【School festival Ⅱ】

いや待てよ、一般的な男子高校生なら人前で上半身裸になるくらいはどうってことない筈だ。
だからこそ悟飯は何の躊躇いもなく堂々と着替えられたのであり、それを咎める者も会場内に誰ひとりとしていなかった。
なのに何故、身近にいる父親の悟空に裸を見られるのは恥ずかしいのだろうか、この辺りの不可解な悟飯の心理は理解が難しい、と悟空は首を捻った。
と、着替えを終えた悟飯がリングの中央に進み出て相手校の選手と互いに一礼を交わし、どちらの高校の顧問かレフェリー役の壮年の男が腕を交差させて試合の開始を合図した。

「悟飯!手加減すんのを忘れんなよ!」

悟空が叫ぶとその声に悟飯は体を竦ませ、さして広くもない会場内の一角に座を占めた父親の姿を認めて驚愕に眼を見開いた。
まさかここに悟空が来ているなんて、と、得も言われぬ表情でヘッドギアの下から悟飯が眼を細めた瞬間、相手のパンチをモロに顔面に受けてしまった。
途端に相手校の生徒達からは歓声が上がり、自陣の応援席からは失意のため息が漏れた。
『当然の結果』だの『負け決定』だのとヤジを飛ばすビーデルのファン達にチチが『絶対勝つからよく見ておけ』といきり立つと、チチの言葉を疑問視する呟きがあちこちから漏れ聞こえ、悟空はもどかしさと焦れったさに踵を鳴らした。
勝てるのかな、だと?

「勝てるに決まってんだろ!」

腕を組んでリングを見据えたまま、悟空は小声で語気を荒げた。
その強さは周知されていないが、なんてったって悟空の息子はその気になれば全世界の誰にも負けはしないのだ。
・・・問題は、肝心の息子がなかなかその気になってくれないことだけど。
殆どダメージのない一発目のパンチの後、悟飯は極力目立たないように間一髪を装って次々と繰り出されるパンチをかわし、ゴングが鳴る直前に紛れ当たりに見せかけて相手校の選手をK.O.した。
ゴングと同時に悟飯の腕がレフェリーによって高々と掲げられたその時、隣りの男のボソリとした声が耳に届き、悟空の背筋を冷たいものが降りてきた。

「悟飯君って言うんだ・・・」

異常性を孕んだ声音に、悟空は危険なこの声をどこかで聞いたことがあるように思った。
ことあるごとに隠そうとしていたその顔も、どこか見覚えがあるような・・・。
そもそも悟空と初対面なら、あんなに何度も自分の顔を隠す必要などないだろう。
ということは、やはり以前に悟空と対面していて、その時の事情により自分の顔を見られたくないのか。
悟空の予感が正しければ、あまり良い出会いではなかったようだ。
一体どこでだったのかと己の記憶を探ると朧気ながらも断片が蘇り、確かあの場に悟飯も居たような気がした、と思った。
悟飯が居て、この男が居て、悟空はふたりに近付きながら男の背中を見ていて、男は悟飯に何かを話していて。


『君、名前は?』


そうだ、あの時この男は悟飯に名前を訊いていた。


『幾ら出せば、話に乗ってくれるのかな?』


『10万ゼニーまでなら、幾らでも出すよ』


―思い出した・・・!

女の子達からたくさんのラブレターを貰った悟飯が気になってオレンジハイスクールを覗いた帰り道に、路地裏で戸惑う悟飯に迫っていたあの男だ。
あれから悟飯が危ない目に遭っているとは聞いていなかったから、すっかり油断していたが、まさかハイスクールにまで現れるとは。
これは偶然なのだろうか。
たまたまハイスクールの前を通り掛かったら偶然にも学園祭の最中で、何の気なしに立ち寄ったボクシング部の練習試合にこれまた偶然にも悟飯が選手として出場していただけなのだろうか。
・・・幾ら何でも、話が出来過ぎている。
もしも―
もしもあれ以降もこの男が諦めきれずに悟飯を付け狙っていたとしたら、今日のようなハイスクールの公開日は絶好の機会ではないのか。
だとしたら、悟飯が危ない!
悟空が記憶を辿っているうちにいつの間に練習試合が終わったのか、ボクシング部のイベント終了を知らせる場内アナウンスが流れ、退場時の混雑を避ける為に座したままの数人の大人を除いて観戦客の殆どが会場の出入り口を目指して椅子から立ち上がっていた。
隣りを見るとすでに男の姿はなく、焦燥感に苛まれながらも悟空はチチに促されるままに人混みの流れに乗った。
熱気溢れる会場から秋の涼しい風が吹く屋外に一歩を踏み出して周囲に視線を巡らせると、まるで巣穴から這い出た蟻のように思い思いの方向に散って行く人々の中にも、あの男はいなかった。
悟空が感じた危機感は単なる思い過ごしだったのか、あの男はもはや悟飯に執着していないらしい、と悟空が安堵に胸を撫で下ろした丁度その時、悟飯がボクシング部員達と会場の外に出て来るのが見えた。
談笑する悟飯の横に立つビーデルに外見の派手な部員が大げさでゼスチャーで懸命に話しかけていたが、まるでビーデルに相手にされず、端から見れば滑稽以外のなにものでもなかった。
だが、ビーデルにモーションをかけている筈の部員の視線は顔色を伺うようにチラチラと悟飯へと流れ、この部員が悟飯の気を引く為にわざと目の前でビーデルにアプローチしているのが悟空の目には明らかだった。
悟空の次男坊も、兄の気を引く為に同じ戦法を用いていたから。
気に喰わない野郎だと悟空が視線を逸らそうとした時、悟飯の白い頬が瞬時に紅潮し、悟空は悟天に手を引かれるまま移動を開始しようとした足を止めた。
人の流れを遮らないよう会場の出入り口の脇で盛り上がる部員達の後ろで、悟飯の顔色が次いで見る見るうちに色を失い、何かに怯えている様子が伺えた。
顔面蒼白の悟飯が悟空に気付いた時にはもう、悟天の手を振りほどいて悟空は走り出していた。
上流から下流に流れる河のような人波をかき分けて進む間に、いつの間にか姿を消していた筈のあの男が悟飯の後ろにぴったりと立ち、男の片方の手が悟飯の尻へと消えているのが垣間見えた。
同じタイミングで練習試合に臨んだ他校の生徒達も退場して来た為、ほんの一瞬だが会場の出入り口付近は満員電車並みの人いきれとなり、悟飯が痴漢の被害に遭っているのに気付いている者は悟空を除いて一人もいなかった。
気配を消して背後から近付いた悟空の目に入ったのは、セクハラまがいのスキンシップで悟空が触るようなソフトなものではなく、悟飯の尻の割れ目に男の手が喰い込んでいるエグイ光景だった。
度々痴漢に遭遇していた悟飯でも、こんな触られ方をした経験などないのだろう。
その上、息を荒げて背後から悟飯にぴったりと体を寄せた男の瞳には半ば正気の色が消え、代わりに狂気の輝きが宿っていた。
悟飯が恐怖に身を竦ませるのも頷けるほどの妄執を感じて悟空自身も総毛立ったが、すでに怒りに支配されていた悟空は怯むことなく男の手首を掴むと、男を悟飯から引き剥がしにかかった。

「オッサン、オラの息子に何やってんだッ!!」

悟空の怒鳴り声に何事かと驚いた人々の視線が集中し、男子高校生に痴漢を働いた変態中年男を父親が捕まえるという滅多に見られない珍しい捕り物に、興味を抱いた物好きな人だかりが出来るまでものの数分とかからなかった。
悟空に次いで激怒したビーデルは警察に突き出すべきだと言い張り、そのビーデルのファンの男共はうすら笑いを浮かべて口々に囃し立て、称賛の眼差しは悟空に、非難の眼差しは悟空に手首を掴まれた中年男へと注がれた。
異変に気付いた生徒の一人がプロフェッサールームへと駆け込み、現在の状況に至っている。
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