【gravitation】
「そっか。あいつ、恐竜や爬虫類が大好きだもんな」
高鳴る胸の鼓動もそのままに、生き物と戯れているであろう我が子の無邪気な姿を想像して、悟空が口もとに穏やかな微笑みを浮かべる。
その悟空の手の下から、先の行動から一変して悟空の想いから逃げるように、悟飯がガーゼを押さえる手を引き抜いた。
「上から包帯を巻きますから、そのまま押さえていて下さいね」
そう告げて両手を離した悟飯に、悟飯の行動の真意を悟った悟空の脈拍が急激に速度を落とし、胸の鼓動の変化に伴って肩も視線も地球の重量に引かれるように下へと向かった。
(そういうことかよ・・・)
一瞬だけ、悟飯の心を期待してしまっていた。
期待した分だけ失望し、失望した分だけ羽根のように軽かった心は、鉛を呑み込んだように重くなった。
そんな意気消沈した悟空の様子に気付くことなく、優秀な頭脳の持ち主は何でもソツなくこなせることを証明するかの如く、悟飯は器用に悟空の肩に包帯を巻いていく。
発するべき声を失って押し黙った悟空に代わり、白い包帯の行方を眼で追いながら悟飯は胸に引っ掛かったある疑問を口にした。
「・・・お父さんが岩に当たったのは、僕の気が大きくなったのに気を取られたのが原因なんですか・・・?」
「・・・夕日が眩しくて、一瞬、岩が見えなくなったんだ・・・」
感情をも失った抑揚のない声で、悟空が静かに告げる。
「・・・僕のせいなんですね。お父さんは、僕のせいで怪我をしたんですね・・・」
聖職者に懺悔をする罪人のような表情で、悟飯は父に詫びる思いで呟いた。
魂の奥から絞り出されたその声音は、己の罪に耐えて震えている。
自分のせいで父が傷付いた現実は、否が応にも悟飯が犯した過去の過ちの記憶を掘り起こし、悟飯に良心の呵責を与えた。
「おめぇのせいじゃねぇって。さっきも言ったろ、オラがドジ踏んだんだってば」
見詰める視線の先で悟飯の澄んだ瞳がぐらりと揺れ、うまく誤魔化したつもりでも悟飯に見抜かれているのを思った悟空の目が、一瞬だけ宙を彷徨う。
「すみません、お父さん」
吐き出された悟飯の謝罪の言葉に、胸を鋭い物で貫かれたような痛みを感じて、悟空は悟飯に気付かれぬようにぎりっと奥歯を噛み締めた。
こんな風に悟飯が自分を責めるのがわかっていたから、先のショックから立ち直っていないのにも関わらず、努めて笑顔で応えたというのに。
「だから、おめぇのせいじゃねぇって。確かにおめぇの気が大きくなったのに気を取られたんは事実だけどよ、ちゃんと修行に集中できていれば怪我なんかすることはなかったんだ。いっつもおめぇのことばっか考えてっから、咄嗟に集中力が途切れちまっただけなんだよ」
おどけて笑う悟空の言葉に、悟飯は白い頬に落ちた暗い影を夕焼けの色に溶かして消した。
いつまでもうじうじと自責の念にかられていたら、あくまでも自己の失態で終わらせたい悟空に申し訳が立たなくなってしまうから。
それに、先の悟空の台詞も気にかかる。
(いつも僕のことばかり考えてるなんて、そんなにお父さんに心配をかけさせているのかなぁ・・・?)
「僕はもう高校生なんですよ。お父さんがそんなに心配してくれなくても、僕なら大丈夫ですよ」
親にそこまで気を回して貰わなくても、余程のことでもない限り、大概のことなら自分で対処できる。
だから、悟飯の身を案ずるばかりではなく、ちゃんと自分の身を守ることも考えて欲しい。
「わかってるさ。おらがおめぇの心配をしてぇだけだ、気にすんな」
子供が何歳になろうとも育てる親にとれば子供でしかない、ということだろうか、と悟飯は思った。
それが親心と呼ばれるものなのだと理解していても、その親に代わって10年もの間弟の面倒を見てきた自負がある悟飯には、心外なことこの上ない。
だが、オレンジスターハイスクールの学園祭で悟飯の躰を金銭で自由にしようと目論んだ男から悟飯を守ってくれたのは父であり、あのような危機に悟飯が何度も直面している可能性を考えたら父が心配してしまうのもやむを得ないのだろう。
だからこそ二度と危ない目に遭わない為に、学園祭以降はどこに居ても何をしていても、常に周囲に気を配るのを忘れなかった。
あの一件で悟飯は、警戒心を学んだのだった。
「そんなに頼りないですかね・・・」
悟飯が困ったように笑うと、悟空はくすりと口角を上げた。
どうやら悟飯には、悟空の心配の原因について身に覚えがあったらしい。
そんなことはない、と返すと悟飯は今度は破顔して、悟空の逞しい胸板に包帯を巻き付けにかかる。
「そんなに大袈裟にすることはねぇよ。肩にだけ包帯を巻いてくれれば、それでいい」
肩の傷はただの打撲で大したことではないと認識していた悟空は、おおごとにされそうな予感から身を捩って逃げの体勢を決め込んだ。
「肩だけだとすぐに解けちゃいますから、胸にも包帯を巻いて固定するんです。大袈裟にしてるわけじゃないんですよ」
だからじっとしていて下さいね、と窘められ、悟空は肩を竦めて謝意を表した。
これまで医療機関での治療の経験の少ない悟空には、包帯でぐるぐる巻きにされるのですら『大袈裟な手当て』に思えて仕方がない。
一方の悟飯はヤンチャ盛りの弟の怪我の手当てに慣れているのか、一般的な治療法に通じているらしい節がある。
ここは大人しく悟飯の言うことを聞いた方が良さそうだ、と身動ぎを止めてされるがままになった悟空だったが、唯一の抵抗なのか、自由な右腕で悟飯の腰を抱いた。
―え・・・?
このシチュエーションでのまさかの悟空の行動に、悟空の胸を上から見下ろす体勢で悟飯の動きが止まる。
悟空が悟飯の腰に腕を回すのは今に始まったことではないが、街中で同様の愛情表現を恋人に示すカップルを何度も目撃してきた悟飯は、父子の間でこの行動はさすがに変だと思い始めていた。
本来ならばこれは恋人同士の愛情表現なのだと悟空が知ったなら、行き過ぎたスキンシップだったと反省して、態度を改めてくれるだろうか。
そのまま悟空の手が下へと移動して尻に触れてくるかと悟飯は思ったが、予想に反してそれきり悟空の腕は動きを変える気配を見せなかった。
(よし、今日は触ってこないな)
どれほど日中を戸外で過ごそうともまるきり日焼けしない悟空の裸の胸に包帯を巻く手を再開させて、悟飯は内心で冷や汗を拭う。
男にしては肌の白い悟空の胸の飾りに、目の遣り場に困りながら。
(子供の時は気にならなかったけど、昼間はあんなに外に居るのに、お父さんって意外に色白だったんだなぁ)
と悟空の肌の白さを意識した途端、悟飯の心臓は正常で健康的な臓器としての任務を放棄した。
不健康に上がる脈拍に合わせて体温も上昇したのか、頬が上気してくるのが自分でもわかる。
父親の裸の胸を見ただけでこんなに心臓がドキドキしてしまうなんて、一体どうしたと云うのだろうか。
これではベタベタとしたスキンシップを求めてくる父より、自分の方がよほど変だ。
そう思うと尚更、紅潮した頬を見られるのが恥ずかしくなってしまう。
しかも、この距離。
互いの鼓動を共有できる距離の近さに、悟飯は呼吸もままならないほどの息苦しさを感じて黙々と単調な作業をこなした。
精神と時の部屋と同じくらいの重力が心にかかり、一言も発することのなくなったふたりの体を張り詰めた空気が静かに包み込む。
悟空の意識は体に回された悟飯の指を追い、悟飯は顔にかかる悟空の吐息を意識した。
リビングの壁掛時計が刻む秒針だけが、ふたりの耳が捉えた唯一の世界の音だった。
やがて重い沈黙に堪え切れなくなったように、茜色の静寂を、悟空が言葉ではなくて行動によって破った。
(な・・・!)
突然、椅子に座る悟空に抱き止められる形で抱き締められ、悟飯は戸惑いに時計の音さえ忘れて体を竦ませた。
「・・・離して、下さぃ・・・」
「・・・」
咽喉の奥からどうにか絞り出した悟飯の声は弱々しく掠れ、体と同じくらいに震えている。
これほどの近距離でありながら、蚊が鳴くような悟飯の小さな訴えが聞こえていないのか、悟空の腕は緩むどころかますますキツく悟飯に絡み付いた。
「離して下さい」
「・・・どうして」
悟飯はもう一度、だが今度はきっぱりとした口調で己の意思を示した。
だが、返す悟空の不満の滲んだ言葉は、なぜ離さなければならないのかと、もはや疑問形ですらなかった。