【迷路からの脱出】







相手の心がわからない恋は、迷路に似ている―





悟空が入浴を済ませてリビングに戻ると、テレビと向かい合わせのソファからは小さな頭がひとつ覗いていた。
おや、と不思議に思い、悟空は入浴で乾いた咽喉を潤す為にキッチンに向かう予定だった足をリビングのソファへと向けた。
今日のこの時間帯にとある番組で、悟飯が扮するグレートサイヤマンの特集を組むと、かなり以前からTVでCMを流していた。
今やミスターサタンに次いで世界的なヒーローとなったグレートサイヤマンは熱烈な支持者から子供のファンまでと幅広い世代に人気が高いだけあって、TV局初の試みに全世界は注目し、番組のCMに至ってはくどいほど頻繁に見かけたものだ。
その番組を兄弟で一緒に見ようと何日も前から子供たちの間で約束が交わされていたらしく、夕食時にも甘えん坊の次男坊は興奮に瞳を輝かせながら兄に念押しをしていたのだった。
番組が終わったら子供の悟天はすぐに就寝できるように先に母親と入浴を済ませ、悟飯は用があるからと一旦は自室に戻ったが、弟に呼ばれて番組の開始前には再びリビングに姿を現した。
悟空がバスルームに向かう時にも、確かにソファには兄弟で並んで座っていた。
ところが、悟空がバスルームから戻ってみると、ソファから見えた頭はひとつ足りない。

「悟天、おめぇひとりだけか?兄ちゃんはどうした?」

不思議そうに問い掛けると、寂し気に見えた頭が父親の声に困った様子で振り向いた。

「お父さん・・・」

「ん・・・?」

尚もソファに近寄って背もたれの向こう側を覗き込むと、猫のように体を丸めた悟飯が横たわっていた。

「お兄ちゃん、寝ちゃった・・・」

兄の活躍を見ながら兄弟で盛り上がるのを楽しみにしていたのだろう、悟天の声がしょげて聞こえた。

「ったく、しょうがねぇやつだなぁ・・・。いくら疲れてるからって、弟をほったらかしてひとりで寝ちまうなんてよ」

一方の悟空の声には長男に対する呆れと、次男への同情が滲んでいる。

「お兄ちゃん、さっき顔が赤かったよね・・・。ご飯もいつもより食べてなかったし、やっぱり風邪ひいちゃってたのかな。・・・お父さん、どうしよう。お兄ちゃんが具合悪いのに、僕、我が儘言っちゃったのかな?」

ここまで聞いてやっと、悟空は悟天がしょげている理由を正確に把握した。
悟天は、兄に放置されて寂しがっていたのではない。
大好きな兄を自分が困らせてしまったことへの罪悪感と、風邪で具合が悪いだろう兄への憂慮からだった。

「大丈夫、兄ちゃんはちょっと疲れちまってるだけだ。メシをあんま食わなかったのも、メシ前にあんなにいっぱい木の実を食ってたからだ。第一、おめぇたちにはサイヤ人の血が流れてるんだから、風邪くらいどうってことねぇ。すぐに治る。だから心配すんな」

悟空が諭すと、その声の明るさと穏やかさに、悟天は瞳に今にも零れ落ちそうな大粒の涙を溜め込んだ顔をようやく上げて、自分を慰める父親を振り仰いだ。

「それに、兄ちゃんとは何日も前から約束してたんだろ?その約束を破ったりしたら、兄ちゃんはおめぇに申し訳なく思うんじゃねぇのか?兄ちゃんはおめぇとの約束を守りたかっただけだ、おめぇが気にすることはねぇ」

父親としての立場から悟空は長男の心境を次男坊に諭したが、それでもまだ心に引っ掛かるものがあるのか、悟天は『でも』と小さく呟くと俯いたきり黙り込んでしまう。
会話が途切れて束の間の静寂が降りたふたりの耳に規則正しい悟飯の寝息が微かに聞こえ、悟空はふっと口もとを緩めると更に言葉を繋いだ。

「見ろ、気持ち良さそうに寝てるじゃねぇか。オラ、具合が悪いやつはこんなに気持ち良さそうに寝られねぇと思うぜ」

半ベソの悟天を優しく説き伏せると、見る見るうちに悟天の顔が歪み、瞳に溜まった涙が一気に噴き出した。

「ひっ、く・・・良かっ・・・た・・・!ひっく・・・。よか・・・っ」

不安が解消された悟天の瞳から兄への憂いと己への叱責の念が堰を切ったように溢れ出し、悟天の純粋さを具現化した綺麗に透き通った涙に、例え己が泣いたとしても、その涙はこんなに透き通ってはいないだろう、と悟空は思った。
我が儘を言って兄を困らせたのではないか、自分との約束を守る為に体調の悪い兄に無理をさせたのではないか、と健気に兄を慮る悟天の無垢な優しさは、悟飯の心欲しさに悟飯を困らせ、悟飯が困っているのを承知していながら悟飯を求める行動がエスカレートしてゆく悟空とは大違いだった。

「ホラ、泣くな、泣くな。泣いてちゃTVが見らんねぇだろ。兄ちゃんの活躍を見たいんじゃなかったのか?」

悟空が笑って大きな手で頭を撫でてやると悟天は慌ててパジャマの袖で涙を拭い、力強く大きく頷いて、いつもの子供らしい笑顔を見せた。
悟天が立ち直った安堵に悟空も笑みを返したが、問題はもうひとつ残っている。
緊急、且つ最大の問題が。

「さて、と。こいつをどうするかだなぁ。このまんまじゃ、今度こそ本当に風邪をひいちまうぞ」

「えっ?」

「あ・・・、いや、何でもねぇ・・・」

気の緩みと新たに生じた問題につい口を滑らせてしまった迂闊さを、悟空はおどけて誤魔化した。
悟飯が風邪をひいたかも知れないと幼い心を痛める悟天に、悟飯が顔を真っ赤にしていた本当の理由など教えられる筈がない。
悟空の行動に悟飯が『間接キス』を意識していたと説明したところで、子供の悟天には理解が難しいだろう。

「ちょっと待ってて、お母さんを呼んでくる」

この一言で、これまでも同じ場面に遭遇する度に悟天には唯一の保護者である母親を頼る意外に方法がなかった過去を思わずにはいられず、今や孫家には保護者がもうひとり増えた状況を悟天が忘れている事実を、悟空は黙って受け止めた。

「兄ちゃん、本当に寝ちまったんだなぁ。毎晩遅くまで勉強して疲れてるんだ、しょうがねぇべ」

悟天がキッチンに消えてすぐに、濡れた手を腰に巻いたエプロンで拭きながらチチがリビングに現れた。
就寝時間まで放送される番組を兄と共に見たがる悟天に合わせて入浴を先にした為、チチはこの時間になってもまだ夕食の後片付けに追われていた。
ふたりがバスルームに向かう頃になっても大食漢の悟空はひとりだけ夕食が終わらず、チチは悟空にゆっくり食べて構わないと残して悟天と連れ立ってリビングを後にした。
チチが用意した料理に悟飯が普段よりも箸を付けなかったのも、悟空の夕食が終わらなかった原因であっただけに、その時のチチは不満げな様子は一切見せなかった。
今も、入浴も済ませないうちにソファで熟睡する悟飯に腹を立てるでもなく呆れるでもなく、まるで『いつものこと』のようにチチの対応はあっさりしている。

「チチ、このままじゃマズイだろ。オラがこいつを部屋まで運んでいいか?」

と、尋ねるまでもなく己の提案が決定事項であるのを確信して告げる悟空に、チチは思いがけないことを聞いた風で一瞬だけ目を見開くと、笑って悟空の言葉を打ち消した。

「それには及ばねぇ。2・3時間もすりゃあ、悟飯は自分で起きっから大丈夫だ」

「大丈夫って、そりゃねぇだろ。こんな所に寝かせておいたら、こいつ風邪ひいちまうんじゃねぇのか?」

「悟飯は丈夫な子だ、風邪なんかひかねぇ。それに、こんなことはよくあることだべ。いっつも、2・3時間も寝たら悟飯は自分で起きて風呂へ行くんだ。風呂にも入ってねぇのにベッドに運んで朝まで寝ちまったら、明日も学校があるのに困るのは悟飯だべ」

チチの『よくあること』の台詞に、確かにソファでうたた寝をする悟飯を見かけたのは一度や二度ではないと、悟空は納得した。
悟空の知らない間の悟飯を知っている分だけ、チチの発言には説得力があった。

「悟空さ、悪いけど悟飯の部屋から毛布を持って来てけろ」

「わかった。ちょっと待ってろ」

と、両親のやり取りを聞いて安堵した悟天が、兄を起こさないように注意を払ってソファに座り直す。

「な?父ちゃんが言った通りだろ?兄ちゃんはちょっと疲れただけなんだってば。母ちゃんも同じこと言ってたじゃねぇか」

申し訳なさそうにソファの隅っこに座る悟天を見下ろしながら悟空が再度言って聞かせると、悟天はみっともないくらいにぼろぼろ泣いた先刻の自分に照れたように、丸い頬を染めて笑った。
その頭をくしゃりと撫でつけると、悟天の隣りでぐっすり寝ている悟飯を一瞥してから、悟空はソファに背を向けて悟飯の自室を目指した。

(本当に仲良いな、あいつら・・・)

眠っていて意識などない筈なのに、まるで何かから守るように弟を自身の体で包み込んでいた悟飯と、何日も前からの約束を反古にされたにも関わらず、兄に対して怒りを覚えるどころか大粒の涙を零すほど兄の体調を気に病んだ悟天。
生き返った後に実際に目の当たりにした我が子達の兄弟仲の良さは、悟空の想像を軽く超えていた。
それは今日のように、悟飯のもとへと一直線に飛んで行った悟天と、悟天を受け止めると高々と抱え上げて幸せそうに微笑んだ悟飯の局地的な一場面ばかりではなかった。
朝、起床した悟飯はまず一番にダイニングテーブルにつく悟天を見つけ、次いでその視線は悟空へと流れる。
ハイスクールに登校する兄を毎朝玄関先で見送る悟天と、帰宅すれば真っ先に弟を抱き上げる悟飯の日課は、立場が逆のパターンでも必ず実行されていた。
こんな風に毎日、悟飯にとって父親が一番ではない現実を嫌と云うほど見せつけられる。
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