【迷路からの脱出】

父親としては仲の良い我が子たちの姿を微笑ましく思うが、男としては、新たな生を得てから悠に半年が経とうとしているのに、未だに悟飯の中での悟空が『家族』の枠を超えていない現状に歯痒さと焦れったさを感じてしまってどうしようもない。
あの日、姿が見えないのに一本のラインで悟飯と繋がったあの電話の最中に、悟飯と心まで繋がったように感じたからこそ、尚更もどかしい。
悟飯に声を届けてくれたあの電話のように、この想いが悟飯に届いているのかどうかがわからないこそ、尚更。
今のこの状況はまるで、狭い隙間に落ちた物を拾おうと懸命に腕を伸ばすさまに似ていた。
確実に指先は届くのに、指の間に挟んで掴み上げるには至らない、あの距離感に。
悟飯の部屋に辿り着くと、悟空は掛け布団をはがしてその下から毛布を引っ張り出した。
チチが整えた布団が多少乱れてしまったのは、致し方ないだろう。
と、毛布を抱え上げた悟空の眼に勉強机の上のレターセットが映り、女の子からのラブレターに悟飯がわざわざ返事を書いていることに興味をそそられた悟空は、毛布をベッドに投げると何気なく勉強机に向かった。
帰宅してから夕食までの短い時間、やることがあるからと悟飯が部屋に閉じ篭ったのは、ラブレターの返事を書いていたからなのか。
こんな面倒なことは放っておけば良いのに、こういうところは律儀というか、義理堅いというか。
と、勉強机に近寄ると、便箋の下に重ねられた、ページが開いたままのノートが眼に入った。
しげしげと眺めるまでもなく、便箋に半分近くを覆われたノートには、悟空の似顔絵が描かれてある。
ただの息抜きなのか単なる気まぐれなのか、悟飯は勉強の合間に父親の似顔絵を描く癖があった。
悟空が不在の7年の間にもこの癖は治っていなかったらしく、溜め込まれたノートにも1冊につき1ページは必ず悟空の顔が描かれてあるのを、チチに見せられたことがある。
悟空の性格を象徴してか、悟飯のノートに描かれた悟空たちはどれも笑っていた。
絵の才能の有無はともかくとして、このノートの悟空も例に漏れず呑気な顔で笑っている。
そう、モデル本人の複雑な心境など何も知らないで。

「悟飯のやつ、勉強はできても絵の方はからきしだな。どうせなら、もっと男前に描けよ」

邪気のない似顔絵とは違う照れ笑いを浮かべながら悟空は、嬉しさを隠して悟飯の絵の出来栄えをわざとこき下ろす。
が、次いで洒落っ気のないオーソドックスな便箋に書かれた文字を眼で追った悟空の脳は、文字の意味を理解する能力を失った。
悟空の知らない誰かが悟飯の部屋で悟飯の文房具を使い、悟空の知らない相手に宛てたのかと非現実的な錯覚を起こし、何度も読み返したその文字が紛れもない悟飯のものだと認識した途端、悟空の世界は色を失った。



『ごめんなさい。僕には好きな人がいます。僕の片思いだけど、この気持ちを大切にしたいから、君には応えられません』



”好きな人”の文字の集合体を見た時、悟空の頭に真っ先に浮かんだのはビーデルの顔だった。
だが、文章をよく理解するとビーデルが相手なら悟飯が片思いと表現するのはおかしいと気付き、ビーデルの可能性は否定された。

―誰、だッ!?―

ビーデルでないなら、悟空の知らない人間なのか。
それとも仲間内の誰かか。
ハイスクールの生徒なのか。
学園祭でオレンジスターハイスクールに足を運んだ時に、該当する人物が居ただろうか。
混乱する頭で何度記憶を掘り起こしてみても、そこには悟空が望む答えも有力な手掛かりも埋まってはいなかった。
ただひとつ、今の悟空にもわかった確実なことは、己の体中の血液が一気に下に引いたことだけだった。
おそらく、今の自分は青褪めた顔をしていることだろう。
だが―
何故、悟飯はラブレターの返事を書いている最中に父親の似顔絵を描いたのだろうか、との疑問が該当者を模索する脳の片隅に浮かんできた。
これは、ただの偶然なのだろうか。
たまたま、開きっ放しのノートの上で返事を書いていただけなのか。
それにしては、変だ。
バリバリの進学校であるオレンジスターハイスクールでは、毎日欠かさず宿題が出される。
自主学習の時間を確保する為、ハイスクールから帰宅してすぐにこの宿題に取り掛かれるように、几帳面な性格の悟飯は毎朝勉強机の上を整理してから登校する。
ということは、このノートは朝から開きっ放しになっていたのではない筈だ。
となれば、やはりラブレターの返事を書いている途中で、悟飯は父親の似顔絵を描いていたことになる。
一体、何故―?
とくん、とひとつ大きく打ち据えた心臓の痛みに、悟空は息を詰めた。
その瞳が、便箋に書かれた『好きな人』の文字と自分の似顔絵を交互に追う。
青褪めた頬には徐々に血色が戻り、凍えた血液が熱を伴って再び体内を駆け巡るのを、悟空は感じていた。
馬鹿な、との考えが脳裏を過るが、もしかしたら、と思う心は、該当者が似顔絵の人物と一致する可能性を見出していた。

(んなわけ、ねぇか)

だが、これまで何度も期待しては外された過去を思い、逸る心を無理矢理抑え込むように、悟空は深く長く静かに息を吐き出した。
恥じらいにほんのりと染まった頬、戸惑いに揺れる黒い瞳、困惑気味に薄く開いた唇、電話を通して聞いた優しい声。
悟飯の反応はいつも、悟空の男心をくすぐった。
悟飯にくすぐられた男心は時として自惚れを生んだが、その心境は、どんなアプローチも意味深な台詞も次に顔を合わせる時には悟飯の中でリセットされてしまう虚しさに、たちどころにかき消されてきた。
今回も、期待しては裏切られる、いつものパターンなのだろう。
そう思うと、自惚れの気持ちがすう、と引いてゆく。
今日だって、手の甲にキスまでしたのに、悟飯はまるで気にも止めていなかった。
そうやっていつも、悟飯の中での悟空は『思春期の息子に過度のスキンシップを求める父親』で終わってしまう。
本当は、あの場に悟天がいなければ互いの額を合わせたあの時に、唇にキスしたかったのに。
手を掴まれても、手の甲にキスされても、逃げなかった悟飯。
もしもあの場に悟天がいなくて、あの時唇にキスしたとしても、悟飯は逃げなかったのだろうか。
そして、その後どんな言い訳で自分を納得させるのだろうか。
悟空の行動が明らかに『息子を可愛がる父親』の領域を超えたなら、少しは悟飯も恋愛感情の存在を意識してくれるのだろうか。
間接キスは意識していたのに、とひとつ大きなため息を洩らすと、ため息の風がふわりと便箋を揺らし、その下から似顔絵の隅に書かれた文字が姿を現した。

(何だ?何か書いてある?)

悟空が見たこともない外国語だった為に解読は不可能だが、文の最後尾にクエッションマークがついていることから、その一文が疑問文であるのだけはわかった。
しかも、さらにその下には、外国語を訳して消しゴムで消したらしい後が残っている。
この訳を慌てて消したのか、すぐ近くには消しゴムが転がっていた。
文字は消されていても、筆圧が高いから判読は可能だった。

(何て書いてあんだ?ええと・・・)

お 父 さ ん は

(・・・オラ?オラが何だって?)

僕 が 好 き で す か ?















「まだ宿題終わらねぇんか?」

ドアをノックすると同時にするりと室内に体を滑らせ、悟空は机に向かう悟飯の背中に問うた。
明日は休日の為、いつもの倍の量の宿題が出されたと悟飯が洩らしていた。
そう、まずは日常的な会話から。

「ええ。でも、もうすぐ終わりますから」

―だろうな。
そんなことは、わかっている。
何せ、目の前の息子は根本から頭の作りが他人とは違うのだから。
加えて、日々の努力も怠らない。
バリバリの進学校のオレンジスターハイスクールでも、周囲より悠に頭ひとつ分は抜きん出ているくらい、容易に想像できる。

「そっか。高校生になってから忙しそうだな、おめぇ」

その忙しい合間を縫って、ラブレターの返事を書いていた。
ついでに、父親の似顔絵も。

「はは、もう慣れました」

可愛い弟をひとり放ってソファで熟睡してしまうほど、疲れていたのに?

「いろいろと大変そうだなぁ。無理してねぇんか?」

―違う。
そんなことが訊きたいんじゃない。
どうして、ラブレターの返事を書いている途中で父親の似顔絵を描いたんだ?
毎日、一緒にいるのに。
『僕が好きですか?』
―あれは、どういう意味だ?
息子として大事にされていることくらい、父親に愛されていることくらい、訊かなくてもわかっているだろうに。
ならば、悟飯が求めている応えは悟空が期待しているものと同じ―いうことなのか?

「そうですね、大変だって感じる時もあるけど・・・平気です。僕は今とっても幸せですから、多少の無理だってへっちゃらなんです」

と思いがけない返事が返ってきた。
幸せ?
―片思いなのに?
そう、スタート地点に立ったばかりの頃は、一緒に居るだけで、傍に居るだけで幸せを感じられるのだ。
かつての悟空もそうだった。
だが、そこから一歩でも足を踏み入れれば、その先には出口の方向も見失うほどの巨大な迷路が待ち受けている。
八方塞がりで行く手も見えず、何度も袋小路に突き当たり、幾度も同じ道を通り、自分が何処から来たのかすらも忘れてしまう。
それでも、来た道を辿ったところで元のスタート地点に戻れる保証がない以上、袋小路にぶち当たるのを覚悟の上で先に進むしかない。
そうして昨日やっと、進んだ先にぼんやりと朧げだが出口らしきものを見つけた。
この出口が本物なら、長い間閉じ込められていた迷路からようやく抜け出せる。
そう、この出口が本物ならばー
『好きなヤツが居るんだろ?』
『それって、もしかしてー?』
悟飯に訊きたいことは、たくさんあった。
だが、それらの問いはすべて、次の一言に対する悟飯の反応で疑問は解消される筈だ。
さり気なさを装って伝えたならば、きっと悟飯も不審感を抱かないだろう。
目の前に現れた出口がフェイクでないのを祈って、心の中で何度も呟いた肝心なその一言を、初めて悟空は音声へと変えた。

「ならいいんだ。あんま無理すんなよ。好きだぞ、悟飯」






END

ここまでお読み戴きありがとうございました。
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