【迷いの森-幻を追って-】


東の地区の何割かを占拠するパオズ山の一角に建てられた、孫家。
その裏手には人通りを嫌う山奥ならではの樹海の緑が、衣装のようにパオズ山を飾っている。
だが、『有史以前の原生林』と世間一般の評価も高いパオズ山特有の森は、今や孫家の周辺に民家が増え、時の移り変わりと共に徐々に減少しつつあった。
森の減少に伴い、森に棲息する動物の絶対数や生態系も偏差を遂げていた。
中でもこの森にしか見られない貴重種の生き物が姿を消しつつある事実は、生物学や環境保護、自然監察などのあらゆる分野に深刻な影を落としている。
小さな昆虫から大型の肉食獣まで、パオズ山の森にしか生息しないと公表された貴重生物のひとつを追い求めて、一人の男がカンカンと照りつける真夏の太陽の下、大木が乱立する鬱蒼とした森の中深くをさ迷い歩いていた―





この森に足を踏み入れてから、いったい何時間が経過したことだろうか。
澄んだ川の水で咽喉の渇きは潤せたが如何せん空腹には勝てず、一旦は目的を中止して昼飯時にしこたま大量の食料を胃へと流し込み、再び同じ場所に戻って来てからもう既に数時間が経っている筈だ。
標高が高いおかげで平地より幾分か気温が低いとはいえ、毎年死者を出すほどの暴力的な暑さが容赦なくこの男の体を苛んでいる。
干からびるほどの大量の汗に濡れた山吹色の胴着は、びしょ濡れになっているどころか蒸発した汗が塩の結晶と化して所々に白くこびりつき、ゴワゴワとした感触を着る者に伝えていた。
―それにしても、暑い。
何度水分を補給しても、まるでこの男の体内に長時間留まるのを嫌うかのように、補給した水分は直後から汗となって体外へと排出されてしまう。
武術で鍛えた屈強な肉体と不屈な精神力を持つとはいえ、朝から息を潜めて気を殺し、この炎天下の中を延々とさ迷い続けるのは勇者であるこの男でもさすがに堪えた。

「かー!駄目だ、全然見つかんねぇ!」

暑さと空腹と疲労と、この森に足を踏み入れた目的が達成されない虚しさに、山吹色の胴着の男は自宅のリビングのソファーに寝転ぶ気軽さで、足下の草むらにごろんと身を横たえた。
珍しく疲労の色が表れたその顔面に、頭上の梢が生い茂る葉の形で影を落とす。
気を消しているおかげで、森に住む生き物達は人間の存在に気付いていない。
草食動物は低木の枝や葉をかき分けて進み、小動物は草の上を移動し、小鳥は美しい鳴き声を森に響かせる。
様々な自然界の音や大小の動物や小鳥の鳴き声、けたたましい蝉の大合唱に男が汗に濡れた瞼を閉じると、男の耳に愛息子の声が蘇ってきた。

『図鑑に載ってるこの蝉、発見が難しいことから“幻の蝉”と呼ばれていて、生態系が明らかになっていないんですよ。最後に発見されたのはかれこれ20年近くも前なんですけど、それから一度も目撃情報がなくて、近年では絶滅が噂されているんです。でも僕、4歳の時に一度だけパオズ山の森で見たことがあるんですよ。最後の目撃情報もパオズ山の森だったから、もしかしたら、まだあの森に生き残っているかも知れない。・・・もう一度見たいなぁ・・・』

いつになく饒舌になった悟飯にトランクスは尊敬を含んだ感嘆の声を上げ、お兄ちゃん子の悟天は兄自慢を始め、目を丸くして説明を聞いていたベジータは、丸くなった目を細めて穏やかな笑みを浮かべた。
つい数週間前にもベジータのこの表情を目撃した男の胸中に一瞬だけ黒い叢雲が立ち込めたが、今は『目的』という風が黒い叢雲を吹き消してくれていた。
悟飯の為に何としても、発見の困難さに『幻』とまで呼ばれている蝉を見つけたい。
目をキラキラさせながら心なしか頬を上気させ、興奮の為に早口になったあの時の悟飯は、惑星を惹き付ける恒星のように自ら光りを放っていた。



―あの輝きを、もう一度見たい。



究極の強さを手に入れた悟飯には二度と逢えないだろうが、悟飯が輝く様ならもう一度見られるかも知れない。
太陽の周りを巡る惑星のように、悟飯という名の恒星に惹き付けられた名もない星のひとつなのだ、自分は。
そしてどうやら、この恒星に惹き付けられた星はひとつだけではないようだった。
悟飯の放つ光りは穏やかで優しくて、誰もが何の抵抗もなく受け入れ、誰もが居心地の良さを感じる。
かつては冷酷で人間らしい情けなど持たなかった彼も、らしくなくあの暖かい光りに惹き付けられたのだろうか。
夏至が過ぎたとはいえ照りつける強力な日差しに男が眼を閉じると、地表を熱する太陽が容赦なくその瞼を焼いた。

「悟飯・・・」

瞼の裏に浮かんだ、頭上に燦然と輝く太陽より眩しい存在の名を呟くと、どこからかそよ吹く風が男の前髪と閉じた睫毛を優しく揺らす。
その風に意識を攫われるように、森をさ迷っていた男、悟空は知らぬうちに静かな眠りの中へと落ちていった。










「・・・さん・・・お父さん!」

不意に体を揺さ振られた衝撃で目を覚ました悟空は、咄嗟に我が身に起こった状況が飲み込めず、暫し呆然とした。
一時の休憩のつもりで目を閉じた筈が、いつの間にか、森の景色は色も音も様子が変わっていたからだ。
草むらに寝転がったまま頭上を見上げれば、まるで王者のような高みに位置していた太陽は、その身を沈める時にすら己の存在を主張して西の空にオレンジ色に輝いている。

「・・・あれ・・・?オラ、いつの間にか寝ちまってたのか・・・?」

分厚い手の平で寝ぼけ眼をこすりながら上半身を起こすと、悟空の目線にぴたりと同じ位置に、悟空の眠りを妨げた張本人の不安に揺れる瞳があった。
悟空を心配そうに見詰める黒曜石の瞳には持ち主の心境を象徴した透明色の液体が、瞬きの瞬間に零れ落ちそうな大きさで盛り上がっている。

「・・・お父さん・・・」

父親を親し気な声で呼んだ次の瞬間、表情を不安から安堵へと変えた悟飯は無言で悟空を抱き竦めた。
まだ眠りから醒めやらぬ悟空にも、どうやらうっかり野外で眠った自分を起こしてくれたのが悟飯だと認識できたが、突然の息子の行動の理由は掴めない。
どうしたことだろうと戸惑いながらも、子供の頃の泣き虫だった悟飯によくしてやったように、今では父親とさほどサイズが変わらなくなった背中を『よしよし』とさすってやると、しゃくり上げるように悟飯が話し出した。
そういえば自分はこの森に何の用があり、ここで何をしていたのだろうか。

「・・・学校から帰ったら、お父さんがお昼ご飯以外はどこに行ったのかわからない、ってお母さんから聞いて・・・。悟天も朝からお父さんの気が消えていたって言うので、僕もお父さんの気を探ってみたんですけど、お父さんの気がまったく感じられなくて・・・。あちこち探し回っているうちに、もしかしたらお父さんが生き返ったなんて嘘だったんじゃないかと不安になってしまったんです」

悟飯のこの説明を聞いて、自分が何の目的でこの森にいるのか、脳が目覚め始めた悟空はやっと思い出した。
そうだ、自分はこの子のために、一日中この森をさ迷っていたのだ。
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