【Telephone Ⅱ】


スクールバッグから家の鍵を取り出している最中に、リビングの電話が鳴る微かな音を扉越しに聞いた。
木製の色鮮やかな分厚い扉を開き、急いでリビングに飛び込むと、ちゃんと扉を閉めたかどうかも確認せず、スクールバッグを乱雑にテーブルの上に放り出し、電話へと駆け寄る。
何とかコール音が鳴り止む前に、電話に出なければ。
もしかしたら、受話器を取り上げたタイミングが、間一髪だったかも知れない。

「はい、孫です」

そんな慌て振りが相手に伝わって失礼がないように、何とか落ち着き払った声できちんと対応出来た。
・・・と思う。



ところが―



『・・・オラだ』

安堵に胸を撫で下ろす悟飯の耳の奥に飛び込んだ声に、悟飯は言葉を失った。
いつもは弾けるように明るく張りのある声は、電話越しに聞くと、低く、柔らかかった。
毎日身近で聞いている声なのに、電話では初めて聞く声。

「お父さん・・・」

驚きに、胸の内の呟きが、咄嗟に口を突いて出てしまった。
てっきり、弟の塾の連絡網とか、母方の祖父からの近況報告とか、孫家で一番多い母宛の電話だと思っていたのに。
まさか、孫家の中で唯一電話とは縁のない父からだったとは。
これまで一度も使用した経歴なんてないのに、一体いつの間にこんな高等技術を身につけたのやら。

『今、ブルマんトコに居るんだ。何でも、美味しいケーキをご馳走してくれるらしいぞぉ。チチと悟天もこっちに向ってる』

―ああ、なるほど、ブルマさんに家の電話番号を聞いたのか―

父が自宅に電話を入れられた理由も、家族が家を留守にしている理由も、すべてわかった。

「どおりで、家に帰っても誰も居ないわけですね」

滑らかに会話を交わしながら、しかし、悟飯の心は穏やかではなかった。
さっきおから耳元で鳴る心臓の鼓動がうるさくて堪らない。
こんなに大きかったら、電話を通して悟空にも聞こえてしまうのではないか、と疑ってしまうほど。
ほてる頬に比例して体温も上昇している。
おそらく悟飯の周囲の気温も何度か上がっている筈だ。
たかだか一本の電話でこんな風になってしまうなんて、他に自分以外の人間が居なくて、本当にラッキーだった。
とくに、電話の向こうの相手には、こんなにドギマギしている自分を知られたくはない。

『・・・おめぇも来い』

なのに電話の向こうの相手は、そんな悟飯の忙しい心臓を鷲掴みする一言を、悟飯の気も知らずにさらりと言って下さる。
悟空には何の気無しに放った台詞なのかも知れないが、この一言で、悟飯の心臓は爆発した。
いつはち切れてもおかしくないくらいに、全身の血液が一気に心臓に流れ込むのがわかる。
『来い』だなんて、まるで、誘われたら行くのが当たり前みたいだ、と心の片隅で思いながら、もしも行かなかったらどうなるのだろうか、という考えが脳裏を過ぎった。
親に引っ付いている幼児ではないのだから、悟飯が家族と離れて単独行動を取ったところで何の不思議はない。
グレートサイヤマンの緊急出動の要請だって、いつ来るのかわからないのだ。
そんな悟飯の立場を理解している悟空は、悟飯の考えを無視して強要などしないだろう。
事実、生き返ってから後は、学者を目指す悟飯に『修行しろ』なんて一言も言わなかった。
悟飯の意思を尊重する悟空は、悟飯が自分の意に従わないからと云って、腹を立てることもない。
だが、悟飯が『行かない』と言ったならば、がっかりするだろうか。

―がっかり、してくれるだろうか。

「はい、わかりました」

そんな馬鹿な考えとは裏腹に、悟飯は短く返答する。
悟空に呼ばれたなら、千切れてしまいそうな勢いで尻尾を振って主人に駆け寄る飼い犬の如く悟空の元へ駆け付ける己を、悟飯は知っていた。
呼び付けられた先には、悟空がいるから。
悟空に言われた場所へ向かえば、悟空に会えるから。

『待ってる・・・』

低く、優しく、だが力強く、悟空が告げる。
短いたった一言に、言葉にならない悟空の想いを感じた気がして、悟飯は息苦しさに瞳を瞠った。
悪戯なキューピッドが心臓に矢を放ったのか、太い針で刺されたような胸の痛みに、噛み締めた悟飯の奥歯がギュッと鳴る。
そのままどちらも一言も発することなく受話器を握り締め、互いに相手の気配を探った。
一本のラインを通して、悟空が息を呑んだり、息を詰める様子が伝わってくる。
姿が見えない分、目には見えないものが感じ取れる。
悟飯との繋がりを断ち切るのを躊躇うように、悟空が電話を切れずにいるのも。
このまま悟飯が受話器を置かなかったら、悟空はいつまでも受話器を戻せないだろう。
そうして身じろぎもせずに立ち尽くす悟空を慮って、悟飯は静かに受話器を置いた。
きっと、カプセルコーポレーションにいる悟空も、ようやく安堵して受話器をフックに戻したことだろう。

受話器を置くと即座に、悟飯はスクールバッグと一緒にテーブルに放った家の鍵を取り上げ、一目散に玄関へと向かった。

顔が熱い。

火照る体も熱い。

じっとしているだけでも汗が吹き出す夏でもないのに、額と脇の下が緊張の汗でじっとりと濡れている。

『待ってる・・・』

急ぐ悟飯の頭の中で、悟空の言葉がリピートしていた。
待っている、と言ったからには、悟空は悟飯の訪れをいつまでも待ち続けることだろう。
それこそ時計の針が深夜を回っても、悟飯を信じてひたすら待ち続けるだろう。
孫悟空とは、そういう男だから。



今日、一つだけ気が付いたことがある。
気が付いたからには、きっと、相手も自分と同じ気持ちでいたくれることを望んでしまう。
それはとても恐いことだけど、いつか話せる勇気が持てたら打ち明けてみよう。
親子のスキンシップというよりは、まるで恋人同士の触れ合いを悟飯に求めていえるように感じる悟空なら、茶化したりはぐらかしたりなどせずに、真剣に向き合ってくれると思うから。
もしも、悟飯の腕を捕らえようとする逞しい手から、悟飯の瞳と合わせようとする黒い瞳から、悟飯が逃げなかったとしたら、二人の間の何かが変わるだろうか。
しつこいくらいに悟飯を困らせる悟空の行動を、嫌だなんて思ったことは一度もない。
嫌なら躊躇わずに拒絶していた。
拒絶できないから、逃げるしかなかった。
どうして逃げたいのか、今日はっきりと悟った。




― 僕は、お父さんが好きなんだ―





END

ここまでお読み戴きありがとうございました。
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