【gravitation】



「痛て・・・」

負傷した左肩を押さえて低く呻くと、悟空はリビングの椅子にドサッと腰を降ろした。
窓から入って来たまばゆい西日が、テーブルに赤色とオレンジ色のグラデーションの光を投げかけている。
皮膚を破って流れ出た血が胴着を染め上げるだけでは飽きたらずに指の間をくぐり抜け、肘からポタポタと滴り落ちて床を汚してゆくのを悟空は苦々しい思いで見つめた。
この光―
そう、美しさの代表とも云うべきこの光のせいで悟空は目が眩み、視界に捉える筈だった目標を見失って怪我を負ったのだ。
妻の手当てを期待して帰宅してみれば、家族の留守を預かる肝心の妻はこういう時に限って不在。
外出中の妻に付き従っているのか甘えん坊の悟天もいなければ、ハイスクールから帰宅している筈の悟飯の姿も見えなかった。
さて、どうしたものか―
打撲傷に痛む左肩を押えながら椅子の背もたれに疲れた背中を預けると、悟空は深々とため息を吐く。
この日、いつものように修業熱に体が疼いた悟空は午前中から精を出していた畑仕事を早々に切り上げ、夕刻までの短い時間を基礎鍛練に費やしていた。
大きな岩を空高く放り投げては気功法で大まかに砕き、万有引力の法則に従って速度と質量を増しながら落下するそれらを避けるといった、反射神経を養う為のオーソドックスな鍛練法だった。
いつもなら砕けた岩に当たるなんてヘマはまずしないのに、この日はいつもと状況が違った。
地面をめがけて彗星のように急落下して来る岩の群れを次々に避けている最中に突然、同じパオズ山の山中で悟飯の気が一瞬だけ大きく跳ね上がったのを感じたのだ。
何事が起こったのかと気を取られ、空に視線を戻した時にはもう、煌めく陽光に降りしきる岩の幾つかが姿を消していた。
それでも持ち前の反射神経の良さで上手くかわしたつもりだったのに見失った岩のひとつが左肩を直撃し、慌ててその場を離れた悟空は修業の続行を諦めて畑からさほど遠くない孫家へと戻った。
帰宅したは良いが家人のいないこの状況で、ましてや片腕では怪我の手当てもままならず、悟空はテーブルの上に降り注ぐ輝かしい夕日に恨みがましい視線を送る。
と、無人の筈の家の奥から部屋の扉を開閉する物音が聞こえ、帰宅した悟空がドアノブを汚さないように血で濡れた右手ではなく、痛みを堪えながら左手で玄関の扉を押し開いた際にドアに施錠されていなかったのが思い出された。

「誰か居るんか?」

「お父さん?お帰りなさい!」

近づく足音への問い掛けに、すかさず夕日にも負けないほどの明るい声と共にバスルームと洗面所がある廊下から茜さすリビングへと姿を現したのは、悟飯だった。

「おめぇ、無事だったんか?」

負傷した本人が無傷の人間に問うには何とも奇妙な質問だが、魔人ブウとの闘い以降数ヶ月もの間まるきり修行をしていないとは云え、父をも凌ぐ瞬間最大戦闘力を誇る悟飯が一気に気を開放したのだ、有事には違いない筈だった。

「さっきのあれですか?あれは―」

と悟空に近寄りながら話し始めた悟飯の言葉と笑顔が、悟空の肩の傷と流れる血に瞬時に固まった。

「お父さん!怪我をしてるんですかっ!?」

「ああ・・・。ちょっとばっかし、ドジ踏んじまってな・・・」

日常生活では起こり得ない事態に驚愕して声を荒げた悟飯に、悟空は弱々しく苦笑して見せる。

「神様の宮殿に行きませんか?このくらいの怪我、デンデならすぐに治してくれますよ」

「いや、いい。この程度の怪我、2・3日もすりゃあ治るさ。デンデの手を煩わせるまでもねぇ。それより、手当てを頼む」

悟飯の提案を穏やかな口調で断った悟空の言葉に、急いで救急箱を用意しようとリビングの棚のひとつに悟飯が向かう。
その、微塵の淀みもない所作に、悟空は安堵に胸を撫で下ろした。
ところが、迷うことなく発見した救急箱を傍らに置いて悟空の胴着を捲った時、手当て以前の処置が必要な状態にハッと息を呑んだのは、悟飯の方だった。
ドス黒い紫に変色した打撲痕に岩の破片が喰い込み、傷口に土がこびり付いた『この程度』では済まされないほど想像以上にひどい有様に、まずは傷口に付着した、どのような微生物や細菌が潜んでいるかわからない土を洗い流してからでないと薬の塗布や消毒は難しいだろう、と悟飯は思った。

「お父さん、先にバスルームで傷口を洗った方が良さそうですよ。このままの状態で手当てをしても、傷口からバイキンが入ってしまいそうですから」

「そうか?なら、ちょくら洗って来る」

そう言って椅子から立ち上がった悟空がバスムームのある廊下に消えて行くのを見送ると、悟飯は戸口から屋外へと飛び出した。









「おおっ!?それ、懐かしいな~」

下着を一枚纏っただけの姿でリビングに戻って来た悟空は、テーブルの上の悟飯がすり潰した薬草に感嘆の声を上げた。
転んで膝を擦りむいた悟飯の傷口に手作りの軟膏を塗ってやった思い出と、幼少期には既製品以外の物を信用しなかった悟飯が、自然を頼り、自然の中で生き抜いてきた父の姿を模倣してくれた喜びに悟空は目を細めてふわりと笑う。
その悟空の黒髪から、片手では拭い切れない水滴がぽたぽたと滴り落ちるのを、悟飯はひとつの苦言も漏らさず悟空の首に掛けられたフェイスタオルで拭き始めた。

「お父さんが修業で怪我をするなんて、珍しいですね。何があったんですか?」

「何、落ちて来る岩を避け損なっただけだ。それより、おめぇこそ何かあったんじゃねぇのか!?」

「ああ、それなら・・・」

と悟飯は、悟空の心配の元凶となった出来事をかいつまんで話し始めた。
悟飯が子供の頃からよく一緒に遊んでいた翼竜のトトには春に卵から孵った子供がいるが、孫兄弟が『チビ』と呼んで見守っていたその子が今秋に巣立ちを迎えるに当たり、別の場所に新しい巣を作るか否かでトトと奥さんが夫婦喧嘩を始めてしまった。
喧嘩の理由については悟飯と悟天が翼竜の言葉を解読したのではなく、翼竜の鳴き声と行動から推察したのであった。
この時、翼竜と心を通わせられても恐竜の繁殖に疎い子供の悟天が気付かなかったことを、悟飯は察知していた。
すなわち、来春の産卵期に向けて、友達の翼竜のトトとその妻は再び繁殖期に入ろうとしているのではないか、と。
次に産まれる子供の為に別の場所に新たな巣を用意するのか、それともこのまま古巣を使い続けるのかで揉めているようだ、と。
悟飯の推測が正しいかどうかはともかくとして、自己の意見を主張して互いに一歩も引かないトト夫妻のヒートアップした喧嘩にいつ『チビ』が巻き込まれてしまうかわからない深刻な事態に、悟飯がトト夫妻の、悟天が初めて目にした両親の喧嘩にパニックを起こして暴れる『チビ』の宥め役を努めていた。
飛べるようになったとは云え、パニックを起こしたまま断崖絶壁の上にしつらえられた巣から落ちたりしたら、そのまま真下の川まで真っ逆さまに落下する可能性があることから、『チビ』が巣から落ちてしまわないよう悟天が小さな体で懸命に押さえていた。
ふたりが抱いた危惧は現実となり、悟天の懸命の努力も悟飯の必死の説得も虚しくオーバーヒートしたトトの翼が悟天と『チビ』を直撃しそうになり、一瞬で二人を救出する為に咄嗟に悟飯は気を開放したのだった。

「危ねぇとこだったなぁ。それで、悟天とチビは無事だったんか?」

強敵の出現を想定していた悟空は、有事であっても日常的なささやかなものだった悟飯の
説明に安堵し、悟空の髪の雫を拭い終えて肩の傷に古来の処置を施し、更にその上からガーゼを当てて押さえる悟飯の手に右手を重ねた。

「すんでのところで僕が助けましたからね。でも、それからチビがすっかり悟天になついちゃって、まだふたりで遊んでるんですよ」

と、どこか可笑しそうに話しながら、悟飯は悟空の右手の上にさりげなく空いたもう片方の自分の手を乗せた。
悟空の想いに重なるように添えられた悟飯の手に、悟空の心臓がドキリと音を立てて竦む。
通常よりも早く脈打ち始めた心臓の鼓動が肩を押さえる悟飯の手に伝わってしまいそうで、心臓の音を打ち消すように悟空はわざと大きな声で明るく振る舞った。
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