【good night】



「なんだ、悟天、まだ起きてたのか?」

入浴を済ませたばかりの悟飯が、悟空の膝の中に己の居場所を確保してバラエティー番組に見入っている弟に、驚愕の入り混じった非難がましい声を投げた。
非難された当人とその父親とがリビングの壁掛け時計に目を遣れば、時計の針は悟天の就寝時間を幾ばくか過ぎた数字を指し示していた。
季節の変わり目のこの時期はどこのTV局でもバラエティー番組が目白押しで、その中のひとつに夕食を終えた悟空と悟天がハマり、時の流れを忘れさせるバラエティー番組の特徴に二人共すっかり悟天の就寝時間を失念していたらしい。
”もう寝る時間は過ぎてるだろ”と悟天の保護者面をする悟飯の背中から皿が重なり合う音が聞こえ、教育熱心の母親が夕食後の片付けに追われてこの場にいないのも一因に違いないが、何よりも子供の教育に関心のない悟空が一緒にいたのが良くなかった。

「ダメじゃないか」

性格は大人しいものの男子高校生らしく仕草が男っぽくなった悟飯が、濡れた頭をフェイスタオルでガシガシ拭きながら甘えん坊の弟に追い打ちをかける。
そのすらりと肢体を、父親である悟空が頼もしそうに下から見上げた。
子供の頃からしっかり者の悟飯、これではどちらが父親かわかったものではないと感心しながらも、あの泣き虫だった悟飯がと思うと、自然に笑みが零れ落ちる。
だが、成長しても他人に甘い性格は相変わらずのようで、弟を諌める悟飯の声にはいささかの怒りも厳しさも感じられない。
弟の悟天もこの程度の兄の叱咤には慣れているのか、まるでメゲる様子もなく謝罪の言葉を笑顔で返す。
父親が不在だった頃には日常的にこんなやり取りが兄弟の間で交わされていたのかと、悟空は二人の顔を交互に見比べながら見守った。
ところが―

「お兄ちゃん、おやすみなさいのチュウして」

至極当然のことのように兄に甘える悟天のこの言葉に、悟空は固まってしまった。

(おやすみなさいのチュウ!?そんなこと、オラだって悟飯としたことねぇぞ・・・!)

そんな恥ずかしい申し出を悟飯が聞き入れるだろうかと悟空は訝しがったが、これも父親が不在時の兄弟間の日常的なやり取りだったらしく、悟飯は微塵の躊躇いも見せずに弟の額へとキスをする。
お風呂上がりの悟飯が纏った石鹸の清潔な香りが、悟天と、悟天を膝に抱く悟空を包み込み、悟空は思わず息を飲んだ。
フェイスタオルから覗く悟飯のまつ毛と、入浴で上昇した悟飯の体温にさきほどとは別の理由で悟空の体が動かなくなる。
大好きな兄から愛情を貰って満足した悟天が、動きを止めて生きた椅子と化した悟空から離れ、満面の笑顔で悟飯と就寝の挨拶を交わし寝室へと向かう。
その無邪気で子供らしい悟天の様子を横目で見遣りながら、悟空の頭にあることが閃いた。

「なぁ、悟飯、オラにも『おやすみなさいのチュウ』してくれよ」

悟天が許されるなら自分にもと、悟空は短絡的な思考回路で悟飯に迫ったが、突然の予期せぬ悟空からの言葉に今度は悟飯が固まる番だった。
口を『え』の形のまま顔面を硬直させた悟飯だが、脳は耳から得た情報の分析の為に動き出す。
悟空の出自がサイヤ人であっても、日常生活は地球人のそれと変わらない。
高校生にもなった息子とその父親とが就寝前の挨拶にキスを交わすなどと、地球人の親子の日常生活の在り方として普通だろうか。
しかも、相手は何かを期待するように眼を閉じ、心なしか唇を前に突き出している。
まさかとは思うが、『そこ』におやすみなさいのキスをしろとでも云うのだろうか。
幾ら世情に疎い悟飯でも、さすがにそこまでは行き過ぎで、普通ではあり得ないことくらいはわかる。
どうしたものかと悟飯は戸惑い、驚愕で鈍った頭で取るべき行動を模索した。
気にそまぬならば逃げるという選択肢もある筈だが、家族間で不公平感を与えるのも良くない。
ならばと、悟飯は悟天の時と同じに悟空の額へとキスを落とした。

「サンキュー、悟飯。おやすみ」

悟飯が悟空から離れると、見当が外れた筈なのに悟空は不満気な様子も見せずに悟飯に笑顔を返す。
ほっとした悟飯がいつもの礼儀正しさで父親に就寝の挨拶をして自室に向かうと、ようやく夕食後の後片付けを終えたチチが濡れた手をエプロンで拭いながら二人の前に姿を現した。

「悟飯、もう風呂には入ぇっただな。今からまた勉強するだか?」

幼少期から逐一頭から押さえつけるように悟飯の世話を焼いていたチチが、真面目な青年に成長した息子に信頼の声をかける。

「うん。お腹が空いたら自分で適当に何か食べるから、お母さんは先に休んでていいよ。おやすみなさい」

悟飯もまた、一日中家事に追われる母に気遣いを見せる。

「おやすみ、悟飯ちゃん。さて、おらも風呂に入ぇってくるかな」

許可など必要ないのに夫へと振り返ったチチに笑顔のままで頷きながら、悟空はおや、と思った。
チチに対する悟飯の口調が、悟空が知っているものより砕けていた。
信頼関係が成立しているのは確かだが、父親が不在の7年の間に、母子の関係に微妙な変化があったらしい。
悟飯の幼少期にはあれだけ口やかましかったチチが、今や悟飯にはまるきり指図をせず、勉強も生活習慣もすべて悟飯のペースに任せきりにしていた。
今回の入浴の件もそうだ。
以前は一番風呂は必ず悟空と悟飯と決まっていたのだが、家族が増えたことでチチは入浴の順番にこだわらなくなり、中でも悟飯だけは時間も順番も自由が許されていた。
精神的にも肉体的にも成長し親離れが始まった悟飯は、親に口出しをして欲しくない、むしろ放っておいて欲しい、ましてやベタベタとしたスキンシップなど必要としないオーラを微かだが放っている。
それを感知したからなのかそれとも育て上げた安心感からなのか、まだまだ手のかかる悟天と違ってチチは悟飯に対しては見守り役に徹していた。
そもそも悟飯の幼少期にチチが口うるさかった理由は、初めての育児に必死になるあまりに神経質になっていたのだと今では理解できる。
かたや次男の悟天には、チチは躾や教育には相変わらず厳しいが、二人目の余裕が見られた。
子供の成長に伴って母子の関係も変化してゆくものなのだろうが、悟空と悟飯の父子の関係は依然として変わらない。
悟飯の父を呼ぶ声には、7年前と同じく尊敬という名の愛情が感じられた。
悟飯の悟空への認識は、父親以上ものではない。



だが、果たして本当にそうだろうか―



額に軽く唇を当てるだけのキスの後、フェイスタオルの隙間から覗く悟飯の頬がほんのりと紅く染まっていた。
閃めき当初の目論見通りにことが運ばないのは覚悟していたが、悟飯が頭から被ったフェイスタオルが悟空の顔を覆い、フェイスタオル以外の何か目に見えない別のものに包まれているような錯覚があった。
あのフェイスタオルのおかげで、キスの時、悟飯の体温がふわりと上がったのがわかった
親とのスキンシップを必要としない普通の男子高校生が父親の額にキスをするのにわずかでも嫌悪感を抱くのは当然の心理だとしても、果たして頬を赤らめて照れたりなどするだろうか。
そんな悟飯の様子に目が釘付けになり、それきり悟飯から目が離せなくなった。
リビングから完全に姿を消す直前、ちらりと悟空を振り返った悟飯。
悟空を気にかけたのは父親の機嫌を損ねたかも知れないと心配したからなのか、それとも別の理由からなのか。
いずれにせよ、悟飯の中にこれまでとは違う何かが芽吹き始めていたのだとしたら、期待以上の収穫だ。



このまま、ただの親子のままでいるのか。



それとも、親子以上のものを望むのか。



悟飯の中で父親への愛が形を変えるのを、ただ待つだけなのか。



それとも―



「さて、どうすっかな」



座して状況の変化をただ待つだけなど己の性分に合わないと、悟空は自覚していた。
悟飯には眠れない夜が増えることになるだろうが。
TVのモニターに映るバラエティー番組に笑いを誘われたのでもなく、悟空はくすりと笑った。





END

ここまでお読み戴きありがとうございました。
1/1ページ
スキ