【School festival Ⅲ】
突然のことに悟飯は反応ができず、咄嗟に悟空にしがみつくのが精一杯で、体の落下が終わって恐る恐る開いた黒水晶の瞳には空の一部が映っていた。
ほんの数瞬の間に悟飯の瞳が捉えた景色は二転し、重心を失った体は宙を舞い、悟空が支えてくれなければ地面との激突は避けられないところだった。
下半身を地面にしなだれさせながら、悟飯は悟空のジャケットを掴んだまま、悟空の腕の中で震えていた。
「おめぇはスキだらけなんだよ」
耳元で囁かれた非難がましい悟空の声に、やっと悟飯は悟空の云わんとすることと唐突な行動の理由を理解した。
こんなに呆気なく悟空の策略に嵌ってしまうくらい、悟飯には足りないものが多かった。
「怖かったか?」
未だにお馴染みの陽気さが戻らない声で問われ、悟飯は素直にこくん、とひとつ頷いた。
今しがたの出来事と昼間の騒動と、悟空がどちらの意味で問うたのか判別がつかなかったが、この時悟飯は心の底から恐怖していた。
それは、痴漢の被害を思い出したからでも悟空の行動に驚愕したからでもなかった。
確かにどちらも悟飯を心胆寒からしめたが、そのどちらよりも、キツく抱き締められて身動きが取れずに悟空の腕の中にいる、今の状態が一番怖かった。
何よりも、悟空になら何をされても抵抗出来ないだろう自分が。
悟空の腕の中で、悟空の体温と体臭と心臓の鼓動を感じながら、握り潰されそうなほどの心臓の痛みに悟飯の体と心の震えは止まらない。
「だったら、ちったぁ用心しろ」
悟飯を抱き締める力を微塵も緩めないまま諌める悟空に返事をする代わりに、悟飯は悟空に見られないように顔を背けると、それまで握っていた悟空のジャケットを掌から手放した。
説教が終わったからにはもう離して貰える頃合だろう、との意味合いも含めて。
だが悟空は、腕の中で震える悟飯の背に回した手に、無言で力を篭めただけだった。
親がただ普通に我が子を抱き締めるには似つかわしくない緊迫した空気がふたりの間に流れ、互いの体温が上昇しているのもわからないほど、ふたりは共に自身の体の火照りを自覚した。
一度手に入れたからには生涯二度と離すまいと決意したかのように、悟飯を抱く悟空の腕の力は一向に緩む気配を見せず、悟空に抗いようがない悟飯は赤子のように悟空の腕に包まれたままひたすら体を震わせているだけだった。
大きく打ち付ける心臓の動悸にふたりは肩と胸を使って苦しい呼吸を繰り返し、発するべき言葉も離れるタイミングも見失って、身動ぎもせずにただ己の鼓動だけを聞いていた。
ふたりの頭上を冷気を孕んだ夕刻の秋の風と時間が音も立てずに通り過ぎゆくその時、先の地震の影響により開始の遅れた後夜祭の開催とキャンプファイヤーの点火を報せるアナウンスが校内に響き渡り、ふたりは抱き合ったままどちらともなく僅かに上体を逸らして互いの顔を凝視した。
悟空を見つめる悟飯の黒水晶の瞳には紺色の空に瞬き始めた秋の星が映り込み、悟飯を見つめ返す悟空の黒曜石の眼は、無垢な少女のような表情の悟飯の白い顔を映し出していた。
余震の可能性を考慮に入れた万全な準備が整った旨と、キャンプファイヤー実施における注意事項の変更点の説明を延々と告げるアナウンスの声をどちらの耳も聞き取ってはおらず、まるで互い以外の人間などこの世に存在しないかのようにふたりは見つめ合った。
やがてカウントダウンが始まり、ほどなくしてグラウンドから若々しい歓声が沸き起こると、悟空は悟飯を抱えたまま持ち前の運動神経の良さと鍛えられた下半身の筋肉を活用して、バランスを取りながら危なげなく立ち上がった。
「始まったな・・・」
「はい・・」
穏やかな湖の湖面のような静かな声でふたりは言葉と視線を交わした。
だが、表面上の穏やかさとは打って変わって、ふたりの胸の内には湖のそれとは比較にならないほどの荒波が立っている。
キャンプファイヤーに焚べられた火が見る見るうちに広がり、すべてを焼き尽くす炎となって燃え盛ってゆくさまを何の気なしに眺めた悟空が、ふと思い出したように呟いた。
「そういや、ここのキャンプファイヤーにはジンクスがあるんだったな」
「そうみたいですね」
「来年こそは、そのジンクスにあやかってみてぇもんだな」
効果に確実性のない噂に懐疑的な悟飯は興味なさげに素っ気なく返したが、対する悟空は若者の好奇心をくすぐるジンクスに神秘性を感じたのか、悟空の意外な一言に悟飯は驚いて目を見張った。
恋愛の継続を望む若者が関心を寄せるのは納得がゆくが、既婚者である悟空が興味を抱くのには理解が出来ない。
何のかんのと言いながら父にゾッコンの母と、ヒステリックな母を豊かな包容力で受け止めるおおらかな性格の父が別れるなど、絶対にあり得ない。
離婚の危機でもあるまいし、と訝しむ悟飯を見つめる悟空の黒い瞳を、悟飯は不思議そうに眺めた。
「決めた!オラ、来年も来っぞ!良いだろ、悟飯!?」
勝手に決められても、と困惑しながらも、きっぱりと断言した悟空に、来年は学園祭の日程を両親に内緒にしておく腹づもりだった悟飯の心はグラついた。
来年父はキャンプファイヤーのジンクスに倣うのかと想像した刹那、悟飯の心臓はとくん、と不自然に打ち据え、波のない湖面に一石を投じたような不快な波紋が悟飯の中で広がっていった。
この歳にもなれば、両親がイチャついている場面を見るのは気持ち悪いと思うのは当然だ、と悟飯は自身の中で燻る不快感の正体を推し量ったが、何故悟空が絡むとこんなにも心が乱れてしまうのか、その理由については無意識に蓋をした。
己の心を深く探るとうっかりパンドラの箱を開けてしまう危険性があるのを嗅ぎ取った悟飯の意識が、自身の精神のバランスを保つ為に本能的に悟飯に思考を停止させているのを、悟飯はまだ知らない。
『どうぞ』と答える弱々しい悟飯の声に遠くから悟飯を呼ぶ声が重なり、今が後夜祭の真っ最中だったのを思い出したふたりは、ほぼ同時に声がした方向を振り向いた。
見ると、薄闇の中に数人の友人が悟飯を探してグラウンドに散っている。
その中のひとり、声の主である金髪のロングヘアの青年が校舎に向かって駆ける姿を認めた悟飯が、ポツリと彼の名を呟いた。
「シャプナー・・・」
「・・・って、おめぇにボクシングの練習試合の助っ人を頼んできたやつか!?」
「そうですよ」
(やっぱり、あいつなんか)
あっけらかんとした悟飯の解答を聞いた悟空は、昼間の悟飯を見る嫌な目つきを思い出し、気分の悪さをくっきりと眉間に刻んだ。
悟飯から聞いていた友人の名前と実際に会った人物の顔が一致した時、悟飯が今日の練習試合に怪我をした部員の代理を依頼された理由は、おそらく武道の心得があるからだけではないだろうとの疑念が沸き起こった。
「あいつ・・・さ、何でおめぇの顔色を伺いながらビーデルにちょっかい出してんだ?」
「ああ、それなら、シャプナーが僕をライバル視しているからなんじゃないですか?」
あの騒動のせいで悟飯の友人関係をゆっくりと見物している暇などなかった筈なのに、なかなかどうして、意外に鋭い悟空の観察力と洞察力に悟飯は感嘆の念を禁じ得なかった。
「ふうん・・・。変なやつだなぁ、わざわざライバルの前で女を口説くんか?」
「僕に見せつける為に、ワザと僕の前でビーデルさんにアプローチしてるんですよ。もっとも、ビーデルさんには相手にされてませんけどね」
「確かに、あれは滑稽だったなぁ」
目の当たりにしたシャプナーの道化ぶりに悟空はフッと笑みを浮かべたが、悟飯と向き合うその眼は笑っていなかった。
悟飯が答えを与えてもまだ何か言いたげな悟空の眼差しに、悟飯は黒水晶の瞳で黙って先を促した。
「あいつ、まさかおめぇにちょっかい出してねぇだろうな」
「はあ!?シャプナーがですか!?まさか!そんなことあるわけないですよ!」
悟空の突拍子もない発言に驚いて上げた素っ頓狂な悟飯の声は裏返り、何をどう勘違いすればそうなるのかと、悟飯が受けた衝撃の大きさを物語っていた。
悟空の疑惑は、悟飯にすれば『思いも寄らない』どころか『まず有り得ない』レベルの憶測に過ぎなかった。
「だったら良いんだけどよぉ。・・・だけど、おめぇを見るあいつの眼、何か引っかかるんだよなぁ・・・」
「何言ってるんですか、お父さん。考え過ぎですよ」
釈然としない様子で尚も怪訝そうに腕を組む悟空を、悟飯はまるで検討違いだと明るく笑い飛ばした。
「オラの勘違いだったら良いんだけどよ、何かあるといけねぇから、ちょっかい出されねぇようにあいつにも気を付けてた方が良いぞ」
「だからっ・・・!大丈夫ですって・・・!」
笑い転げたい衝動を必死で堪えながら、悟飯は込み上げる可笑しさに微妙なイントネーションを伴って震える声で、悟空の的外れな危惧を懸命に打ち消した。
だが、抱腹絶倒とばかりに上がった悟飯の笑い声は、真摯な悟空の眼差しに射竦められているのに気付いて、それきりぴたりと止んだ。
「まあ・・・一応、気を付けておきますよ。・・・何もないと思いますが・・・」
そうだった。
他人を疑わない純真さが時として思わぬ危険を引き寄せるケースもあると、悟飯はつい先刻悟空に諫められたばかりだった。
己を客観視するのは難しいが、悟飯と悟飯の周囲の人間を客観的に見た悟空が忠告をしているのだから、ここはひとまず反論を飲み込んでおくのが賢明なのだろう。
「ああ。オラも何にもねぇのが一番良いと思う」
―あってたまるか―
これ以上ライバルが増えるのは、御免被りたいものだ。
「見たとこ食い物もなさそうだし、オラはもう帰る。おめぇは帰りが遅くなりそうだから、今日はいつもの寄り道はなし、だ。じゃあな」
額に二本の指を当てて明るく笑う悟空に、悟飯は素直に二文字だけの返事をする。
悟空の言う『いつもの寄り道』とは、弱気を助け悪を挫くグレートサイヤマンの活動を差していた。
家族の気を探る為に逸らした視線をちらりと悟飯に戻すと、悟空は体が完全に消える間際に悟飯に更なる忠告を残してオレンジスターハイスクールを後にした。
「他の男に変なことされんなよ!」
瞬時に悟空が消えた後も、今まで悟空が居た場所を、今だに悟空の気配が残る場所を注視したまま、悟飯は呆然とその場に立ち竦んだ。
おそらく悟空は、悟空が忠告する『変なこと』を悟空にならされても構わない、と受け取れる意味合いの言葉を残したなどと、気付いていないだろう。
悟空にすれば、それこそ『思いも寄らない』のだろうな、と悟飯は推察した。
何はともあれ、悟空の再登場によって悟飯の心境に更に複雑さが増したのには違いがなかった。
来年の学園祭など来なければ良いのに、と非現実な望みを抱く一方で、残す所あと数時間となった今日がこれ以上何事もなく平穏無事に終わってくれるのを願って、悟飯の身を案じる友人らと合流すべく、悟飯はキャンプファイヤーに向かって駆け出した。
END
ここまでお読み戴きありがとうございました。
ほんの数瞬の間に悟飯の瞳が捉えた景色は二転し、重心を失った体は宙を舞い、悟空が支えてくれなければ地面との激突は避けられないところだった。
下半身を地面にしなだれさせながら、悟飯は悟空のジャケットを掴んだまま、悟空の腕の中で震えていた。
「おめぇはスキだらけなんだよ」
耳元で囁かれた非難がましい悟空の声に、やっと悟飯は悟空の云わんとすることと唐突な行動の理由を理解した。
こんなに呆気なく悟空の策略に嵌ってしまうくらい、悟飯には足りないものが多かった。
「怖かったか?」
未だにお馴染みの陽気さが戻らない声で問われ、悟飯は素直にこくん、とひとつ頷いた。
今しがたの出来事と昼間の騒動と、悟空がどちらの意味で問うたのか判別がつかなかったが、この時悟飯は心の底から恐怖していた。
それは、痴漢の被害を思い出したからでも悟空の行動に驚愕したからでもなかった。
確かにどちらも悟飯を心胆寒からしめたが、そのどちらよりも、キツく抱き締められて身動きが取れずに悟空の腕の中にいる、今の状態が一番怖かった。
何よりも、悟空になら何をされても抵抗出来ないだろう自分が。
悟空の腕の中で、悟空の体温と体臭と心臓の鼓動を感じながら、握り潰されそうなほどの心臓の痛みに悟飯の体と心の震えは止まらない。
「だったら、ちったぁ用心しろ」
悟飯を抱き締める力を微塵も緩めないまま諌める悟空に返事をする代わりに、悟飯は悟空に見られないように顔を背けると、それまで握っていた悟空のジャケットを掌から手放した。
説教が終わったからにはもう離して貰える頃合だろう、との意味合いも含めて。
だが悟空は、腕の中で震える悟飯の背に回した手に、無言で力を篭めただけだった。
親がただ普通に我が子を抱き締めるには似つかわしくない緊迫した空気がふたりの間に流れ、互いの体温が上昇しているのもわからないほど、ふたりは共に自身の体の火照りを自覚した。
一度手に入れたからには生涯二度と離すまいと決意したかのように、悟飯を抱く悟空の腕の力は一向に緩む気配を見せず、悟空に抗いようがない悟飯は赤子のように悟空の腕に包まれたままひたすら体を震わせているだけだった。
大きく打ち付ける心臓の動悸にふたりは肩と胸を使って苦しい呼吸を繰り返し、発するべき言葉も離れるタイミングも見失って、身動ぎもせずにただ己の鼓動だけを聞いていた。
ふたりの頭上を冷気を孕んだ夕刻の秋の風と時間が音も立てずに通り過ぎゆくその時、先の地震の影響により開始の遅れた後夜祭の開催とキャンプファイヤーの点火を報せるアナウンスが校内に響き渡り、ふたりは抱き合ったままどちらともなく僅かに上体を逸らして互いの顔を凝視した。
悟空を見つめる悟飯の黒水晶の瞳には紺色の空に瞬き始めた秋の星が映り込み、悟飯を見つめ返す悟空の黒曜石の眼は、無垢な少女のような表情の悟飯の白い顔を映し出していた。
余震の可能性を考慮に入れた万全な準備が整った旨と、キャンプファイヤー実施における注意事項の変更点の説明を延々と告げるアナウンスの声をどちらの耳も聞き取ってはおらず、まるで互い以外の人間などこの世に存在しないかのようにふたりは見つめ合った。
やがてカウントダウンが始まり、ほどなくしてグラウンドから若々しい歓声が沸き起こると、悟空は悟飯を抱えたまま持ち前の運動神経の良さと鍛えられた下半身の筋肉を活用して、バランスを取りながら危なげなく立ち上がった。
「始まったな・・・」
「はい・・」
穏やかな湖の湖面のような静かな声でふたりは言葉と視線を交わした。
だが、表面上の穏やかさとは打って変わって、ふたりの胸の内には湖のそれとは比較にならないほどの荒波が立っている。
キャンプファイヤーに焚べられた火が見る見るうちに広がり、すべてを焼き尽くす炎となって燃え盛ってゆくさまを何の気なしに眺めた悟空が、ふと思い出したように呟いた。
「そういや、ここのキャンプファイヤーにはジンクスがあるんだったな」
「そうみたいですね」
「来年こそは、そのジンクスにあやかってみてぇもんだな」
効果に確実性のない噂に懐疑的な悟飯は興味なさげに素っ気なく返したが、対する悟空は若者の好奇心をくすぐるジンクスに神秘性を感じたのか、悟空の意外な一言に悟飯は驚いて目を見張った。
恋愛の継続を望む若者が関心を寄せるのは納得がゆくが、既婚者である悟空が興味を抱くのには理解が出来ない。
何のかんのと言いながら父にゾッコンの母と、ヒステリックな母を豊かな包容力で受け止めるおおらかな性格の父が別れるなど、絶対にあり得ない。
離婚の危機でもあるまいし、と訝しむ悟飯を見つめる悟空の黒い瞳を、悟飯は不思議そうに眺めた。
「決めた!オラ、来年も来っぞ!良いだろ、悟飯!?」
勝手に決められても、と困惑しながらも、きっぱりと断言した悟空に、来年は学園祭の日程を両親に内緒にしておく腹づもりだった悟飯の心はグラついた。
来年父はキャンプファイヤーのジンクスに倣うのかと想像した刹那、悟飯の心臓はとくん、と不自然に打ち据え、波のない湖面に一石を投じたような不快な波紋が悟飯の中で広がっていった。
この歳にもなれば、両親がイチャついている場面を見るのは気持ち悪いと思うのは当然だ、と悟飯は自身の中で燻る不快感の正体を推し量ったが、何故悟空が絡むとこんなにも心が乱れてしまうのか、その理由については無意識に蓋をした。
己の心を深く探るとうっかりパンドラの箱を開けてしまう危険性があるのを嗅ぎ取った悟飯の意識が、自身の精神のバランスを保つ為に本能的に悟飯に思考を停止させているのを、悟飯はまだ知らない。
『どうぞ』と答える弱々しい悟飯の声に遠くから悟飯を呼ぶ声が重なり、今が後夜祭の真っ最中だったのを思い出したふたりは、ほぼ同時に声がした方向を振り向いた。
見ると、薄闇の中に数人の友人が悟飯を探してグラウンドに散っている。
その中のひとり、声の主である金髪のロングヘアの青年が校舎に向かって駆ける姿を認めた悟飯が、ポツリと彼の名を呟いた。
「シャプナー・・・」
「・・・って、おめぇにボクシングの練習試合の助っ人を頼んできたやつか!?」
「そうですよ」
(やっぱり、あいつなんか)
あっけらかんとした悟飯の解答を聞いた悟空は、昼間の悟飯を見る嫌な目つきを思い出し、気分の悪さをくっきりと眉間に刻んだ。
悟飯から聞いていた友人の名前と実際に会った人物の顔が一致した時、悟飯が今日の練習試合に怪我をした部員の代理を依頼された理由は、おそらく武道の心得があるからだけではないだろうとの疑念が沸き起こった。
「あいつ・・・さ、何でおめぇの顔色を伺いながらビーデルにちょっかい出してんだ?」
「ああ、それなら、シャプナーが僕をライバル視しているからなんじゃないですか?」
あの騒動のせいで悟飯の友人関係をゆっくりと見物している暇などなかった筈なのに、なかなかどうして、意外に鋭い悟空の観察力と洞察力に悟飯は感嘆の念を禁じ得なかった。
「ふうん・・・。変なやつだなぁ、わざわざライバルの前で女を口説くんか?」
「僕に見せつける為に、ワザと僕の前でビーデルさんにアプローチしてるんですよ。もっとも、ビーデルさんには相手にされてませんけどね」
「確かに、あれは滑稽だったなぁ」
目の当たりにしたシャプナーの道化ぶりに悟空はフッと笑みを浮かべたが、悟飯と向き合うその眼は笑っていなかった。
悟飯が答えを与えてもまだ何か言いたげな悟空の眼差しに、悟飯は黒水晶の瞳で黙って先を促した。
「あいつ、まさかおめぇにちょっかい出してねぇだろうな」
「はあ!?シャプナーがですか!?まさか!そんなことあるわけないですよ!」
悟空の突拍子もない発言に驚いて上げた素っ頓狂な悟飯の声は裏返り、何をどう勘違いすればそうなるのかと、悟飯が受けた衝撃の大きさを物語っていた。
悟空の疑惑は、悟飯にすれば『思いも寄らない』どころか『まず有り得ない』レベルの憶測に過ぎなかった。
「だったら良いんだけどよぉ。・・・だけど、おめぇを見るあいつの眼、何か引っかかるんだよなぁ・・・」
「何言ってるんですか、お父さん。考え過ぎですよ」
釈然としない様子で尚も怪訝そうに腕を組む悟空を、悟飯はまるで検討違いだと明るく笑い飛ばした。
「オラの勘違いだったら良いんだけどよ、何かあるといけねぇから、ちょっかい出されねぇようにあいつにも気を付けてた方が良いぞ」
「だからっ・・・!大丈夫ですって・・・!」
笑い転げたい衝動を必死で堪えながら、悟飯は込み上げる可笑しさに微妙なイントネーションを伴って震える声で、悟空の的外れな危惧を懸命に打ち消した。
だが、抱腹絶倒とばかりに上がった悟飯の笑い声は、真摯な悟空の眼差しに射竦められているのに気付いて、それきりぴたりと止んだ。
「まあ・・・一応、気を付けておきますよ。・・・何もないと思いますが・・・」
そうだった。
他人を疑わない純真さが時として思わぬ危険を引き寄せるケースもあると、悟飯はつい先刻悟空に諫められたばかりだった。
己を客観視するのは難しいが、悟飯と悟飯の周囲の人間を客観的に見た悟空が忠告をしているのだから、ここはひとまず反論を飲み込んでおくのが賢明なのだろう。
「ああ。オラも何にもねぇのが一番良いと思う」
―あってたまるか―
これ以上ライバルが増えるのは、御免被りたいものだ。
「見たとこ食い物もなさそうだし、オラはもう帰る。おめぇは帰りが遅くなりそうだから、今日はいつもの寄り道はなし、だ。じゃあな」
額に二本の指を当てて明るく笑う悟空に、悟飯は素直に二文字だけの返事をする。
悟空の言う『いつもの寄り道』とは、弱気を助け悪を挫くグレートサイヤマンの活動を差していた。
家族の気を探る為に逸らした視線をちらりと悟飯に戻すと、悟空は体が完全に消える間際に悟飯に更なる忠告を残してオレンジスターハイスクールを後にした。
「他の男に変なことされんなよ!」
瞬時に悟空が消えた後も、今まで悟空が居た場所を、今だに悟空の気配が残る場所を注視したまま、悟飯は呆然とその場に立ち竦んだ。
おそらく悟空は、悟空が忠告する『変なこと』を悟空にならされても構わない、と受け取れる意味合いの言葉を残したなどと、気付いていないだろう。
悟空にすれば、それこそ『思いも寄らない』のだろうな、と悟飯は推察した。
何はともあれ、悟空の再登場によって悟飯の心境に更に複雑さが増したのには違いがなかった。
来年の学園祭など来なければ良いのに、と非現実な望みを抱く一方で、残す所あと数時間となった今日がこれ以上何事もなく平穏無事に終わってくれるのを願って、悟飯の身を案じる友人らと合流すべく、悟飯はキャンプファイヤーに向かって駆け出した。
END
ここまでお読み戴きありがとうございました。