【迷いの森-幻を追って-】


「悪ぃ、悪ぃ、悟飯。この前聞いた蝉をオメェに見せてやろうと思ってさ、ずっと探してたんだ。オラの気配で逃げちまわないように、一日中、気を消してな。・・・まさかオメェ達がそんなに心配してるとは思わなかったぞ」

悟飯の肩を掴んで自分の体から引き剥がしながら悟空は悪びれもせず事情を打ち明けると、
何事もなかったようにいつもの笑顔でにかっと笑った。
そんな理由で家族に心配をかけたのかと悟飯は呆れつつも、父が自分のために『幻』とまで呼ばれた蝉を探してくれていたことに感動を覚える。
よいせ、と掛け声と共に立ち上がった悟空は、右手を差し出して悟飯にも立ち上がるように促した。

「もっとも、一日中探し回っても見つかんなかったけどな。さすが『幻の蝉』って呼ばれるだけのことはあるな。簡単には見つかんねぇ」

自分の手を掴んだ悟飯を上へと引っ張り上げながら悟空は感心した様子で、己の思い通りにならない現実を悔しがるでもなく、淡々と悟飯に語った。
だが、諦めの滲まないその口調に、今日は駄目でもいつの日か目的を達成させようとの悟空の意思を、悟飯は感じ取っていた。

「・・・いいんですよ、お父さん。僕は『幻の蝉』を見ることより、お父さんが傍にいてくれることの方が嬉しいんですから。でも、僕のために、ありがとうございました」

悟空と同じ目線で静かに微笑む悟飯の素直さを、悟空は眩しい想いで受け止めた。
悟空が望んだあの輝きは見られなかったが、自分と同じ時を生きる父親の存在を悟飯が喜んでくれるなら、今のところは良しとするべきだろう。
日射病と熱射病の危険を冒してまで、苦労した甲斐があろうというものだ。

「それにしても腹減ったなぁー!そろそろ夕飯の時間だろ?いい加減、家に帰って・・・」

今や山の端に半身を隠す太陽にも負けないくらいの明るさで、悟空は次の行動を提案する。
生気に溢れたその声を、立ち上がったままの姿勢で直立不動になった悟飯が、『しー』と人差し指を口に当てて遮った。
悟空は、悟飯のこの仕草が父親の声を疎ましがったものではないと瞬時に悟り、悟飯と一緒に森の気配を探り、森の声に耳を澄ますことにした。
己の気を消し、森と同化して空気に溶け込み、二人してその場に静かに佇む。
と、悟空も悟飯も、昔からよく知っている森の音の中に、微かな違和感を覚えた。
昼間は灼熱の太陽が生あるものに過酷な環境を強いているが、夏至を幾日か過ぎて夏も後半を迎えた今時分は、陽が傾きかけると気の早い秋の虫たちが次々と合唱を始める。
平地より幾らか時期の早いその合唱の中に、秋の虫に似てはいるが、それより若干力強い鳴き声がひとつだけ混ざっている。
声のもとを辿って移動する悟飯に釣られるように悟空も音を立てずに草むらを踏み分けて進んで行くと、一本の大きな木の前で悟飯が足を止めた。
この森が地球上に存在して以来人間が斧一本入れた形跡がないと世間で噂されるだけあって、樹齢が千年を超える大木は珍しくなく、今悟飯が見上げている大木も、おおよそ千年以上は生きていると容易に想像できるほどの勇姿を誇っている。
幹の下には太陽の日差しも月の光りも届かないであろうほど生い茂った葉の隙間から、悟飯が目を凝らして懸命に何かを探す。
大木に近付くにつれ、微かな違和感程度にしか聞き取れなかった鳴き声は、これまで聞いたことがない蝉の鳴き声だと二人は確信していた。
と、大木の幹を上から下まで真剣な表情でまじまじと見つめていた悟飯が、ある一点で視点を固定させると、無言で悟空を手招きした。
近付いた悟空にニコリと笑顔を見せた悟飯の指が指し示した先を見ると、その身が木の幹と見紛うほど両羽が透き通った蝉が、通常のものより小さな体を健気に震わせて短い生涯の伴侶を求めて鳴いていた。
実際に目の当たりにするとあまたのものより2回りほど小振りだが、あの日図鑑で見たものと同じ蝉だった。

「・・・見つけた」

『幻』を発見したまさかの感動に、思わず胸の震えを呟いたのは二人のうちどちらだったのか。
二人は互いの顔と蝉とを交互に見比べ、今のこの瞬間が夢ではなく現実であることを相手の瞳の中に確認した。
確認する毎に心の中に静かに沸き起こった感動は感激の嵐へと変貌し、やがて二人は手を取り合い、時として肩を叩き合い、やった、見つけた、と同じ言葉を何度も繰り返して狂喜乱舞した。
森の中に突如として起こった歓声と、この森に存在する筈のない人間の気配に驚いた動物達によって、『有史以前の原生林』との誉れも高い森はたちまち喧騒の渦に包まれる。
その騒々しさに身の危険を感じたのか、悟空が一日を費やして探した『幻』は、自らの体液を二人に撒き散らしながら安息の地を求めて旅立ってしまった。

「あ・・・」

後悔先に立たずとはこのことだ、悟飯はもっと見ていたかっただろうに、と蝉の体液に濡れた顔を手の甲で拭いながら、悟空は心の中で悟飯に詫びた。
と、己の手の甲とは逆側に視線を背けた時、悟空は自分の胴着の肩口が濡れているのに気が付いた。

(あいつ、オラの肩で涙を拭きやがったな。・・・ったく、図体ばっかりでかくなっても、中身はガキの頃のまんまだ)

道理で、瞬きをした瞬間に零れ落ちそうなほど盛り上がった涙がいつの間にか消えていたわけだ。
幼い頃の悟飯は、よくこうして不安の涙を父親のズボンで拭っていた。
懐かしい悟飯の仕草に、自然と笑いが込み上げてくる。
界王神界での別れ間際の悟飯の行動といい、気を消した父親を発見した時の様子といい、間違いなく悟飯は今だに父親に依存している。
それを指摘してせっかくの悟飯の機嫌を損なうなど、そこまで愚かな真似はしないが。





「発見が難しかったのは、日中ではなくて夕暮れどきにしか鳴かないからだったんですね。しかも鳴き声が秋の虫に似ていて、あそこまで完璧に擬態していたら、誰も気が付かないのも頷けます」

自宅を目指して森の上空を飛翔しながら、悟飯はキラキラと言葉を並べる。
やはり、普段より饒舌になって。
悟飯の声に相槌を打ち、悟空は悟飯の眩しい輝きを嬉しく感じていた。
ようやく念願が叶ったのだ、嬉しくない筈がない。
―だが、自分のもうひとつの願いはいつ叶うのだろうか。
下を見下ろせば、広大な範囲に渡ってパオズ山の森が広がっている。
この森で迷ったのは今日が初めてだが、心の中の森にはもう何年も前から迷い込んでいた。
いったいいつの間に足を踏み入れたのか、その記憶も定かでないほど遠い昔から。
今日は一日をかけて幻を追っていたが、悟空が心の中の森で追っているのは幻などではなく、悟飯の心だった。
もしも、さきほどのように、己の心の中の森でさ迷う自分を悟飯が見つけてくれたのなら―
その時の悟飯が、息子としてではなく、一人の男として自分の目の前に現れてくれたのなら―
そうしたらいつか、遠い昔からさ迷っていた心の森の中から抜け出せるのだろうか。





―この、『片想い』と云う名の迷いの森から―





END

ここまでお読み戴きありがとうございました。
2/2ページ
スキ