【蛍】
夏休みを数日後に控えたある日のこと、夕食を終えた悟飯は悟空に夕涼みの散歩に誘われ、チチと悟天を残して我が家を後にした。
「お母さんと悟天も誘えばよかったのに」
鬱蒼とした暗い森をぶらぶらと歩きながら、悟飯はつと、何の気なしにそう零した。
高い樹木に覆われて昼間でも陽が射さない森の中は、夕暮れともなれば危険な猛獣や猛禽がうろついていて女子供の散歩には不向きなことこの上ないが、孫家の人間が揃っていれば取るに足らないレベルの危険だった。
どうせ散歩するなら、家族全員での方が楽しいに決まっている。
悟飯はそう思った。
特に、夕暮れ時の散歩なんて珍しいシチュエーションは、悟天が大喜びするに違いない。
ところが、悟空から返ってきた応えは、悟飯の予想を大きく裏切るものだった。
「そいつは無理だ。チチと悟天は夕飯食ったら出掛けるって言ってたからよ」
「ええっ!?本当ですか!?」
悟空は嘘のない男だと知りながら、それでも悟飯は耳を疑ってしまった。
日が暮れてからチチと悟天が外出するなど、それこそ珍しい。
だが、これで、夕食後に空いた皿を猛スピードでテーブルの上から片付けていたチチの慌てぶりに合点がいった。
「お母さんがこんな時間に悟天を連れて家を出るなんて、珍しいですね。誰かと約束でもしてるんですか?」
「ああ。悟天の塾の友達一家と、どっかで待ち合わせしてるとか言ってたなぁ」
「・・・こんな時間に、ですか?お茶やディナーでもないのに?」
「ん?・・・ああ。メシ食ってから会う約束だって、チチが言ってたんだけどよ。・・・なんだったかなぁ?」
悟飯の素朴な疑問に対しての悟空の返答は、なんとも頼りないものだった。
それもその筈、チチは夕食が済んだら出掛ける旨を、今朝になって思い出したように悟空に伝えたのだが、その理由を悟空が聞いたのは一ヶ月も前のことだったのだ。
そんな大昔に説明されたことなど、ひと晩も寝ればあらかたのことは忘れてしまう悟空が覚えていられるわけがなかった。
「ま、いいじゃねぇか。こんな時間にオメェと散歩なんて、滅多にあることじゃねぇんだからよ」
「それもそうですね。それどころか、夜のパオズ山なんて、僕は初めてですよ」
「そういや、そうだな。オラも夜のパオズ山は、久しぶりだ。ガキの時以来かな」
「その頃と比べても、変わってないんじゃないですか、この辺は」
「そうでもねぇぞ。あの頃はまだ小さかった木が、今じゃでっかくなってたりするからなぁ」
悟飯のささやかな質問を機に、ふたりは他愛もない会話を楽しみながら、暗い森の中をぶらぶらと歩いた。
悟空の言う『ガキの頃』が何歳の時を差しているのかわからないが、四歳以前の悟飯ならば、まず今日のように悟空について来ることはなかっただろう。
なにせピッコロと出逢って暫く経つまでは、昼の森でさえも怖くて堪らなかったのだから。
と、自分が何者かを知らなかった昔を思い出した悟飯は、悟空の話に相槌を打ちながら、遠い過去の懐かしさに目を細めた。
あの時にサイヤ人の襲来がなかったら、悟飯はあのまま両親から甘やかされて育ち、未だに森が怖くてひとりではいられなかっただろう。
それが、今ではこうして悟空とともに夜の森を歩けるのだ、悟飯を鍛えてくれたピッコロにはどれだけ感謝しても足りないくらいだった。
と、悟飯がふと自身の子供時代を思い出したのと同じく、人生の大半をパオズ山で過ごした悟空にもここでのエピソードの数々が蘇り、悟空はそれらを面白おかしく悟飯に語って聞かせた。
そうこうしているうちに、悟空のエピソードのひとつである川に辿り着き、ふたりは川の流れに逆らうように、川沿いを上流に向かって進んでいった。
この川にまつわる悟空のエピソードとは、悟飯が流されたアクシデントである。
「・・・丸太に止まった綺麗な鳥に見とれていたら、丸太ごと川に流されて・・・」
「・・・筋斗雲で必死に追いかけたんだけどよ、あとちょっとのとこで手が届かなくて・・・」
悟空と悟飯の会話は尽きることがなく、猛獣の唸り声も、猛禽が森から飛び立つ音も意に介さず、ふたりは昔話に花を咲かせた。
悟空も悟飯も昼間は農業と学業に勤しんでいる筈なのに、談笑しながらの散歩が楽しいせいか、ふたりともまるきり疲れ知らずだった。
その、楽しい話題が三度変化したのは、悟飯が流された川に流れ込む、細い支流に突き当たった時だった。
「ガキの時にさ、夜中に目が覚めて、小便をしに外に出たことがあったんだ。空に細い月がかかってた晩だったなぁ・・・」
記憶の中の景色を眺める悟空の横顔に、子供の悟空の姿を想像しながら、悟飯は悟空の昔語りに熱心に耳を傾けた。
悟空が自ら子供時代の出来事を語るのもまた、珍しいことであったからだ。
「そしたら、昼間はあんなにワンワン鳴いてた蝉の声がぜんぜん聞こえないから不思議に思ってよ、小便してからぷらっと散歩を始めたんだ」
『蝉』のキーワードに耳をくすぐられた悟飯は、悟空より一歩さがった位置でふっと頬を緩めた。
ふたりの思い出話に蝉にまつわるエピソードが新たに加わったのは、つい数日前のことだった。
あの日、悟空は悟飯の為に農作業を放り出して、一日を費やしてくれたのだ。
「爺ちゃんから満月の夜は絶対に外に出るなって言われてたけどよ、『今夜は満月じゃねぇからいいか』なんて気楽なもんだったさ。初めて歩く夜の森が面白くて、暗かったけどちっとも怖くなんてなかった」
一方的に話す悟空の声が小川の流れる音と相俟って耳に心地よくて、悟飯は声ではなく、微笑みで悟空に相槌を打って続きを促した。
悟空もまた、悟飯が悟空の思い出話を楽しんでいるのを感じて、微塵の不安も不満も抱くことなく、歩みと昔話を進めていった。
「川にぶち当たったら、そのまま上流に向かってぶらぶら歩いてさ。川の表面が月明かりにキラキラ光ってて、すげぇ綺麗だった。そうやって歩いているうちに、偶然見つけたんだ・・・。そら、その茂みの向こうだ」
悟空の掛け声とともにかき分けた茂みの向こうに現れたのは、蛍の大群だった。
今や鑑賞できる地域が極端に少ない夏の風物詩とあって、蛍の有名なスポットは毎年ニュースの話題として取り上げられているが、今悟飯が目の当たりにしている蛍の群れは、その中のどれよりも規模が大きかった。
パオズ山にこんなところがあったなんて、と、パオズ山に住む悟飯ですら知らなかったのだから、おそらくは一般的にも知られていない筈だ。
きっと、人間の手が入った記録のない原始時代からの原生林に、我が身の危険を顧みずに日が暮れてから蛍の生息地を探して足を踏み入れる冒険者など、皆無だったに違いない。
人に知られていないということは、人間に荒らされた経歴もないということだ。
もしかしたら悟飯が見ているこの景色は、蛍が地球上に現れてからというもの、人間の一生よりも永い時間変わることなく連綿と続いてきたのかも知れない。
これは些か大袈裟な表現かも知れないが、今、悟空と悟飯は地球の歴史の一部を垣間見ているのではないだろうか。
そんな考えに、悟飯の胸の鼓動は苦しいくらいに昂まった。
「綺麗だろ?いつかオメェに見せてやりてぇ、ってずっと思ってたんだ。でも、オメェが森を怖がらなくなってからも、オラ達は闘いばっかで、それどころじゃなかったからな。
やっと地球が平和になって、オラもこの世に戻って来られたけど、今度は家の周りが開発されてて、ちょっとだけ焦っちまった。でも、この辺は住宅地から離れてるから、もしかしたと思ってさ」
悟飯をここに連れて来るに至った経緯を説明する悟空の声を、悟飯は横顔で聞いていた。
本来なら悟空の好意に対して真っ先に礼を言わねばならない筈なのに、悟飯はたった一言『綺麗ですね』と呟くように返しただけで、それきり発するべき声を失ってしまった。
今のこの光景を、『綺麗』や『美しい』の言葉だけではとても表現しきれない、と悟飯は思った。