空に他意がなかったのなら、却って悟飯が窮地に立たされる羽目に陥ってしまうのではないか。
と、キッチンから皿たちの破滅の大合唱と悟空の悲鳴が聞こえ、思考を中断させられた悟飯は驚愕に身体を竦めると、失望と諦めに似たため息を吐いた。
どうやら、また悟飯の出番のようだった。

「弱ったなぁ・・・」

誰に向けたものかわからないぼやきを小さく漏らすと、悟飯はやれやれとソファから腰を上げた。
悟飯を呼ぶ悟空の声に応えてキッチンに向かいながら、悟飯は、自身の心が粉々に砕け散った皿のように脆くなったのを感じていたのだった。





END




おまけ


「・・・で?おめぇたちは親子して仲良く皿で指を切ったって言うだな?」

「いや~、ひさびさに皿洗いしたら、手が滑っちまってよぉ」

「すみません、お母さん。・・・使ったお皿は全滅でした」

「おめぇたちはもう、キッチンに入るでねぇ!!」



ここまでお読み戴きありがとうございました。
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