【ゆらゆら】
不愛想なベジータらしからぬその表情と、まるで親戚の叔父さんが縁者の子供に説教を垂れるようなふたりのやり取りに、傍らの悟空は唖然と立ち竦んだ。
何かがおかしいと思わなくもなかったが、周囲の様子からして、ベジータが悟飯を諫めるのはとくべつ珍しいことでもないようだった。
それがことさらに悟空の驚愕に追い打ちをかけていた。
一体ふたりの間に何があったのだろうかと訝しがらずにいられないほどに。
「それにしても解せんな」
と、今回の騒動にひと段落がついたと踏んだのか、3人より少し離れたところからピッコロが疑問の声を上げ、悟空と悟飯はそちらに向き直った。
見ると、ピッコロは考え事でもしているのかのように腕組みをしたまま、首を前に少し傾けている。
「何だ、ピッコロ?何か気になることでもあんのか?」
悟空自身も悟飯とベジータの関係性が気になったが、それよりも聡明なピッコロが『解せない』とまで言った内容に興味があった。
「いや、俺が悟飯と泳いでいた時にはクラゲはいなかったはずだと思ってな」
「そっかぁ、猛毒クラゲがいるってんで、オメェもビックリしてたもんな」
あの驚き具合と動揺ぶりからして、ピッコロも猛毒クラゲを目撃していなかったことに間違いはないだろう。
となれば、何とも奇妙な話ではないか。
他に沖合に出ている者がいなかったとはいえ、誰も見ていないはずの猛毒クラゲに悟飯だけが刺されるなんて。
悟空まで首を傾げて考え込むと、悟飯は悟空とピッコロを交互に見比べながら明るい声で件の謎を解き明かした。
「ピッコロさんが浜に向かったあとから、潮の流れが変わったんですよ。ちょうど満潮の時間だったんでしょうね」
「・・・そういや、浜辺の水位が上がってきてたな」
悟飯の説明を聞き、遡った記憶に思い当たる節があった悟空が何とはなしにひとりごちた。
こういうことは、得てして後から気がつくものだ。
だが、もしもあの時に潮の流れの変化に気づいて悟飯を気にかけていたならば、と思わずにはいられない。
いまさらであったとしても。
どうしようもなかったのだとしても。
実は悟空には、水着姿の悟飯を意識しないようにわざと視線を逸らしていたという止むを得ない事情があったのだった。
それでも後悔の念と罪悪感は悟空の胸に粘りついて離れない。
見る影もなく変色して腫れ上がった悟飯の脚は、生涯悟空の記憶から消えることはないだろう。
「なるほど。では、あの猛毒クラゲは時間によって島の周辺に姿を見せるというわけだな」
「そうかも知れません。それにしてもあのクラゲは希少種で世界でも目撃情報が少ないのに、こんなタイミングでぐうぜん遭遇するなんて今日はラッキーでしたよ。南半球にしか生息していないって図鑑には書いてあったのに北半球の南端まで北上して来たってことは、地球温暖化が海に住んでいる生物の生態系や生息区域なんかに影響を及ぼしているってことですよね。もしかすると海流そのものにも変化があるのかも知れませんよ。これは調べてみる価値がありそうだ」
猛毒クラゲについて話が及ぶと、悟飯はまるでつい先刻までの騒動などなかったかのようにある種の熱を持って語り始めた。
その内容もさることながら、頬を上気させて瞳を輝かせた悟飯の様子に周囲の者達は面食らって二の句が告げられずにいる。
誰もが、瀕死の重体に陥っていながら『ラッキー』などと宣う悟飯の神経を疑い、呆れずにはいられなかったからだ。
すると、『あんなに心配したのに』の声を飲み込んで黙りこくった者達を尻目に、ベジータが可笑しそうにふっと笑った。
「やれやれ。そいつのせいで死にかかったというのに、怯むどころかラッキーと捉えるとは勇ましいことだ。何にせよ人騒がせなヤツに変わりはないがな」
「そうだよ!俺達、本気で心配したんだからね!」
「僕だって、お兄ちゃんが助かってもあのまま痣が残っちゃったらどうしようって思ってたんだから!」
「ま、すっかり元通りになってよかったけどね」
責めるわけでもなくベジータが皆の心境を代弁すると、その言葉尻を捉えた悟天とトランクスがやいのやいのと囃し始めた。
悟飯の死を目前にして背筋を凍らせながらもなす術もなく見守ることしかできなかった彼らには悟飯に抗議する権利があって当然だ、とふたりとも思ったのだ。
「お前達にも心配かけちゃったな、ごめんよ」
必死の形相で詰め寄るふたりに悟飯が謝罪の言葉を口にすると、途端にふたりは納得したような笑顔を見せた。
臆せずに思ったことを口に出せる子供らしさに、見守る者達の顔面には微笑みが浮かんでいる。
だが、続くトランクスの言葉に、大人達はもれなく我が耳を疑うこととなった。
「心配するのは当然でしょう!?何たって悟飯さんは、俺の将来のお嫁さんなんだからさ」
「何言ってんだよ、トランクス君!僕が大きくなったら、お兄ちゃんは僕と結婚するんだからね!トランクス君のお嫁さんにはならないよ!」
「バカだな、悟天は。兄弟じゃ結婚はできないんだぞ」
「できるもん!!この間、兄妹同士で結婚式を挙げてるのをテレビで観たんだから!!僕とお兄ちゃんだって結婚できるもん!!」
時には取っ組み合いにまで発展する悟天とトランクスの口喧嘩は今に始まったことではないが、その中に奇怪なワードが含まれていることに、それまで穏やかな笑顔を浮かべていた大人達は笑みを残したままの頬を引き攣らせた。
どのような思い違いが生んだ発言なのかは不明だが、兄弟での結婚以前に大きな問題があるだろうと、とっさに言葉にできなかった思いが彼らの胸中には渦巻いている。
そこへ、不毛な言い争いを繰り返す悟天とトランクスを憚るように悟飯が悟空とピッコロにこっそり耳打ちした。
「・・・悟天のやつ、なんでも連れ子同士の恋愛をテーマにした昼ドラをお母さんと一緒に観てたらしいんですよ」
「事情は理解できたが・・・。悟天、トランクス、悟飯は嫁にはならん。そもそも嫁というのは結婚した女性を指すのであって、悟飯は・・・」
「なあんだぁ、ピッコロさん知らないのぉ~?遅れてるね~!」
生真面目にも子供ゆえの思い違いを正そうとピッコロは説得を試みたが、そんなピッコロの古い知識を遮って、トランクスは勝ち誇ったようにふんぞり返った。
そのトランクスの肩をもつ悟天が、呆れを含んだ驚愕に言葉を失った面々に目配せを送りながら、大人の世界を知ってしまった興奮に頬を染めて語り始めた。
「僕達、男の人と男の人が結婚式を挙げてるとこ、見ちゃったもんね。ふたりともタクシー?っての着てたけど、『お婿さん』って呼ばれてた男の人はもうひとりの男の人のことを『嫁』って言ってたんだ。だから、お兄ちゃんだってお嫁さんになれるんだよ」
「そうそう。だから俺、たまたま通りかかった教会で男の人同士の結婚式を見た時、心に固く決めたんだ。絶対に悟飯さんをお嫁さんにもらうって」
「そんなの、僕だって同じだよ!!大きくなったら絶対にお兄ちゃんと結婚するって、僕も決めたんだからね!!」
「・・・僕はお嫁さんになるより、お嫁さんをもらいたいかなぁ・・・」
「だから兄弟じゃ結婚できないって言ってるだろ、悟天のわからず屋!」
「わからず屋はそっちだろ!!トランクス君の意地悪!!」
「・・・お前達が誰と結婚しようが俺は一向にかまわんが、悟飯の意思を無視して勝手に話を進めるのはどうかと思うぞ?」
「そうだぞ!オメェ達のどっちかと悟飯が結婚なんて、オラは許さねぇからな!」
「同感だ。珍しく意見が合ったな、カカロット」
「みんな、そんなに本気にとらなくても・・・。チビ達も大人になる頃には気持ちが変わってますよ」
「何言ってんの、悟飯さん!」
「僕達そんな軽い気持ちで言ってるわけじゃないんだからね!」
つい先ほどまでの深刻なムードはどこへやら、意地を張る子供達の幼い声が響く天界はにわかに喧騒に包まる。
悟空は、『はいはい、わかったよ』と無難にこの場をやり過ごそうとしている悟飯と、『本気ならなおさら許さん』と厳しい態度を崩さないベジータを交互に見遣ってから、誰にも気取られないように小さく嘆息した。
新たなライバルの出現にまるきり気づいていなかったとは、鈍感としか言いようがないではないか、と。
こういうことは得てして後から気がつくものだ。
ベジータとの初ドライブであんなに悟天とトランクスがはしゃいでいたのは悟飯が同乗していたからだったと、今頃になって合点がいくなんて。
あの日はルームミラー越しに後部座席の悟飯をチラ見していたベジータに『もしかして』の疑惑を感じたものだ。
だが、その疑惑は今日、『やはり』の確信に変わった。
生命の危機にさらされたことも忘れて、顔を輝かせながら大好きな生物学について語る悟飯にふっと頬を緩めたベジータに、確信してしまった。
他の者が絡んだとて、ベジータがあんな表情を見せることはまず間違いなくないだろうから。
とうのベジータと悟飯は案の定取っ組み合いの喧嘩を始めたトランクスと悟天の首根っこを捕まえて、それぞれにふたりを引き離しにかかっていた。
「オメェ達、いい加減にしねぇか!」
やんちゃな次男坊を悟飯ばかりに任せきりにしていては父親としての沽券にかかわると、悟空は首根っこを押さえられてもいがみ合いをやめない我が子と幼なじみを一喝したが、その心のうちを占めるのは困ったように笑う悟飯の唇だった。
救助が目的とはいえ、悟飯の唇に触れたなどとこの場でカミングアウトしようものなら、途端に天界は蜂の巣をつついたような大騒ぎになるだろう。
その場面を想像して、絶対に話してはいけないと悟空は思った。
たとえ、悟飯にだけは知っておいて欲しいと願っていたとしても。
いつか、悟飯の意思であの唇に触れられる日がやってくるのだろうか。
望みが叶うのは遠い未来か。
それとも思いの外近かったりはしないのか。
いつ来るとも知れぬ未来に思いを馳せ、己の唇を親指でなぞる悟空の胸には、安堵と後悔の狭間でわずかな希望と小さな嫉妬の炎がゆらゆらと揺れているのだった。
END
ここまでお読み戴きありがとうございました。
何かがおかしいと思わなくもなかったが、周囲の様子からして、ベジータが悟飯を諫めるのはとくべつ珍しいことでもないようだった。
それがことさらに悟空の驚愕に追い打ちをかけていた。
一体ふたりの間に何があったのだろうかと訝しがらずにいられないほどに。
「それにしても解せんな」
と、今回の騒動にひと段落がついたと踏んだのか、3人より少し離れたところからピッコロが疑問の声を上げ、悟空と悟飯はそちらに向き直った。
見ると、ピッコロは考え事でもしているのかのように腕組みをしたまま、首を前に少し傾けている。
「何だ、ピッコロ?何か気になることでもあんのか?」
悟空自身も悟飯とベジータの関係性が気になったが、それよりも聡明なピッコロが『解せない』とまで言った内容に興味があった。
「いや、俺が悟飯と泳いでいた時にはクラゲはいなかったはずだと思ってな」
「そっかぁ、猛毒クラゲがいるってんで、オメェもビックリしてたもんな」
あの驚き具合と動揺ぶりからして、ピッコロも猛毒クラゲを目撃していなかったことに間違いはないだろう。
となれば、何とも奇妙な話ではないか。
他に沖合に出ている者がいなかったとはいえ、誰も見ていないはずの猛毒クラゲに悟飯だけが刺されるなんて。
悟空まで首を傾げて考え込むと、悟飯は悟空とピッコロを交互に見比べながら明るい声で件の謎を解き明かした。
「ピッコロさんが浜に向かったあとから、潮の流れが変わったんですよ。ちょうど満潮の時間だったんでしょうね」
「・・・そういや、浜辺の水位が上がってきてたな」
悟飯の説明を聞き、遡った記憶に思い当たる節があった悟空が何とはなしにひとりごちた。
こういうことは、得てして後から気がつくものだ。
だが、もしもあの時に潮の流れの変化に気づいて悟飯を気にかけていたならば、と思わずにはいられない。
いまさらであったとしても。
どうしようもなかったのだとしても。
実は悟空には、水着姿の悟飯を意識しないようにわざと視線を逸らしていたという止むを得ない事情があったのだった。
それでも後悔の念と罪悪感は悟空の胸に粘りついて離れない。
見る影もなく変色して腫れ上がった悟飯の脚は、生涯悟空の記憶から消えることはないだろう。
「なるほど。では、あの猛毒クラゲは時間によって島の周辺に姿を見せるというわけだな」
「そうかも知れません。それにしてもあのクラゲは希少種で世界でも目撃情報が少ないのに、こんなタイミングでぐうぜん遭遇するなんて今日はラッキーでしたよ。南半球にしか生息していないって図鑑には書いてあったのに北半球の南端まで北上して来たってことは、地球温暖化が海に住んでいる生物の生態系や生息区域なんかに影響を及ぼしているってことですよね。もしかすると海流そのものにも変化があるのかも知れませんよ。これは調べてみる価値がありそうだ」
猛毒クラゲについて話が及ぶと、悟飯はまるでつい先刻までの騒動などなかったかのようにある種の熱を持って語り始めた。
その内容もさることながら、頬を上気させて瞳を輝かせた悟飯の様子に周囲の者達は面食らって二の句が告げられずにいる。
誰もが、瀕死の重体に陥っていながら『ラッキー』などと宣う悟飯の神経を疑い、呆れずにはいられなかったからだ。
すると、『あんなに心配したのに』の声を飲み込んで黙りこくった者達を尻目に、ベジータが可笑しそうにふっと笑った。
「やれやれ。そいつのせいで死にかかったというのに、怯むどころかラッキーと捉えるとは勇ましいことだ。何にせよ人騒がせなヤツに変わりはないがな」
「そうだよ!俺達、本気で心配したんだからね!」
「僕だって、お兄ちゃんが助かってもあのまま痣が残っちゃったらどうしようって思ってたんだから!」
「ま、すっかり元通りになってよかったけどね」
責めるわけでもなくベジータが皆の心境を代弁すると、その言葉尻を捉えた悟天とトランクスがやいのやいのと囃し始めた。
悟飯の死を目前にして背筋を凍らせながらもなす術もなく見守ることしかできなかった彼らには悟飯に抗議する権利があって当然だ、とふたりとも思ったのだ。
「お前達にも心配かけちゃったな、ごめんよ」
必死の形相で詰め寄るふたりに悟飯が謝罪の言葉を口にすると、途端にふたりは納得したような笑顔を見せた。
臆せずに思ったことを口に出せる子供らしさに、見守る者達の顔面には微笑みが浮かんでいる。
だが、続くトランクスの言葉に、大人達はもれなく我が耳を疑うこととなった。
「心配するのは当然でしょう!?何たって悟飯さんは、俺の将来のお嫁さんなんだからさ」
「何言ってんだよ、トランクス君!僕が大きくなったら、お兄ちゃんは僕と結婚するんだからね!トランクス君のお嫁さんにはならないよ!」
「バカだな、悟天は。兄弟じゃ結婚はできないんだぞ」
「できるもん!!この間、兄妹同士で結婚式を挙げてるのをテレビで観たんだから!!僕とお兄ちゃんだって結婚できるもん!!」
時には取っ組み合いにまで発展する悟天とトランクスの口喧嘩は今に始まったことではないが、その中に奇怪なワードが含まれていることに、それまで穏やかな笑顔を浮かべていた大人達は笑みを残したままの頬を引き攣らせた。
どのような思い違いが生んだ発言なのかは不明だが、兄弟での結婚以前に大きな問題があるだろうと、とっさに言葉にできなかった思いが彼らの胸中には渦巻いている。
そこへ、不毛な言い争いを繰り返す悟天とトランクスを憚るように悟飯が悟空とピッコロにこっそり耳打ちした。
「・・・悟天のやつ、なんでも連れ子同士の恋愛をテーマにした昼ドラをお母さんと一緒に観てたらしいんですよ」
「事情は理解できたが・・・。悟天、トランクス、悟飯は嫁にはならん。そもそも嫁というのは結婚した女性を指すのであって、悟飯は・・・」
「なあんだぁ、ピッコロさん知らないのぉ~?遅れてるね~!」
生真面目にも子供ゆえの思い違いを正そうとピッコロは説得を試みたが、そんなピッコロの古い知識を遮って、トランクスは勝ち誇ったようにふんぞり返った。
そのトランクスの肩をもつ悟天が、呆れを含んだ驚愕に言葉を失った面々に目配せを送りながら、大人の世界を知ってしまった興奮に頬を染めて語り始めた。
「僕達、男の人と男の人が結婚式を挙げてるとこ、見ちゃったもんね。ふたりともタクシー?っての着てたけど、『お婿さん』って呼ばれてた男の人はもうひとりの男の人のことを『嫁』って言ってたんだ。だから、お兄ちゃんだってお嫁さんになれるんだよ」
「そうそう。だから俺、たまたま通りかかった教会で男の人同士の結婚式を見た時、心に固く決めたんだ。絶対に悟飯さんをお嫁さんにもらうって」
「そんなの、僕だって同じだよ!!大きくなったら絶対にお兄ちゃんと結婚するって、僕も決めたんだからね!!」
「・・・僕はお嫁さんになるより、お嫁さんをもらいたいかなぁ・・・」
「だから兄弟じゃ結婚できないって言ってるだろ、悟天のわからず屋!」
「わからず屋はそっちだろ!!トランクス君の意地悪!!」
「・・・お前達が誰と結婚しようが俺は一向にかまわんが、悟飯の意思を無視して勝手に話を進めるのはどうかと思うぞ?」
「そうだぞ!オメェ達のどっちかと悟飯が結婚なんて、オラは許さねぇからな!」
「同感だ。珍しく意見が合ったな、カカロット」
「みんな、そんなに本気にとらなくても・・・。チビ達も大人になる頃には気持ちが変わってますよ」
「何言ってんの、悟飯さん!」
「僕達そんな軽い気持ちで言ってるわけじゃないんだからね!」
つい先ほどまでの深刻なムードはどこへやら、意地を張る子供達の幼い声が響く天界はにわかに喧騒に包まる。
悟空は、『はいはい、わかったよ』と無難にこの場をやり過ごそうとしている悟飯と、『本気ならなおさら許さん』と厳しい態度を崩さないベジータを交互に見遣ってから、誰にも気取られないように小さく嘆息した。
新たなライバルの出現にまるきり気づいていなかったとは、鈍感としか言いようがないではないか、と。
こういうことは得てして後から気がつくものだ。
ベジータとの初ドライブであんなに悟天とトランクスがはしゃいでいたのは悟飯が同乗していたからだったと、今頃になって合点がいくなんて。
あの日はルームミラー越しに後部座席の悟飯をチラ見していたベジータに『もしかして』の疑惑を感じたものだ。
だが、その疑惑は今日、『やはり』の確信に変わった。
生命の危機にさらされたことも忘れて、顔を輝かせながら大好きな生物学について語る悟飯にふっと頬を緩めたベジータに、確信してしまった。
他の者が絡んだとて、ベジータがあんな表情を見せることはまず間違いなくないだろうから。
とうのベジータと悟飯は案の定取っ組み合いの喧嘩を始めたトランクスと悟天の首根っこを捕まえて、それぞれにふたりを引き離しにかかっていた。
「オメェ達、いい加減にしねぇか!」
やんちゃな次男坊を悟飯ばかりに任せきりにしていては父親としての沽券にかかわると、悟空は首根っこを押さえられてもいがみ合いをやめない我が子と幼なじみを一喝したが、その心のうちを占めるのは困ったように笑う悟飯の唇だった。
救助が目的とはいえ、悟飯の唇に触れたなどとこの場でカミングアウトしようものなら、途端に天界は蜂の巣をつついたような大騒ぎになるだろう。
その場面を想像して、絶対に話してはいけないと悟空は思った。
たとえ、悟飯にだけは知っておいて欲しいと願っていたとしても。
いつか、悟飯の意思であの唇に触れられる日がやってくるのだろうか。
望みが叶うのは遠い未来か。
それとも思いの外近かったりはしないのか。
いつ来るとも知れぬ未来に思いを馳せ、己の唇を親指でなぞる悟空の胸には、安堵と後悔の狭間でわずかな希望と小さな嫉妬の炎がゆらゆらと揺れているのだった。
END
ここまでお読み戴きありがとうございました。