【蛍】

サラサラと流れる小川のほとりから高い樹木の枝まで、葉や草の上に無数の蛍が止まり、等間隔で一斉に光を放って辺りを照らしては、また暗闇が戻る。
そうして明反応に慣れた目が森の輪郭を見失う頃、再び蛍の光は森の姿を蘇らせ、まるであの世とこの世の狭間のような幻想的な美しさを披露するのであった。
これが本当に、あのパオズ山なのか。
真実、幼少の頃の悟飯が恐れていた森なのか。
わかりきっていることなのにそんな馬鹿げた疑念を抱いてしまうほど、夏限定のパオズ山の夜の顔は、昼間とはあまりにかけ離れていた。
悟空と悟飯は汗ばむほどの暑さも忘れ、夜の森特有の危険な音も忘れ、ムンとする草いきれの青臭さも忘れて、その美しさにすっかり魅了された。

「なあ、こいつらって、てんでバラバラに光るんじゃなくって、みんな同じタイミングで光って、同じタイミングで消えるんだな。オラの思い違いかと思ってたけど、やっぱりオラの記憶は正しかった」

暫くの間ふたりは無言で蛍の景色を見渡していたが、やがて悟空が不思議そうに悟飯に問いかけた。
合図があるわけでもないのに、まるで示し合わせたように蛍が一斉に光を点滅させる様は、やはり不可解になったのだろう。

「そうですね。どうして蛍が同じタイミングで腹部を光らせることができるのかについては、実はまだ解明されていないんですよ」

「えっ!?そうなんか!?」

「ええ。それに、蛍が光を点滅させる間隔は地域によって違うらしいのですが、そちらも解明がまだなんです」

「ひえ~、蛍って意外に謎が多いんだな」

悟空が感嘆と驚愕の声を上げ、悟飯はそんな悟空の様子にふっと顔を綻ばせた。
そう、蛍に限らず地球には謎が多い。
なぜ人類が誕生したのか、どうして文明が発達を遂げたのか、数多の地上の王者が何度も入れ替わったのはどうような理由からなのか。
絶滅危惧種が増える一方で、毎年数多くの新種の生物が発見されるのには、どういった因果関係があるのか。
さらには海の中に住む生物に関しては、人間が発見できたのはほんの数割ていどでしかない。
衆知の通り、地学、歴史学、生物学、建築学、宗教学と、多方面に渡って地球には未だ解明されていない謎が多い。
それらの謎や『なぜ?』『どうして?』をひとつでも多く紐解きたかったのも、悟飯が学者を志す理由のひとつだった。

「なあ、こいつらって、光るのは雄だけなんだろ?尻を光らせてんのは、雌にプロポーズしてんだよな?」

「ふふ、そうですよ」

「みんなプロポーズが成功して、無事に子孫が残せるのかなぁ?」

「さあ?それはどうでしょう?例えば雌よりも雄の数が多かったら、余った雄はあぶれてしまうわけですからね」

「・・・そっかぁ。そうしたら、こんなに一生懸命に尻を光らせてても、中には結婚できねぇ奴もいるってことか・・・」

「残念ながら、それが自然界の掟なので、仕方ありませんね」

「・・・それならどんなに頑張ってアプローチしてもよ、お目当ての相手に気付いてもらえなかったら、それはアプローチしてないのと同じになっちまうんだよな?」

さっきまでの浮かれたような明るさとは打って変わって急に神妙になった悟空を、悟飯は意外そうに凝視した。
悟空の発想は、これまで悟飯が想像したこともないものだった
美しい景色にあてられて些かセンチメンタルになっているのは、どうやら悟飯だけではないらしい。

「でも、お目当ての相手に気付いてもらえなくても、頑張ってアプローチを続けていれば、もしかしたら別の雌が来てくれるかも知れないじゃないですか」

「・・・それじゃあ、駄目なんだ・・・」

ポジティブな思考を提示することで悟空の気分を明るいものに変える予定であった悟飯は、意外にも思惑が外れてしまったことに戸惑った。
いつもの悟空なら、ネガティブな思考を打ち消す発言を聞けば、すぐさま考えを変えられるのに。
気難しさや頑固とは無縁の悟空はよく他者から『楽天家』だと評されるが、裏を返せば、それだけ悟空は柔軟な思考力の持ち主だと言えるということだ。
そもそも基本的に悟空はプラス思考の傾向が強い。
それが、今日に限って、どうしたのだろうか。

―鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす―

常らしからぬ悟空の様子に、思わずそんな諺が悟飯の口を突いて出ていた。
悟空は一瞬だけ『なにを言われたのかわからない』という顔をすると、悟飯に言葉の意味を求めてきた。

「なんだ、それ?」

「有名な諺ですよ。普段から口に出してあれこれ言う人よりも、なにも言わない人の方が心に思っていることが多い、って意味です」

「ははっ、たしかに蝉の奴はギャーギャーうるせぇもんな」

「変じて、忍ぶ恋の代名詞にも例えられていますね」

「しのぶこい?『こい』って、池で泳いでるあいつじゃねぇよな?」

「あはは!・・・一説では、言葉で伝えられない蛍の方が、蝉よりも恋に身を焦がしているそうですよ」

「・・・ふ~ん・・・。・・・なんか、わかるような気がするな、蛍の気持ち・・・」

「えっ・・・!?」

本当に、今日の悟空は一体どうしたというのだろうか。
悟飯の驚きは止まらなかった。
と同時に、ひとつ判明したこともあった。

(ってことは、お父さんは未だにお母さんに『好きだ』とか言えてないんだな・・・)

世間一般では、こと恋愛に関して『口で言わなくてもわかってくれよ』というタイプの男性が多いと聞いたことがある。
例に漏れず悟空もそのタイプに該当するのか、それともただの口下手なのか、はたまた極端に奥手なのか。
いずれにせよ、これだけ長年連れ添ったのにも関わらず言葉ひとつないというのは、如何なものだろうか。
気が強いチチだとて、たまには言葉が欲しい時もあるだろうし、言葉がないことを寂しく感じてしまう時もあるだろうに。

「たまには声に出して言ってみたらいいんじゃないですか?」

と、悟飯は努めてさりげなく悟空に提案した。
もしもこれで、悟空がチチに『好きだぞ』と言えたなら万々歳だと思った。
きっとチチは上機嫌になって、暫くは夫婦円満、家庭円満の平穏な日々が続く筈だ。

「言うって、何をだ?」

「だから、お母さんに『好きだ』って言ってあげるんですよ。そうしたらお父さんもスッキリするし、お母さんも喜びますよ」

悟飯のこの説得に、悟空の瞳に決意の光りが宿り、悟飯はそれを頼もしい思いで見つめ返した。
たった一言、一言だけでいい。

「照れなくれもいいんですよ。一言だけでいいんですから」

「悟飯・・・」

悟飯の言葉に、悟空が口を開いた。
こうして両親の恋愛事情について悟空と語らう日が来るなど、悟飯は夢にも思っていなかったが、それだけ互いに蛍の景色の美しさに酔ってしまっていたのかも知れなかった。

「   」

悟空が何かを言った。
だが、その声は、突然辺り一帯に響いた爆発音にかき消されて、敢え無く悟飯には聞き取れなかった。
驚いてふたりが空を見上げると、そこには巨大でカラフルな華が咲いていた。
森の木々に遮られて全容は見られなかったが、蛍の饗宴よりも強くて明るい光、あれは間違いなく花火だった。
その花火がパラパラと独特な音を立てながら美しい花びらを散らす頃、再び地面を揺るがすような爆音が轟き、続いて何かが空を切って昇ってゆく音が尾を引くと、その音に半瞬遅れて夜空の一部が明るく照らされる。

「あ・・・」

夏の宵空に咲く大輪の華に何かを刺激されたような声を悟空が上げたのは、二発目の花火が打ち上げられた時だった。

「・・・思い出した。チチと悟天は、塾の友達と花火を見に行ったんだ」

「あっ、だから夕食を食べてからだったんですね。・・・って、そういえば、パオズ山の周辺の開拓が進んで市の人口が目標数に達したから、その記念に花火を打ち上げるって、先月の広報誌で読んだような・・・。そうか、今日だったんですね」

「ああ。すっかり忘れてたなぁ・・・。そういやさ、この辺の人口が増えたことで、チチの奴が悟天の塾の友達の母ちゃんに署名を頼まれたんだ。何でも、近くに学校を建ててもらえるように、市の偉いおっちゃんに掛け合うんだってよ」

「そうなんですか!?それが実現したら、悟天の塾の友達は、そのまま学校の友達になるってことですよね!?」

「そうか、そういうことになるんか。・・・だったら、叶うといいよな。悟天の学校も、こいつらの恋も、さ」

まただ、と悟飯は不思議になった。
どうして悟空は、こうも蛍の恋にこだわるのだろうか、と。
自然界に詳しい悟空のことだから、蛍の寿命が短いのは知っている筈だ。
さきの諺を聞いて、短命の蛍に儚さを感じたのだろうか。
儚さを憐れむような繊細な神経をしているとは、とても思えないのに。
それとも、一連の悟空の発言は、単純に悟空の優しさからくるものなのだろうか。
どちらにせよ、目下のところ悟飯には地球よりも、今夜の悟空の心理こそが今世紀で最大のミステリーになりそうだった。
だが、今は、謎解きよりも悟飯が興味をそそられるものがある。

「・・・ねぇ、お父さん。お父さんの畑からなら、花火が見られるんじゃないですか?」

「おお!そうだな。あそこなら眺めがいいから、よく見えるかも知れねぇな。・・・よし、行ってみるか!」

ようやくいつもの調子に戻った悟空は、悟飯の手首を掴むとひらりと夜空に舞い上がった。
こうして舞空術で飛んで行けば、あっという間に目的地に辿り着ける。
ふたりは連発で打ち上げられる花火を視界に捉えながら飛び続け、ほどなくして眼下に崖の上の畑を認めると、ふたり同時に着地した。
思った通り、平地を見下ろせる崖の上からは花火がよく見える。
その花火の光に浮かび上がった悟空の顔に、悟飯はふっとあることを思い出して、悟空に尋ねてみた。

「お父さん、さっきは何て言ったんですか?」

「ん?さっき?」

「ほら、最初の花火が打ち上がった時ですよ。あの時、お父さん、何か言ってたでしょう?」

「・・・ああ、あれか・・・」

あの時、悟空は何と言っていたのか。
唇の動きから『わかった』と言ったようにも思ったが、悟飯は今後の為に、念には念を入れて確認しておきたかった。
だが、悟空は答えるのを躊躇うように口を閉ざして、悟飯の不安を煽った。
こんなタイミングに限って花火が消え、暗がりの中の悟空がどんな表情をしているのかがわからない。

(もしかして、もう忘れちゃったのかな・・・?)

と、悟飯が疑惑の眼差しを悟空に向ける頃になって、再び悟空が口を開いた。

「・・・思い出した。『悟飯、花火だ』って言ったんだ・・・」

そう言って笑った悟空に微笑みを返しながら、悟飯は内心でがっかりしていた。
なんだ、そんなことだったのか、と。
だが、悟飯は知らなかった。
悟飯の為に『幻の蝉』を探す悟空を突き動かしたものを。
短命の蛍の恋に同情した悟空の心境を。
アプローチの手段を知っているだけ、蛍の方がまだマシだ、と悟空が思っていたことも。
これらの答えと、この日に聞きそびれた悟空の言葉を悟飯が知ったのは、それから半年以上も経ってのことだった。





END

ここまでお読み戴きありがとうございました。
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