【gravitation】


「あの・・・ハサミを取りたいんですけど、手が届かなくて」

「ん?・・・なんだ、もう終わったんか?」

『もう』と言われるほど短い時間ではなかった筈、と悟飯が壁掛時計に眼を走らせて時刻を確認すると、なるほど時計の長針は思っていたほど進んではいなかった。
すでに一時間余りが経過しているように感じた悟飯が意外な面持ちで外を見遣ると、短い秋の夕焼けは紅葉のような色をますます深めながらも、依然として美しい光りを保っている。

(随分と時間がかかったように思ったんだけどなぁ・・・)

ふたりきりのリビングに響く時計の秒針が、分単位で時を刻んでいるかのように錯覚していた。
それほど、悟飯の緊張の時間は長かった。

「終わりました」

余った包帯をハサミで切り離し、テープ式の包帯止めで包帯を止めて処置が終わると、長い緊張から開放された悟飯はようやく安堵の笑顔を見せた。

「おう、サンキュー!」

悟飯の笑顔に応える、窓から差し込む夕陽の朱に染まった悟空の笑顔の眩しさに、悟飯は茜色の顔を逸らすと『どういたしまして』の意味でペコリと頭を下げた。
椅子から立ち上がる悟空の挙動を意識で追いながら、手当てで使った物を救急箱の中に綺麗に整理してゆく。
こんな風に、父親の一挙手一投足が気になってしまう心も整理出来たなら、物事を深く考えない悟空の行動にいちいち戸惑うこともなくなるのだろうに。
最後に悟空から切り離された包帯の余りを元の場所に収めようと伸ばした手を唐突に掴まれ、悟飯の心臓は完全に機能を失って静止した。

「明日も頼む・・・」

と耳元に唇を寄せて吐き出された、言葉というよりもむしろ囁きに近い声に、背筋を駆け下りた甘い衝撃が腰を襲い、悟飯は咽喉の乾きを自覚した。

「ただいま―!お兄ちゃん、あのね・・・!」

悟飯が返答する間もなく何の前触れもなしに勢い良く玄関の扉が開かれ、悟天が帰宅の挨拶と共に重苦しい雰囲気を打ち破ってふたりの空間に飛び込んで来た。

「お、お帰り・・・」

やましい現場を目撃されたと言わんばかりに咄嗟に互いから離れたふたりの出迎えの声は、動揺に固い。
それを不審に思うよりも早く、悟天の眼が悟空の肩の白い包帯を捉えた。

「お父さん、怪我したの!?」

「あ、ああ・・・。何、大したことはねぇさ」

ぎこちない悟空の返答よりも何よりも、悟空に駆け寄る悟天を尻目に救急箱を手に棚に向かう悟飯を、悟天は不思議そうに見守った。
帰宅したらいつもなら真っ先に兄が抱き上げてくれるのに、今日はどうしたことだろうか、と。

「ただいま~」

悟天に続いてチチが帰宅すると、チチが抱えた重そうな紙袋に食欲旺盛な男衆の視線が一気に集中し、それまでの張り詰めた空気の残骸は見事なまでに消え去った。
孫家で唯一の主婦の帰還に子供達が歓喜の笑顔を向ける中で、悟空だけが不満気に口を尖らせる。

「チチ、どこ行ってたんだ!?」

「あいや~、朝の牛乳と調味料を幾つか切らせちまってな、行き付けの店に行ってたんだけんど、店のカミさんの話が長くってなぁ・・・」

テーブルの上に紙袋を置きながら、チチは少しばかり申し訳なさそうな笑顔を見せた。
話好きの店のカミさんの存在は子供達も承知しているのか、悟飯と悟天は互いに顔を見合わせると『ああ』と頷いている。
だが、そんな子供達の様子には意も介さず、悟空は疑惑たっぷりの眼差しを妻に向けた。

「とか何とか言って、本当はおめぇも一緒になって話し込んでたんじゃねぇのか?」

「あ・・・。いやぁ、近頃じゃあこの辺も住民が増えたでなぁ、何でも近くに学校が出来るかも知れねぇってんで、詳しいことを聞いて来たんだ。情報収集ってヤツだべ。・・・悟空さ、怪我してるじゃねぇべか!」
帰宅が遅くなった言い訳にさも最もらしい理由を探したチチが、更に自分に不利な状況の打破にうってつけの話題を悟空に見付けて慌てた素振りを見せる。

「おう、修業中にちょっと、な。何、畑仕事には差し支えねぇさ。それより、おめぇに手当てして貰おうと思ってたのに、おめぇが居ねぇから悟飯に手当てして貰ったんだぞ!」

拗ねたように凄む悟空を、自業自得とチチは眼差しで牽制し、功労者である彼らの息子を労った。

「悪ぃな、悟飯。でも、悟飯の手当てなら安心だべ。何せ悟飯は、悟天の怪我で慣れっこだべなぁ」

両親のやり取りの最終着地点になった悟天に、悟空が『なるほど』と納得した視線を送ると、悟天は恥ずかしそうに上目遣いで父を盗み見る。
弟の可愛い仕草に、悟空が本心では母の手当てを望んでいたのだと知って奇妙な安心感を得た悟飯が、悟天に援護射撃を送った。

「悟天、あの後トト達の話し合いはどうなったんだ?」

「うん、結局、今の場所に新しく巣を作り直すみたいだよ」

「そっかぁ、今の巣はだいぶボロボロになっちゃってたもんな。でも、トトの奥さんは今の場所を気に入ってるから、別の場所に巣を作りたくなかったんだろ?うまく妥協点を見つけられて、良かった!」

兄の喜ぶ姿に悟天は無邪気な笑顔を綻ばせ、キッチンへと移動を始めた悟飯の後に続こうと悟空の脇を擦り抜けながら兄の背に疑問の声を投げた。

「お兄ちゃん、どこに行くの?」

「うん、ちょっと咽喉が乾いちゃったから、飲み物を取りに、ね」

「僕も~!」

「その前に、お前は手を洗っておいで」

兄に指摘されて、悟天が慌てて洗面所へと向かう。
その小さな背中を見送る悟空は、帰宅した時にどうして悟飯が洗面所へ続く廊下から現れたのかをようやく理解した。
悟飯も、帰宅直後だったのか。
と悟天の小さな背中に悟飯の後ろ姿を見る悟空を、悟飯はキッチンへ消える直前で振り返った。
何故、悟空との時間があんなに息苦しかったのだろうか。
何故、悟空を前にすると言葉が詰まってしまうのか。

「チチ、腹減った。早くメシにしてくれ。オラはその間に着替えて来っからさ」

何故、リビングに響く悟空の声が背中から自分を追い掛けて来るように思えてしまうのか。
何故、魂の一部が悟空に持って行かれそうに感じてしまうのか。

「ひとりで着替えられるのか?」

「ああ。どうってことはねぇよ」

まるで、悟空自身が地球のように引力を発しているようだ。
と、その引力を振り切って、悟飯はキッチンへと駆け込んだ。





一方の悟空は、食事の準備にチチを急かすと寝室に向かった。
身体はシャワーで流しただけだが、土埃にまみれた頭部は片手で不自由しながらもちゃんと洗った。
今日はもうパジャマに着替えても良いだろう。
とベッドの上にきちんと畳まれたパジャマを手に取ると、隙間なく閉められたクローゼットに備え付けの鏡に、包帯を巻いた己の姿が映し出されていた。
悟空は鏡に向かうと、先の悟飯との時間を想うように負傷した肩へと手を当てる。
悟飯が、ガチガチに緊張していたのがわかった。
どうしてあんなに緊張していたのかわからないが、無理矢理何かを呑み込んだような重苦しさに、勝手に言葉を紡ぎそうになった唇を咄嗟に悟飯の胸に埋めて塞いだ。
今言葉にしたところで、悟飯の拒絶の壁に阻まれて霧消するか、地面に激突して木っ端微塵になったあの岩達のように粉砕されるのがオチだと知っていたから。
まだ、ダメだ。
まだ、早い。
こんなにも必死に思い付く限りのアプローチを試みてさえ、父の行動は自分を子供扱いしたものだともっともらしい理由をこじつけるのだから。
悟飯の、お決まりの逃走ルート。
まるで鬼ごっこの鬼から逃げる道筋を探すように、無意識に逃走を図る。
いっそのこと、『どうしてこんなことをするのか』と問い質してくれた方がまだマシだ。
そうしたら、少しは気も楽になるだろうに。

「いい加減に気付けよ、悟飯」

一体、いつになったら気付くのか。

心優しく純真な悟飯。
人間ではない友を思って屈託なく笑った悟飯。
その純粋さが、悟空を傷付けることもあるとも知らずに。
こんな肩の傷など、胸に負った傷に比べればどうと云うことはない。
肩の負傷はすぐに治るが、傷付いた心は悟飯が振り向いてくれない限り、永劫に癒える見込みはないのだから。

―早く、気付けよ―

この心が、歳月の重さに落ちて、粉々に砕け散る前に。





END

ここまでお読み戴きありがとうございました。
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