【幸せな片想い】
カリッ
またひとつ、口の中で木の実が砕ける。
途端に口内に広がる、淡白だけど香ばしい秋の香り。
「美味しい」
僕は、もう何度目かになるこの言葉を呟いた。
毎年秋になると、僕は必ず一度はこうして、秋の恵みをお腹がいっぱいになるまで取り入れる。
これがないと、もうじきやってくる冬を越せそうな気がしない。
そう、ピッコロさんに荒野に捨てられた、あの歳から―
それまでお母さんが調理してくれたものでないと食べられなかった僕が、自然の中で採取できるものの中で、図鑑で得た知識から食べられるものとそうでないものを選別し、生きる為には火の通っていないものも口に入れなければならなくなった。
火を通さなくても食べられるものの中でも淡白な味の木の実はどれも小粒だけど栄養価が高く、ある程度摂取すれば熱量は炭水化物のそれと大して変わらなくなる。
幼少の身でありながらひとりでサバイバルな生活を送ってたけど、おかげで僕は栄養失調にならずに済んだ。
・・・まあ、恐竜くんの尻尾のおかげでもあるけれど。
でも、毎食恐竜くんの尻尾にありつけるとも限らない状況下では自然の恵みは必要不可欠な栄養源で、朝目覚めたら一番に木の実を集めるのが毎日の日課だった。
そうして僕は、秋の森の美味しさを知った。
森は、動物たちだけではなくて、僕たち人間にも様々なものを与えてくれる。
だからお父さんもお母さんも、森の近くから離れられなかったんだろうな。
僕は家の裏手にあるパオズ山の森から少し外れた木の根元に座り、上着いっぱいにキャッチしたナッツ系の木の実を無心に貪っている。
実りの多いこの時期は、木の幹をちょっと揺らしただけでたくさんの木の実が落ちてくる。
それを素早く脱いだ上着で受け止めると、木の実の山ができる。
ナッツ系の木の実の中には火で焙らなくても生のままで食べられる種類もあり、僕は図鑑で得た知識と荒野での経験から生で食べられるナッツの木を選んで、毎年こうしてひとりで黙々と木の実を頬張っている。
今年の木の実は、去年よりもずっと美味しく感じる。
学園祭の時にはセピア色に見えていた景色も、今では赤や黄色の色とりどりな秋の紅葉が、くっきりと綺麗に縁取られて見える。
理由はわかってる。
学園祭当時の僕は、少しばかりセンチメンタルな気分になっていたと思う。
あの頃は、自分の心がわからなかったから。
お父さんが学校に来ると恥ずかしいと思う反面、来ては貰えないだろうことに寂しさを感じていた。
そのチグハグさを、親への依存心と自立心の間で葛藤する思春期特有の悩みだとばかり思い込んでいたけど、実際は違っていた。
お父さんを、意識していたからだったんだ。
僕に絡んでくるお父さんの行動に戸惑ったり、何故かお父さんから逃げたくて仕方なかったりしたのも、同じ理由から。
それが、あの電話での一件以来、僕の中でのお父さんへの戸惑いは消えていた。
あの日お父さんと電話で話したことで、お父さんと繋がっている心の糸のようなものを感じて、初めて僕は自分の気持ちに気が付いた。
お父さんが生き返った翌朝、寝起きのお父さんの声にドキリとしたのも、お父さんに抱き締められそうになる度に胸が苦しくなったのも、時々お父さんを格好良いと思っていたのも、そういうことだったんだ。
この気持ちは一体いつからだったのだろうかと自分の中の記憶を探ってみたけれど、そこから明確な答えは見つけられず、結局僕はその答えをうやむやなままにしている。
だって、物心ついた時からお父さんは大好きだったし、戦士として戦闘に参加するようになってからは、誰よりも強くて無限の可能性を秘めたお父さんを子供心に格好良いと思っていたし、お父さんとの絆や信頼関係は絶対的なものだったから、それがいつ頃どう変化していったのかなんて、僕にもわからないもの。
ただひとつ確かなのは、いつからか僕がお父さんの中に『男の人』を見ていたこと、それだけ。
お父さんを『男の人』として見ていたからこそ、お父さんにスキンシップを求められる度にドギマギしたり、お父さんの行動にハラハラさせられていたんだ。
それがわかってからというもの、相変わらずお父さんに振り回されながらも、僕はお父さんから逃げなくなった。
逃げても、何も変わらないから。
僕がお父さんから逃げなかったとしたら、僕たちの間の何かが変わるのではないか、というのは僕の一方的な期待に過ぎないとわかっているけれど、少なくとも逃げる必要はなくなったと思う。
お父さんから逃げていた頃は、どうしてお父さんがこんなことをするのかと、毎日同じ所をぐるぐるしてたっけ。
お父さんはただ普通に親子としてのスキンシップを求めていただけなのに、7年の空白なんてなかったかのように振舞うお父さんの行動に、何か特別な意味があるんじゃないか、なんて期待したい気持ちが心のどこかに眠ってたんじゃないかな。
そんな筈ないのに。
でも、お父さんの行動に特別な意味がなくても、高校生の息子に対する父親のスキンシップにしては、お父さんのスキンシップはやっぱり過剰接触だと思う。
きっと、お父さんのことだから、お父さんには僕が幼児だろうと高校生だろうと大した違いはなくて、あくまでも『我が子』として僕に接しているんだろうな。
だから、僕が振り回された。
『僕はもう幼児じゃない、高校生なのに』って・・・。
あのお父さんが、そこの所を深く考えてくれるわけがないのにね。
おおらかで許容範囲が広いお父さんの性格が、今回は仇になったんじゃないかな。
でも、もういいんだ。
何も考えていないお父さんに振り回されながらも、それが結構楽しかったりするから。
だって、この『ドキドキ』も『ハラハラ』も、お父さんが生き返ってくれなかったら味わえなかったことだもの。
騒々しいほどに賑やかな日常生活も思いがけないハプニングも、お父さんが居てくれるからこそ。
だから僕は今、お父さんが生きてこの世に存在してくれる有り難みを、毎日噛み締めている。
僕が学校から帰ると、毎日お父さんがリビングに居てくれる。
毎日、お陽様のようなお父さんの笑顔が見られる。
毎日、張りのある明るいお父さんの声が聞ける。
毎日、僕に触れるお父さんの温もりを感じられる。
セルゲーム前までは当たり前だった日常が今の僕にはひどく幸せで、そんな当たり前の日常が、今の僕の心を暖かく満たしてくれる。
もう、ひとりきりの草原で涙することもない。
枕を濡らす悲しい夢からも、開放された。
そうして僕の世界は、鮮やかな色を取り戻した。
だから今年の木の実は、去年よりもずっと美味しい。
その幸せな美味しさを、僕は今お腹の中に溜め込んでいる所。
実はもうひとつ、肩を怪我したお父さんの手当てをしている時に気付いたことがある。
オレンジスターハイスクールの学園祭の痴漢騒動以来、お父さんが僕のお尻に触らなくなっていたこと。
お父さんが、知らない男の人からあんな触られ方をした僕の心の傷に触れないように、気を遣ってくれていること。
僕のお父さんへの気持ちと、そのお父さんから大事にされているという事実が、僕の幸福感をさらに大きくしてくれている。
だから、もう暫くは、この幸せな片想いを続けていたいな。
いつかお父さんに打ち明けてみたいとも思ったりもしたけど、その『いつか』は近い未来なんかじゃなくていい。
だって、聞かなくてもお父さんが何て答えるかなんて、容易に想像できるもの。
お父さんのスキンシップに僕が動揺していたなんて訴えたら、お父さんは困惑して。
『参ったなぁ・・・。そんなつもりじゃなかったんだけどな・・・』
って返す。
次に僕が自分の気持ちをストレートに告白したら、お父さんは済まなさそうな顔をして。
『悪ぃな、悟飯。おめぇのことは、息子として大事に思ってんだけどよ』
って答える。
だから、わかり切ったお決まりの台詞を聞く為に、わざわざ『今』打ち明けたりなんかしない。