【割れ物につき取り扱い注意】
「んっ!?」
笑いを止めさせようと悟飯の両肩を掴んで身体を引き起こさせた悟空が、何やらまた新たな発見をしたらしかった。
一段階まえに戻って悟飯に体をぴったりと合わせたまま、今度はふたりの肩を交互に比べている。
「どうしたんですか、お父さん?」
「いや、おめぇの方がちょっとだけ肩幅が狭いかな、と思ってさ・・・」
「そんな筈―」
「うん、間違いねぇ!!肩幅はオラが勝ってる!!」
そんなことで勝ち負けを決めなくても、と悟飯は半ば呆れたが、なるほど、さきほど身長で悟飯に負けたのがよほど悔しかったとみえる。
武道以外では勝ち負けにこだわらない悟空にも、どうやら負けず嫌いの一面があるらしい。
こんなところは悟天によく似ている。
悟天が父親にそっくりなのは何も外見に限ったことではないと、悟飯は弟の顔を脳裏に浮かべた。
こうして別のことを考えてでもいないと、頬を摺り寄せてくる悟空の吐息に、心が平静さを失ってしまう。
「こうして比べてみるとよ、何だかおめぇの方が、オラよりひとまわり細っこい気がすっぞ?」
「えっ!?そ、そうですか!?」
「ああ。そういやおめぇ、ここんとこぜんぜん修行してねぇもんなぁ」
「はい。・・・すみません」
「ま、他にやりたいことがあるのに、無理して修行しろなんて言わねぇけどよ」
責める口調ではなく、いつもの調子で悟空は明るく言い放った。
悟空の希望がどうあれ、幼い頃から学者を志してたゆまぬ努力を続ける悟飯に武道家の道を勧めるのが酷だということくらい、悟空だって弁えている。
戦闘力向上の願望のない悟飯が修行に勤しまなければならないのだとしたら、その時は地球の運命が切羽詰まった状況に陥っているのに他ならない。
悟飯が好きな勉学に打ち込めている今のこの現実が、地球が平和であることの何よりの証だった。
地球が平和であるならば、それに越したことはない。
第一、日々の修行などなくとも目の前のこいつは、その気になれば驚くほどの短期間に悟空を超えることも可能だった。
それこそ、悟空の血の滲むような努力や修行に費やした時間を嘲笑うスピードで。
だが、そのせいで―
「でも、そのせいで筋肉が落ちてんのかもな」
と納得した声で悟空は言い置くと、悟飯の背骨の両脇に親指を添えて、筋肉の付き具合を確かめるように背中をなぞり始めた。
途端にぞわりとした感覚が背中の一部を襲い、両腕の皮膚が泡立って悟飯を困惑させる。
そんな悟飯にはお構いなしに背筋を降りる悟空の両の親指が途中で肩甲骨の外側を辿り、悟飯の背中から肩にかけて小さな痙攣が起こった。
「はぅっ・・・!」
「どうした?」
「く・・・くすぐったくて・・・」
悟飯の言葉に嘘はなかったが、生まれて初めて味わうこの感覚は、くすぐったさに似ているが些か表現が異なるものにも思えた。
快でもあり、不快でもある。
なんとも形容し難くて、今の感覚にいちばん近い表現で説明した悟飯の言葉を額面通りに信じたのか、動揺する悟飯とは対照的に、そうか、とだけ言った悟空の反応は拍子抜けするほどあっさりしていた。
この時、驚いて悟空が手を離してくれた方が、悟飯には幸運だったに違いない。
だが、悟空の手は離れるどころかその後も下降を続け、時々、悟飯の脳を痛みではない何かが掠めていった。
わけがわからぬまま呼吸と心臓の動悸が乱れ、それを悟空に悟られまいと、悟飯は身体と心を固くした。
「やっぱり、腰もオラより細ぇなぁ」
そんな悟飯の努力が功を奏したのか、悟空は悟飯の変化にはまるで気付いていないようで、両脇から悟飯の腰を掴んでは独り言のように呟いた。
この際はもう、どちらが体格が良いとか筋肉が付いているとか、そんなことは悟飯にはどうでも良かった。
男としての見栄やプライドも関係ない。
ただ、この場を無事に乗り切れれば、それで良かった。
ところが、両脇を掴まれたまま悟空に親指で腰をすいと撫でられ、今度こそ悟飯は目に見えてはっきりと身体を震わせた。
「んんっ・・・!」
悟飯の脳を何かが鋭く直撃し、それが頭の片隅で小さく弾けて脳の一部を侵食する。
わずかに思考力を削られた上に脳にうっすらと靄がかかり、悟飯は悟空の行動に抵抗も拒絶も抗議もできずにいた。
悟空はといえば、この期に及んでも今だに悟飯がくすぐったがっていると思っているのか、明らかに可笑しな悟飯の反応にもまるきり無関心で、悟飯の腰を掴んだ手をさらに下へと滑らせる。
ふいに、指の腹と手の平を使って悟飯の身体の表面を擦る悟空の手が方向を変え、腰骨を通って脚の付け根に滑り込んできた。
その手が、中指にだけわずかに力を入れながら股関節に沿って太腿の内側へと進み、悟飯はそれ以上の侵入を阻止すべく咄嗟に悟空の手首を掴んだ。
悟飯の手から落下した皿が他の皿とぶつかって断末魔の悲鳴を上げても、この時の悟飯は即座に対処する行動力を失っていた。
割れた皿を回収するべき手は悟空の手首を掴んだままでブルブルと震え、苦しそうに肩で呼吸する息を吐き出す唇も青く、全身は恐怖と混乱に戦慄いていた。
今、悟空はどこを触ろうとしていたのか。
悟飯が止めなかったら、あの手はどこを触っていたのか。
ひとつの疑問だけが頭を支配し、脳が発した危険信号に、悟飯の心臓は極度の労働を強いられていた。
「あ~あ、皿、割っちまったな」
戦々恐々とした悟飯の様子を気にも留めずに悟空はあっけらかんと言い放ち、そのあまりにも呑気な物言いに、悟飯は悟空を睨みつけたい衝動に駆られた。
(誰の、せいでッ・・・!)
自分のせいで悟飯が皿を取り落としたことくらい、承知している筈だ。
なのに、気付かないフリをしてとぼけてる。
「・・・すぐに片付けます・・・」
努めて冷静に、悟飯はひとことだけ返した。
大声を出したくても、吐き出した息の半ぶんしか声にならない今の状況では、土台むりな話だった。
こんな状態で、よくぞ悟空の行動を止められたものだ。
さしずめ、火事場の馬鹿力といったところだったのだろうか。
だけど、それくらい追い込まれていた。
もしもあのまま悟飯が悟空を止めずにいたならば、あの後どうなっていたかなんて、考えたくもない。
いずれにせよ、最後まで悟空が誤解してくれていたのは幸いだった。
おかげで、思ったよりも早くダメージから脱却できそうな気がする。
悟飯は自身を落ち着かせるように嘆息をひとつ漏らすと、悟空の手首を離して、割れた皿の破片へと手を伸ばした。
すると、自由になった悟空の指が離れる間際に未練がましく悟飯の腰骨をなぞり、悟飯は思わずびくりと身を竦ませた。
「痛ッ!」
「どうした、悟飯!?大丈夫か!?」
身体が竦んだ拍子に手元が狂い、割れた欠片で指を切った悟飯が小さく上げた悲鳴に慌てて悟空がシンクの中を覗き込むと、白い泡の一部分が徐々に赤く染まりつつあった。
さすがに今度ばかりは不測の事態だったのか、悟空の声は本気で悟飯を心配していた。
「大丈夫です、ちょっと切っただけですから」
「おめぇがそんなにくすぐったがるとは思わなかったんだ。くすぐっちまって、悪かったな」
やはり、悟空は悟飯がくすぐったがっていると思っていたのだ。
あの時、くすぐったいとは微妙に違う可笑しな感覚に襲われていたなどと、知られなくて良かった。
ぬるま湯で手の泡を流しながら、悟飯は心の中でこっそりと安堵のため息を吐いた。
流れるお湯が傷口に沁みてズキズキと痛んだが、戦闘で負った打撲傷や裂傷に比べれば、これしきの怪我はどうということはない。
そこへ、悟飯に体を押し付けるようにして悟空が手首の泡を流し始め、悟飯はさりげなく横にずれて悟空から逃げる体勢に入った。