8章
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去っていこうとする清四郎を呼び止めることが出来ず、そのまま玄関に残された咲季は、しばし立ち止まった後自宅に入った。それでも、まだ清四郎の腕や耳元に残る吐息の感触が消えず、中々動けないでいた。
「清四郎が…私の事…」
昨日さんざん考えていた、清四郎の本心。
言葉だけでなく行動でも伝えられたその想いに、咲季は中々現実味なく頭の中でも処理できないでいた。
からかいでも、気の迷いでもない、本心からの言葉は、咲季がずっと欲しかったもののはずなのに。
「あんな自信のない顔して……」
あの自信家の清四郎が、あんな顔をして、思い通りにできないくらいに、自分のことを想ってくれている。
確かにあの冷静な清四郎から早くて強い鼓動を感じることがあるなんて、夢にも思わなかった。咲季は冷たいフローリングの床を歩きながら、ここに来るまでの清四郎を思い返す。
余裕のない行動も、口達者なくせに飾り気のない告白も、咲季にとっては新鮮でしかないが、それだけ清四郎は自分に拒まれることを恐れていると気づく。自分が避けられることを恐れていたように、彼も同じだったのではないか?
そうであれば、何故同じ気持ちだと言えなかったんだろうか。
思い返して冷静になるほど、どうして自分はそれにきちんと返せなかったんだろうと自己嫌悪の念が襲ってきた。
「嫌じゃない、ってなんで言えなかったんだろうー……」
あまりの驚きと、予想外の出来事にうまく対応できなかった自分を悔やむ。
はぁ、とため息をついてソファに座り込むと携帯が震えた。メールの差出人を見て、咲季はまた鼓動が跳ねる。清四郎からのメールだ。咲季は深呼吸してからメールを開いた。「さっきはすいません、ゆっくり休んでください。さっきのことは気にしないでいつもどおりで。」と書かれた文面に、咲季は思わず携帯を閉じてソファに転がった。
「………いやいや!いつもどおりって…そんな…」
絵文字も何もない、真面目なメールに咲季はリアクションしつつ携帯を閉じて返事に悩む。
いつもどおりにできるわけないじゃないか、と考え、無難に「ありがとう、おやすみ」と返した。我ながらそっけない文面だとあきれつつも、風呂の支度をする。
事件は今日で解決したかもしれないが、自分の問題はまだ解決していないことに戸惑う。それでも清四郎の真剣な様子がいつまでも頭から離れず、咲季は混乱する頭のまま浴室へ向かった。
***
翌日、報道陣が囲む聖プレジデント学園には、騒々しさはあるものの、平和が戻っていた。
高千穂理事は解任され、理事長のミセス・エールも復帰した。それでも一番話題になったのは魅録の銃事件だ。松竹梅魅録の人望は厚いようで、学園中が彼の無実を喜んだ。
権利書を届けに向かった有閑倶楽部の面々を、今日ばかりは教頭も校長も笑顔で迎えてくれる。その変貌ぶりにややうろたえるが、なにより理事長の笑顔を見ると全員が安心したものだ。
「お、咲季ちゃん、はいらんだがや?」
「あらあら、皆と一緒じゃなかったのね」
「おはようございます」
権利書を渡す場面に参加しなかった咲季は理事長室の前までやってきたものの、部屋の中に入れずにいた。
昨日の出来事から、まともに清四郎の顔が見られない咲季は、結局皆と合流できずに真面目に朝礼に出ていたのだ。
遅れてやってきたころには、すでに有閑倶楽部の面々が中に入っていたようで、もはや中に入るタイミングもさえ失ってしまっていた。そんなところに野菜を持ってきた剣菱夫妻に出会う。何も知らない夫婦は、そのまま何の戸惑いもなく理事長室のドアを開ける。
「いやー!本当によかっただがやー!」
「あっ」
「さっ、咲季ちゃんも入りなさい」
「えっ、わっ、私は」
剣菱夫人に半ば無理やり連れて行かれた咲季は居心地悪そうに部屋に入る。最初に目があったのは清四郎だったが、咲季も清四郎もなんとなく目を逸らしてしまった。それを目敏く見つけたのは理事長だった。
「あら、高天原さん」
「お、おはようございます。…体調はいかがですか?」
「よくなったわ。皆が権利書を取り戻してくれたおかげね」
「へへーん」
「あら、おいしそうな野菜!剣菱さん、いつもありがとうございます」
剣菱夫妻の野菜を嬉しそうに受け取った理事長はお礼を言い、そしてしばらくそれを見つめた後に咲季に目を向けた。咲季は集団の一番後ろで縮こまっていたが、理事長の視線に気づく。そして小さく首をかしげると、理事長が笑って口を開いた。
「ふふ、本当に、皆さんのおかげです。この学園を救ってくれてありがとう。…良い学生をもてて幸せだわ。さ、皆さん本来は授業の時間ですから、そろそろお戻りなさいね」
「あ、はい…」
思いもよらない“授業”という言葉に魅録は面食らいつつも返事をした。しかしすぐ後に理事長は小さくウインクをする。その合図を察した7人は、「さ、行こうぜ」という魅録の返事と共にドアに足を向ける。
「高天原さんは、少し残って頂戴」
「へ」
「もう一つ話したいことがあるの。留学に関して」
その言葉で部屋の中は一気に静まり返った。
嬉々として歩き出していた他の6名も立ち止まって振り返る。思いもよらない言葉ではあったが、咲季としては別段驚くことでもなかった。
しかし、自分以上に他のメンバーは驚きが大きいようだった。不安そうに悠理が咲季と理事長を見比べているのがそれを表している。
「……いきましょう」
「ちょっ、清四郎!」
その戸惑いの真ん中で、清四郎が皆を促した。
やはり悠理はついていけず、反抗の声を上げるが清四郎の視線に制されて黙り込む。
咲季は清四郎の声に昨日の自信なさげな表情を思い出し、胸が苦しくなった。清四郎の気持ちを知った今、彼のその言葉の裏にある気持ちを想像するのは難しくない。自分が留学することを誰より寂しく思ってくれるのは彼だろう。
清四郎は自分が言った手前、その場にとどまることは出来ず歩き出した。それにつられるように他のメンバーも歩き出す。教頭や校長も少し様子をうかがっていたが、理事長から一瞥されると空気を読んで退室した。
二人だけになった部屋の中、最初の内はさっきまで部屋にいた面々の足音が聞こえていたが、徐々に遠ざかり静かになった。咲季はいったい何の話か、と身構えてはいたが、静かになったことを確認した理事長が席に座ったのを見て少しの安心を覚える。その頬に浮かべていたのは笑みだったからだ。
「さて、と」
「あの…お話というのは…」
「あなた、やっぱりずいぶん変わったわね」
「え…」
少し顎を引いて老眼鏡の奥から咲季を見つめる理事長の瞳は、面白いものを見つけた子供のように輝いている。咲季は先日電話で聞いたものと同じ言葉に、どう返事をしてよいかわからず、それ以上口にはしなかった。
「ふふふ、私ね、ずっと気になっていたの。生徒会の皆が高等部にやってきたとき…松竹梅君が加わってからかしらね?…面白い名前で面白いことを始めたわよね」
「有閑倶楽部、ですか」
「よくもまあ、あんな好奇心旺盛な子たちが6人も同じ場所に集って、生徒会役員になったものだって」
「確かに…」
「でもね、一人だけ、その輪に混じらなかった子がいたの」
「…………」
「あなたよ、高天原さん。あなただけは、そこにはいなかったわ」
咲季の反応を確かめるようにその言葉を発すると、机上に置かれた権利書と野菜の山に目を向けて理事長はくすくすと笑い始めた。咲季はその笑みの意味は分からずとも、自分のことを笑われているような気分になり、うつむきがちだった視線をあげて理事長に視線を向ける。
「最初は気にしていなかったのよ。別に、生徒会役員イコール有閑倶楽部というわけではないものね。でも、ある日見てしまったの。輪に混じらなかったあなたが、とてもうらやましそうに彼らを見ていたのを」
「えっ」
「ふふふ、自覚はなかったでしょうけどね。仲間外れにされた小さな子供のような顔して見つめていたわ。でもすぐにその場を去ったけれど…。でも、ほんの数か月前にはあなたもあの輪に加わっていた。それを見たときは嬉しかったわ」
「…そこまで見られていたなんて…」
「でもね、今度はとても不安そうになっていたわ。いつまた一人になるかって、そんなことを考えていたのかしらね」
「あの、…留学の話、ですよね?」
自分が目を向けないようにしていた部分を次々と話され、咲季はいよいよ耐えられなくなって理事長の話を遮った。
理事長はほんの一瞬こちらを見たものの、またすぐクスッと笑ったので、咲季はまだこの話を続けられるのかと苦い顔をする。しかし、理事長は今度こそ体ごと真っ直ぐ、目の前に立つ咲季の方を向いて口を開いた。
「高等部を卒業したら、留学予定先に行くのね?」
「!……もちろんです。最初からそのつもりでしたから」
「もちろん、そのことは大切な仲間たちに話してあるのよね」
「それは………」
「言葉はね、いくらでも積み重ねることが出来るわ。だから薄っぺらく見えてしまうという欠点もあるのだけど……でもね、そこにどれだけの意味を持たせるかで、何倍もの力になったり、証になったりもするの」
「理事長…」
「それはあなたがよくわかっていることかしらね?」
「……」
「向こうの大学に行くための編入措置に関しては、私からお手紙を書いておきます。…残りの学校生活をしっかり楽しんでね。そしてまた、うちの大聖堂で歌を披露して頂戴」
「……理事長、ありがとうございます」
咲季は理事長の言葉の一つ一つをしっかりと受け止め、そして少し胸の中でくりかえした。優しく微笑む理事長に礼を言い深く頭を下げる。今まで見守ってくれたこと、大切なことを教えてくれたことに感謝を表し、咲季はすぐに部屋を出た。「勢いもついたわね」と言いながら、今度はフフフと声を出して笑う理事長の声が耳の端に聞こえた。
***
一方、咲季を置いて部屋に戻った有閑倶楽部の面々は、当初計画していた埋蔵金発掘には手を付けず、円卓を囲んで席についていた。
わかってはいたことだが、咲季は向こうの大学に一度は留学した身であり、高等部を卒業するればあちらの大学に通うことになる。
つまり。
「咲季、今度こそいっちゃうのよね…」
可憐が発した言葉には、全員が反応しなかった。
ふぅ、と行き場のない気持ちを吐き出すかのように魅録が息をつくと、またしばらく沈黙が続く。
悠理はもどかしさをどう表現してよいかわからず、いじけたように眉を八の字にして机を睨んでいた。
そうして束の間の沈黙が流れた後、清四郎は何かを心に決めたように立ち上がった。その動作に全員の視線が釘付けになる。立ち上がり歩き出した先にはめったに触らない閉じられた戸棚があり、清四郎はその扉を開けて何かを取り出した。
「なんだよ、清四郎」
悠理が大きめの声でそう呼びかけると、清四郎は何も返事をせずに手に取ったものを机の上に置く。それはほとんどのものが存在を忘れかけていた、青いファイルだった。
「これって…」
「咲季が持ってた有閑倶楽部対策マニュアル…?」
「そうです。…これはもう必要ないと思いまして」
清四郎はそう言ってファイルに手を置く。
野梨子はそのファイルを今更持ち出すことに疑問を感じたが、何も言わずに幼馴染の様子を窺った。清四郎はこのファイルを口実に咲季を引き入れたことを思い出し、その時の戸惑った咲季の表情を思い浮かべる。
結局、いつもいつも自分のわがままで困らせてばかりだったな、と改めて思い直す。
「これがなくとも、咲季はもう僕たちの仲間だってこと?」
「……そういうことです」
美童がそう口にすると、他のメンバーの緊張の糸が少しほぐれる。自分が考えていたことが漏れていないことに安心しながら、そういう考え方もあるな、と清四郎はひとり感心した。すると、ずっと練飴を口にしていた魅録が「うーん」と声を上げる。そして練飴を口から外して、清四郎を指すように向けた。
「じゃあ、今からそれ返してくる?もういらないし」
一瞬面食らった清四郎だったが、自分を指す練飴がぴょこぴょこと上下に揺れ、その奥にある魅録の目が何かを訴えていることに気づいたところで、清四郎はファイルを手に取った。
咲季を迎えに行って来い、そういうことか。
「そう、ですね。今のうちに返してきましょうか」
「ん。俺らは埋蔵金発掘隊として先に準備してるからさ。な?」
「そうですわね。せっかく事件を解決しましたし、最後の仕上げを皆でしてしまいましょう。…私、7人で埋蔵金を見つけたいですわ」
さっきまで話題になっていた咲季の留学話は?と、悠理は戸惑っていたが、今度は意味を野梨子が言葉を付け足すと、他の面々もその言葉に納得する。
正直、いったところでどうしたらよいかは考え付いていないが、それでも気をもんでくれた二人に応えなければ。そう思った清四郎は「いってきます」と口にしてファイルを手に部屋を出た。
扉が閉まったのを確認して、野梨子と魅録は目を見合わせる。
「全く、最後まで世話が焼けますわ」
「ほんとだよ。…さて、あとは本人の腕次第」
そう言って二人は苦笑いし、すでに発掘する気満々でヘルメットをかぶろうとする悠理の方に向かった。
***
理事長との話を終え、部屋を飛び出して生徒会室に向かおうとした咲季は、部屋に続く階段を目指して廊下をずんずんと歩いていた。
ちなみに今は授業中だが、特別棟の教室は今の時間どのクラスも使っていないため、咲季の足音だけが響く。
きちんと話をしよう。留学のことも、今までの感謝も、いろんな話をもっとしなくちゃ。
そう心に決めて一歩一歩前進する。無駄に広い学園の無駄に長い廊下を歩いていると、咲季が目指していた生徒会室への階段から誰かが下りてきた。
「え…清四郎…?」
手に何かファイルのようなものを持った清四郎が、こちらに向かって歩いてくるのが見える。
向こうももちろんこちらに気が付いたようで、咲季は遠くからでもお互い目があったことに気づいた。咲季は先ほどまでの決意が一瞬揺らぐほど一気に緊張が高まるが、こちらをとらえた清四郎がまるで自分に会いに来るために歩みを進めるのを感じてさらに緊張する。
それでも咲季は足を止めることだけはしなかった。
「咲季」
どんどん廊下の真ん中にいる清四郎の姿が大きくなり、やがて廊下の真ん中で二人は向かい合った。
早歩きをして息切れしたわけでもないのに、咲季の名を呼ぶ清四郎の声は少し上ずっている。咲季もぎこちなく清四郎に目を合わせた。
「どうしたの、部屋に戻ってたんじゃ……」
「これ、もういりませんよね」
そう言って差し出されたのは青いファイル。咲季は一瞬それが何かわからなかったが、少しの沈黙を置いてすぐにそれが何か察した。
「あ…有閑倶楽部対策マニュアル……!これ、どこにあったの?ていうか、まだ持ってたの?」
「はい。…咲季を有閑倶楽部に留めるための口実だったものです」
清四郎はそう言いながらファイルに目を落とす。咲季も同じようにファイルを見つめるが、清四郎の意図していることがわからずにただ口をつぐんだ。
「…」
「……」
そのままどちらも一言も発しない時間が続く。
そうしているうちに、清四郎がファイルを持った手を下した。それでも顔をあげずにそのまま固まっている。清四郎らしくないな、と考えている咲季自身も、清四郎の顔は見えず、ただ廊下の床に落とした視線をきょろきょろと動かして戸惑いを隠せずにいた。
「いつも通りに、してください」
「へ?」
「いつもどおり、です」
「……そんなの無理だよ」
「…無理でも頑張ってください」
気まずそうな声が降ってきて、咲季は顔をあげて清四郎を見る。
清四郎はそれでも先ほどまでと同じように視線を落としたままだった。そして清四郎らしくない不思議な言動で、緊張でいっぱいだった咲季の頭に少しの余裕ができる。
「そもそも私たちのいつも通りって、何?」
「……」
率直な言葉をぶつけると、清四郎は黙り込んでしまった。
何か策を考えるでもなく、無視をしている訳でもない、ただただ咲季の言葉に対する返答に困った清四郎の表情は、まだ自信を持たぬ幼少のころの清四郎を思い出させた。
そして咲季は清四郎に伝えるべき言葉の一つを見つける。
「私、清四郎に言わなきゃいけないことがあるの」
「…なんですか?」
清四郎は咲季の言葉に少し遅れて反応した。
どんな言葉を向けられても良いように身構えたようで、硬い表情に不安さが少し残る瞳が咲季を映す。今日初めて、目があった瞬間だ。
「私ね………約束、思い出したんだ」
「えっ…」
「昔、清四郎とした約束。……前に聞かれて、答えられなかったでしょ?」
ごめんね、と付け足すと、清四郎は予想外の言葉だったようで口を微かに開けたままパチパチと瞬きをした。
咲季はその反応を可笑しく思いつつ言葉を続ける。
「本当はね、婚約会見の時に思い出したんだ。言うの、遅くなってごめん」
「そんな…」
「ずっと約束守ってくれてたんだなって………その……ありがと…」
「違います……違うんだ…」
「え?」
咲季のありがとうを聞いた清四郎は、しばらく固まっていたがそのうちに目線を逸らして眉間にしわを寄せた。そして俯き小さく謝った。
咲季はそのか細くなる声を聞いて胸がきゅっと切なくなる感触を抱く。
「僕は…自分のために咲季を守っていたんです……咲季と離れたくなくて……」
「清四郎…」
「そうやって名前を呼んでほしいんです。あの約束をしたのは、咲季を自分のものにしたかったからなんです。僕だけに頼ってほしかったから………」
そう言って清四郎は苦しそうに咲季を見つめる。
目があった瞬間、咲季は一心に自分を求める清四郎の瞳に鼓動が跳ねた。ああ、この人も、自分だけを見つめてほしいんだ。苦しくなるほど、私を求めているんだ。
同じ、気持ちだ。
「わ、わたし、嫌じゃないよ」
「…え……?」
「昨日、ほんとは嬉しかったよ。……私…守られるなら、清四郎が、いい。………好き、だから…」
「咲季……」
「まだ、約束は続いてるよね…?」
そこまで発したところで、これ以上言葉にならなくなって涙に変わった。
何とか零れ落ちないようにぎゅっと唇をかみしめていると、清四郎はバサッとファイルを落とし、聞いたことのない優しい声で「咲季」と名前を呼んで咲季を胸の中に閉じ込めた。
押し当てられる胸板があまりにも心地よくて、咲季は自分の顔をそこに押し付ける。そしてずっと見上げるだけだった広い背中に自分の両腕を回した。清四郎も咲季を抱く腕に力を入れる。耳元に聞こえる清四郎の鼓動は早く、そして体は熱い。
「夢じゃないですよね?」
「夢じゃないよ」
「咲季、本物ですよね?」
「…何それ、本物だよ」
「はは」
「すごい嬉しそう…」
無邪気な笑いが聞こえ、それを指摘すると清四郎は抱きしめる腕はそのままに、咲季から少し体を離して見上げる咲季の顔を見つめた。
「嬉しいに決まってるじゃないですか」
その顔がこちらにもわかるほど幸せそうで、咲季は一気に顔が赤くなる。
愛おしそうに目を細めて清四郎の顔が使づいてくることに気づき、咲季はそれに応じるように目を閉じた。直後、以前と同じ柔らかさを唇で感じる。あの時一瞬すぎてわからなかったその感触は、自分が思い返していた以上に熱く心地良い。
そしてどちらともなく唇が離れ、再び見つめ合うと、お互い気恥ずかしそうに笑顔を浮かべた。今、いろんな気持ちが同じなんだ。咲季はそう思うと愛おしい気持ちがじわじわと浮かび上がり、再び清四郎の胸に頭をもたれさせた。
清四郎もまた、その慎ましい甘えを全身で受け止め、再び優しく咲季を包み込んだ。
しばらく抱き合った後、少し冷静になった二人はおずおずと体を離した。咲季自身も顔を赤くしていたが、色白の清四郎も微かに赤くなっているのを見て咲季は笑いを耐えられない。
「真っ赤」
「咲季に言われたくないです」
二人で笑い合っていると、生徒会室の方向から「わー!」と悠理らしき声が聞こえる。そこまで大きくはなかったが、状況が状況なだけに清四郎と咲季はハッと我に返った。
「そういえば、皆待っているんでした。行きましょうか」
「あ、うん、そだね」
清四郎は落としたファイルを手にとり、振り返って歩き出す。咲季もまた自分の赤面が少しでももとに戻るように祈りつつ、頬に手を当ててその後ろについた。
しばらく歩いて部屋の前についた時、中からは楽しそうな面々の声が聞こえる。咲季はそこで、自分がもう一つ彼らに伝えなければならないことがあると思い出した。
「入らないんですか?」
「……ちょっと待って、心の準備」
少し様子の違う咲季に気づき、清四郎は声を掛ける。
ふぅ、と息を整える様子に、清四郎も何かを察したのか咲季の心の準備とやらを待つ。数回深呼吸した咲季を見て、清四郎はドアを開けた。
ドアの向こうではヘルメットをかぶって学園の見取り図を囲む有閑倶楽部の5人がいた。2人が帰ってきた様子に、一瞬は静まりかえったものの、咲季の顔を見た悠理は笑顔が少し曇る。
「あ、咲季。…理事長の話って、その、終わったのか…?」
「…うん。そのことで、皆に話したいことがあるの」
咲季の言葉に全員がこちらを向きなおす。咲季は今言うべき言葉を何とか頭の中でまとめながら、言葉を待つ全員の顔を見回した。
「えっと…皆も知ってる通り、留学はする予定、です。…向こうには休学という手続きを取っているから、いずれはちゃんと戻らなきゃいけないんだ」
「そんな…」
可憐が泣きそうな顔で咲季を見つめるため、咲季もそれにつられそうになるが、その気持ちを嬉しく思いながら言葉を続ける。
「でも、高等部はちゃんと卒業する。だからあと3か月通って、皆と一緒に卒業するよ。その後、きちんと向こうの大学に通い直すことにしました」
「…そっか。咲季が決めたことだもんな」
「うん……歌は私の夢だから、それは続けたい。私に足りなかったものは、たくさん皆がくれたから…今ならもっといい歌が歌えそうな気がするし」
「清四郎はそれで納得していますのね?」
話を振られた清四郎は一瞬反応を見せるが、問いかけた野梨子をしっかり見据え、「はい」と返した。そして今度は咲季の方を向き、口を開く。
「僕は咲季の夢をずっと知っていましたから、一番に応援したいんです。…それに、もう会えなくなるわけではないでしょう?」
「うん、そうだよ。意外と遠くないんだから。……また一緒に、皆といたい」
「そんなのあたい達も同じだぞ!」
恥ずかしそうに言う咲季に、他の全員が笑みをこぼす。悠理が瞬発的に発した言葉に、全員が頷く。咲季はその言葉が自分が思っていた以上に嬉しくて、「へへ」と笑顔を見せた。悠理は咲季の腕に飛びつき遊びを誘う子供のように満面の笑みで話しかける。
「さ!咲季も一緒に埋蔵金掘ろう!」
「うわ、本当にやるの?」
「見取り図も用意したのよー!こうなったら絶対掘り当てなきゃ!」
「はいはいはい、ちょっと待った。その前にやることがあるでしょー」
「なんだよ魅録!」
「こーれ」
張り切る悠理や可憐を諌めるように魅録が間に入る。
ちゃっかり準備を始めていた野梨子や美童、清四郎も手を止めて魅録の方を見る。魅録が得意そうな表情で手にしていたのはデジタルカメラ。全員の視線がそこに注がれると、魅録はそれを自分の顔の横に並べ、シャッター部分のボタンを押しながら皆の顔を見回す。
「7人で撮ろうぜ」
一瞬はきょとんとしたものの、すぐに全員笑顔になって賛同の声を上げた。
思えば今まで一度も7人での写真は撮っていない。むしろ、写真には苦しい思い出もあったが、魅録はあえてそれを塗り替えようと以前から考えていたのだ。
すぐさま持ってきた三脚を設置し、円卓の前に設置する。
魅録が設定している間に野梨子や可憐が椅子を4つ横並びにさせ、撮影の準備を整えた。ヘルメットをかぶったままの悠理は美童に指摘され、慌ててそれを脱ぎソファに投げ捨てる。
清四郎は咲季を呼び寄せ、4つの椅子の一つに座らせた。
咲季の両肩に大きな手が優しく置かれ、声が降ってくる。
「主役はここですよ」
「え、私はそんなんじゃ…」
「いいからどうぞ、…ここが咲季の居場所です」
清四郎がそう言って微笑むと、にやにやしながら美童と可憐が近寄ってきた。可憐は咲季の隣に腰かけ、美童は清四郎の隣に立って清四郎の顔を覗き込む。
「ん~?清四郎から甘い言葉が聞こえたような~?」
「僕がもっといいのを教えてあげようか?こういうことに関しては僕の方が何倍も知識があるからね!」
「結構です」
清四郎はすぐに表情をいつも通りに戻し、美童の提案をすっぱり断ると、今度は咲季のもう片方隣に野梨子が座ってため息をついた。
「よかった。さっきの締まりのない顔で写真に写るつもりかと思いましたわ」
そう毒づきながらも野梨子は嬉しそうに笑っていた。その証拠に、咲季の方を向いて「良かったですわね」と小さく呟く。何もかもお見通しの野梨子に、咲季は少したじろぎつつ笑ってごまかした。
「お前ら準備はいいかー?」
「ばっちし!」
悠理が野梨子の隣に座りながら、魅録の問いかけに返事をする。デジカメの画面で全体を確認した魅録は、「うし」と納得してタイマーを調整する。
「タイマー5秒な」
「オッケー!」
悠理の大きな返事を耳にしつつ、全員に目配せした魅録は、目があった咲季の嬉しそうな表情を確認する。その瞬間に何もかも許された気がして、魅録も小さく笑った。
「おっしゃ、いくぞー」
気の抜けるような掛け声とともに魅録がグッとシャッターを押した。魅録が急いで走り込み、清四郎の隣にやってくる。
清四郎は魅録に視線を向けると、声を出さずに唇の動きだけで「ありがとう」と伝えた。
魅録は照れを隠すようにすぐ目を逸らしたが、口元に笑みを湛えていた。それを清四郎も確認し、同じように笑う。
電子音が忙しなく鳴り響き、まもなくシャッターが押された。
すぐさま魅録がデジカメを三脚から外しにかかり、表示された画面を全員で覗き込む。
そこには、眩しそうに笑う7人の姿がしっかりと映っていた。
End.
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