8章
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翌日、咲季は寒空の中、昼下がりの太陽の光を車内で浴びていた。
剣菱邸で集合するために、咲季は送迎の車に揺られていた。昨夜は緊張もしていたのかあまり眠れず、眠気を感じないままに出発の時間を迎えて今に至る。
言われた通り制服を着てきたが、必要の際にとあまり目立たない私服も用意した。準備したカバンとコートを隣の席において、窓から指してくる日差しに目を向ける。
「いよいよか……」
そのうち大きな剣菱邸の門が見えてくる。
門をくぐりしばらく走ったのち、玄関の前に車が到着しドアが開くと、すらりと伸びた美しい足が見えた。あれ、と思いつつも車を降りると、つやつやした黒髪を光らせて野梨子が立っていた。
「ごきげんよう」
「野梨子、早いね」
「皆もう来ていますわよ。落ち着かなかったんでしょうね」
「え……私も早く来すぎたと思ったのに」
「私もです。さ、参りましょ」
話をしながら剣菱邸の大きな玄関で靴を脱ぎ、メイドに促されるままに荷物を手渡す。
一昨日の傷はメイクで目立たなくなってはいるものの、目を凝らすとうっすらかさぶたが見え、咲季はそれを確認したあとすぐに目を逸らすように横目を向いた。野梨子もその視線に気づいたようだが、それには言及せずに咲季をいつものリビングへ案内する。
お互い、否、全員が同じ気持ちなのかもしれない。一昨日のように失敗をしたら、という不安と、今度こそやってやる、という意気込みと。
それは戦いを控えた兵士も同じ気持ちだったのかもしれない。
「揃いましたわよ」
「お、咲季」
「魅録、足は大丈夫?」
「うん」
ソファにドカッと座ったまま、頭だけをこちらに向けて魅録がぶっきらぼうに挨拶をした。
それにつられるように他の面々も挨拶をしてくれるため、咲季は全員の顔を見ながら挨拶を返す。ポンポンと自分の隣の席を勧める悠理の隣に座ろうとしたところで、パチッという音がぴったりと言わんばかりに清四郎と目があった。
「あっ……」
そしてあからさまに目を逸らした。まずい、そうは思ったが遅かった。
だが仕方がないと思った。昨日悶々としたことも、過剰な意識につながっていた。だが、それは清四郎も同じだったようで、視線を逸らされた理由をなんとなく察したのか、それに対して反応せず、むしろ少しぎこちない手つきで目の前のノートパソコンを開いた。
「それでは、今日の計画の確認をしましょうか」
幸いにも二人のやりとりに気が付いたものはいなかったようで、清四郎の掛け声に全員が真剣な目でソファに座りなおした。当の咲季だけは、その意気込みの中にわずかな動揺を含んでいたが、一度深呼吸し目の前の問題に集中するようにテーブルに置かれた行程表に視線を落とした。
確認が終了し、それぞれが役割のための服装に着替え始める。とはいえ、咲季の服装は制服のため、自分は着替える必要がなかった。
そのため、野梨子と共に可憐と悠理の着付けを手伝った。二人は今日、芸子として役目を果たす。
一方の野梨子も女将の役割なのだが、もはや着物は野梨子にとって特別な衣装でもないため、あっという間に着付けてしまっていた。
再びリビングに合流し、持ち物を確認した後有閑倶楽部のワゴンに乗り込む。
清四郎の運転で各自の持ち場に向かった。最初に到着したのは、本来モンタルチーノと出羽桜が会合を開く予定の料亭だ。古くから政治家をはじめとする政財界の重鎮が利用する御用達の店である。もちろんそれは味が素晴らしいことが理由ではあるのだが、それ以上にセキュリティと従業員が秘密を守れることが大きく関係している。
料亭から少し離れた路地に車が止まり、少しの間をおいて後部ドアが開いた。
神妙な面持ちで清四郎がそこに立っており、真っ直ぐ咲季を見ている。今日の計画では、咲季のみ別行動をとることになっていた。モンタルチーノと高千穂の会合場所で、時宗ら率いる警察の突入を引き入れることだ。
この計画の草案が最初に出来上がったとき、真っ先に反対したのは魅録だった。「そんな危ない役、やらせんのかよ!?」と険しい声で清四郎に詰め寄ったことは全員の記憶に焼き付いている。そしてそう詰め寄られた清四郎が苦い顔で「これが、一番成功率の高い方法なんです」と言ったことも。
「準備はできてますか」
「…咲季、なんかあったらいつでも連絡してくるのですよ」
「野梨子…大丈夫、皆だって大事な役割があるでしょ。私もここで役目を果たすよ」
心配そうな他の皆を勇気づけるためにも、咲季はへらっと笑顔を見せた。その顔に魅録が呆れてため息をつく。「ったく…」と微かに聞こえたが、咲季は知らない振りをした。怖いのなんて、隠すまでもなくばれているのだから。
「この役目は私にしかできない……そうだよね、清四郎」
「………ええ。不本意ですが」
出羽桜の一件でわかったことが一つ。それは、有閑倶楽部もとい生徒会の中で唯一マークされていない存在が咲季であるいうことだった。
自主謹慎となったのは咲季を除く生徒会役員であること、ことごとく計画を崩されたあのパーティーの中で、咲季だけが無事であったこと、咲季は今、敵陣を切り崩すのには最適な存在であった。
学園の生徒の手によって悪事を暴かれる理事、そのシナリオ完成には生徒会の唯一の良心と信じられている咲季の存在が必要不可欠だったのだ。
「怖いけど、それは皆も一緒だし…それに、この役って私らしいよね」
「え?」
「有閑倶楽部のスパイ、みたいだから」
それは半分自分に言い聞かせているようなものだったが、口に出してみると意外としっくりするものだ。
咲季はその響きを自分で確かめるようにもう一度頭の中で再生し、ワゴンを降りる。彼女の凛とした表情と背中を見て、他のメンバーは何も言わなかった。
「……何度も言いますが、何かあったら必ず報告を」
「うん」
「無茶はしないでください」
「うん」
「危ないと思ったら…」
「わかってる!………ありがとう、私、いくね」
心配そうに言葉を続ける清四郎の声にだんだん恥ずかしくなって、咲季は乱暴に言葉を遮った。
歩き出すと真冬の冷たい風が足元をなでる。
料亭までの数十メートルは本気で踏みしめなければガラガラと崩れそうなほど不安定に感じたが、いつまでも背中に感じる6人の視線に背中を優しく押される感覚があった。
料亭に到着し上品な檜の戸を開けると、時宗がすでに到着し女将と話をしていた。彼のもとにも清四郎からの行程表がメール送信されており、本日の段取りは理解してくれている。
「おお!よく来たな」
「どうも、今日はよろしくお願いいたします」
「いやいや……挨拶も大事だが、この後のことを確認していこう」
料理長と女将には、時宗からすでにいきさつが説明されていた。女将は突然やってきた制服姿の咲季に少し戸惑っているようだが、今回の計画を考えたメンバーの一員と時宗が説明するとさらに驚いた顔をした。
「学生さん…ですよね?聖プレジデント学園の」
「はい…このたびはご迷惑をおかけします」
魅録のニュースの一件もあったためか、学園名は今や全国の誰もが知っている。制服も特徴的なため、女将と料理長もしっかりと認識しているようだった。
しかし咲季がそれを意にも介さず、これから行われる大捕物の説明に加わったため、女将たちも何も言わずに会議に参加した。
「細かい説明はその都度にしましょう。まずは案内する部屋ですが…」
咲季が事前に送られた資料を時宗と共に確認しながら話を進める。その後、高千穂が予約した奥の座敷に案内してもらうと、すでに場は整っており、別室では刑事たちがカメラや通信機器の確認を行っていた。
しばらくすると携帯にメールが入る。差出人は野梨子で、「私たちも現場到着。出羽桜を乗せた車も間もなく到着します」と書いてあり、咲季もそれを時宗に伝える。
「よし……それにしても、よくこんなこと思いついたな…。全く、皆何を考えているのか……!いや、ただ、こうして協力してもらえるのはありがたいことなんだがな」
「無理を言ってしまって申し訳ありません。…でも、自分たちでなんとかしたい気持ちもあるんです。大切な学校だから…」
目を伏せる咲季に、時宗はふっと微笑んで目を細めた。「それは十分伝わっているよ」と優しい声で言ったところで、刑事たちがざわつく。先に到着した高千穂が、料亭内にやってきたのだ。咲季も弱腰になっていた自分の気持ちを引き締めてカメラの方に視線をやる。そわそわしながら部屋に入る高千穂を確認し、咲季も野梨子へ「こちらも高千穂が来たよ」と返事をした。
***
どんどん薄暗くなる空と対するようにふすまから漏れる明かりが際立っていく。
何度も携帯を確認する高千穂の様子に、咲季は向こうの計画がうまくいっていることを間接的に悟る。
「焦ってる焦ってる…」
本来出羽桜が現れるはずの時間は過ぎており、連絡さえも無い状況に、高千穂の焦りは膨らんでいた。こちらの計画がうまくいっていれば、今頃出羽桜は清四郎の運転する車に乗って別の会場に連れていかれているはずだ。
咲季はその様子にまずは安心し、他のモニターと合わせて引き続き注意を続ける。
しばらくすると、高千穂の携帯に連絡が入る。慌てて電話をとり、数回応対すると、高千穂は女将に話しかけてすぐに回廊に出た。
どうやら、取引相手が現れたようだ。
「来た…!」
白の高級車が料亭の付近に現れたころに、高千穂も急いで部屋を出て入り口に向かう。スーツの襟を正して入り口に陣取ると、間もなくして車が停まる。髭面の大柄な外国人が車を降りると、高千穂がすぐさま挨拶する。
事前に手帳から確認した取引相手の“モンタルチーノ”はヨーロッパの裏取引会でも有名な男で、一緒にやってきた供たちも大柄でいかにもそれらしい風貌をしていた。
和風の料亭に気分が良いのか、部屋に入る際にはにこやかだったモンタルチーノは、高千穂がやけにそわそわしていることに気づいたのか訝しげな視線を送る。膳を運んだ女将はそのただならぬ雰囲気を感じ取り、早々に部屋を出た。
高千穂がすぐに酌をしようとするが、モンタルチーノはその動作を鋭い眼光で止めた。
何かに感づいた時宗は、他の警官たちに合図をする。
「出羽桜は、まだなのか?」
「ああ、いや、もう少しお待ちください…」
「……」
高千穂は精一杯の苦笑いをして酌をするが、モンタルチーノは憮然とする。会話は始まらず、いくら待っても出羽桜は現れない。
だんだんと表情が険しくなるモンタルチーノが、しびれを切らして立ち上がった。
「やっぱり!私を騙したな…!?」
「ひっ!!」
その合図とともに別のふすまからも供が現れた。その手には銃が黒く光っており、その銃口が高千穂に向けられる。小さな悲鳴を上げた高千穂が後ずさる。カチャ、とシリンダーを回す音がすると、高千穂は真っ青になってさらに後ずさる。
合図を受けた警官たちと時宗が部屋を出てふすまの後ろで待機した。
「権利書は、本当にあるんです!」
「!」
高千穂からの言葉をはっきりと聞いた咲季も、控室を飛び出して時宗のもとに向かった。そして、勢いよくふすまが開き時宗の大きな声が響いた。その声に驚いたモンタルチーノたちは銃を下す。
「銃刀法違反の現行犯だ!」
「何!?」
「高千穂さん、貴方には詐欺容疑で逮捕状が出ています」
「ちっ違う!何かの間違いだ!!」
「何が間違いですか!」
モンタルチーノを取り押さえにかかる警官たちの後ろから、凛とした声が響き渡る。聖プレジデント学園の制服を身にまとった生徒を見た高千穂は、その光景に言葉を失った。
「お前は……高天原…」
生徒の姿に唖然とした高千穂は、そう呟くと言葉を失った。
拘束され連れて行かれるモンタルチーノ達も、学園の生徒の登場には心底驚いたようで無駄な抵抗はそれ以上しなかった。
「なんだ、学園の権利書を他人に渡してしまうような理事でも、生徒のことは知っているんですね」
「生徒会のやつらか…!」
「それとも、学園にたくさん寄付する生徒だから知ってたっていうことでしょうか?生徒会の皆は特に、そうですもんね。お金と権力に目がない、高千穂理事」
「くっ……私は何も知らん…!」
「無駄ですよ。先ほどのやり取りだけじゃなく、出羽桜大臣との関係もすべて記録していますからね。校長先生を騙して権利書を奪ったことだけじゃありません。生徒会室の銃の件も」
そこまで告げたところで、高千穂は否定の言葉を出さなくなった。そこまで知られているのか、と驚いた顔をした後、観念したように項垂れる。その様子を見た時宗は部下に逮捕を命じる。もはや抵抗はしなかった。
「よくも私たちの大事な学校に手を出してくれましたね。そして仲間を傷つけた…絶対に許さないですから」
咲季はそこまで言ったところで胸にこみ上げてくるもの感じる。途端に目頭が熱くなって涙が溢れそうになった。
怒りと憤りが最高潮に達しているのがわかる。それを見かねた時宗が声を掛け、高千穂を部屋から連れ出していく。
最後の仕上げだ、という声にこたえるように涙を乱暴に拭って連行される高千穂たちの後をついて歩いた。
高千穂を乗せた警察車両を案内するために、時宗が用意した公用車に乗りこむ。向かうは出羽桜が居るスタジオだ。
清四郎が用意した睡眠薬入り梅こぶ茶を飲んだ出羽桜はそのまま料亭の一室そっくりに作られたセットの中で美童扮するモンタルチーノと権利書の取引を行った。権利書を取り返したところでその醜態をカメラで撮影し、全国に放送するというものだ。
「向こうはうまくいったのかな…」
不安を感じながらもこちらの成功をメールで連絡する。目的地はそこまで遠くなく、すぐに到着し高千穂を引き連れた時宗と共にスタジオに上がった。道中で高千穂に状況を説明すると、青かった顔色はさらに蒼くなり、されるがままの状態になってしまっていた。
広いスタジオの一室に向かい、静かにドアを開けると開かれたセットの上で文字通りの醜態をさらす出羽桜が居るのが見える。成功したんだ!そう思うと一気に安心感に満たされる。録画された出羽桜の姿がモニターに映し出され、時宗はわざとらしく咳ばらいした。
「お前は!」
「出羽桜文部科学大臣。あなたの政治資金調達のために高千穂と組んでこれまでいくつもの土地をだまし取ってきた件について……じっくりと聞かせてもらいましょうか?」
「親父…」
現れた時宗の様子に魅録たちも安堵する。出羽桜は時宗の言葉を鼻で笑ってあしらい、とぼけようとした。すぐさま姿を現したのは手錠を掛けられた高千穂と険しい表情の咲季だった。
「なっ…!貴様!」
「全部教えてくれましたよ?出羽桜大臣」
「しょっぴけぇえええ!」
「はいぃ!」
時宗の大号令に、部下たちが次々とスタジオになだれ込む。もはや為す術もない出羽桜はその場で喚き始め、自分の政治生命の終わりに絶望しているようだった。そしてそれを確認したところで、時宗は咲季の背中をぽん、と叩く。顔を向けると時宗は小さくウインクした。
「さ、ここからは私たちに任せておけ。君は、君の場所に戻りなさい」
「私の場所……」
そのウインクは妻の千秋を思い出させ、咲季は思わず言葉を繰り返して促されるままに6人の方に向きなおす。権利書を手にした魅録を中心に、全員が咲季の方を見て笑顔を見せた。
「咲季!」
魅録の声がスタジオに響く。咲季はその声に弾かれるように走りだし、皆の輪に駆け寄った。権利書をしばらく見た後、魅録が「いぇい」とゆっくり手を挙げる。
それを合図に、全員が手を合わせた。そして円陣を組む。全員の無事と成功を心から喜ぶ充実に満ちた円陣だ。
ひとしきり喜びを分かち合ったところで、スタジオ外の喧騒に気づく。
「そういえばこれ、大ニュースよね?」
「明日はこの話題で持ちきりだろうね」
「…あとはメディアに任せて、我々は退散しましょうか」
清四郎の言葉に全員が頷き、そそくさと有閑倶楽部のワゴンに乗り込んだ。「理事長先生も安心するかな」と美童が言ったのを聞いて、咲季もそれに同意する。
なんにせよ、権利書をこうして取り戻すことができたのだ。校長や教頭も安心するだろう。
すべて、終わった。
清四郎の運転でスタジオを去り、夜の道路に走り出す。有閑倶楽部ワゴンは剣菱邸に駐車していることもあり、まずはそこに向かうこととなった。
ワゴンの中では出羽桜の様子を事細かに悠理や可憐が話してくれるため、咲季はそれを聞く。どうやら自分が思っていた以上の醜態だったようだ。
本物のモンタルチーノと美童の変装を見比べて咲季が笑っているところで車が停まる。どうやら到着した様で、後部ドアが開くと冷たい風が入り込む。全員が「さむい」と口にしつつ、無事に計画を成功させた喜びで興奮しているのか、笑顔が消えない。
「それじゃ、また明日学校でな!」
悠理がそう言いながら早々に自宅に入っていく。どうやらかなり空腹を我慢していたようだ。可憐や美童にもすでに迎えが来ており、同じく明日の再会を挨拶に帰って行った。
「咲季、無事でよかったな」
「うん。魅録の分まで文句言ったからね」
「まじかよ」
魅録が帰り支度をしながら咲季に声を掛けると、咲季はそう言って笑った。
高千穂のところで何があったかは、また録画で確認できるだろうが以前よりたくましく見える咲季の様子に魅録は呆れたように笑う。
「また明日な」
「うん」
独特のエンジン音を響かせて去っていく魅録の姿を見送り、残された幼馴染3人は共に白鹿家の車に乗り込む。
成功の興奮は冷めやらないが、さすがに身体的な疲労感も感じ始めていた。独特の心地よい疲労感を抱きながら、数分咲季の方の状況を話しているうちに白鹿邸に到着する。
「ふう、でも本当にうまくいってよかったですわ」
「本当にね」
「咲季、よく頑張りましたわよ」
ふふ、と微笑む野梨子に、少し照れくさそうに咲季も笑い返した。そんな二人を少し後ろから見守る清四郎も、同じく笑顔を見せる。少しの沈黙ののち、咲季は静かに口を開いた。
「なんか懐かしいね、ここに3人でいると」
「…そうですわね。昔はこの庭でよく遊びましたもの」
「もっと広かったように感じますけど……それだけ僕たちも成長したってことでしょうね」
ゆっくりと白鹿邸の庭園を見回し、3人でしみじみする。白い息が静かに夜空に上っていくのを見ながら、野梨子が続けた。
「学校が無事でよかった」
「野梨子…」
「せっかくまた3人でいられるようになったのに、…なくなったら……」
「そうだね…」
「こうして大事なものを守れて、本当に嬉しいです。…さ、二人も暖かくして早く帰ったほうがいいですわ。また明日、学校で」
最初こそ呟いていた野梨子だったが、我に返ると咲季と清四郎を送り出した。
ここから先、少し歩けば咲季の住むマンションがあり、もう少し先には菊正宗病院がある。
「ちゃんと送り届けますのよ」と清四郎にくぎを刺した野梨子が咲季たちを見送ろうとしていたため、早く家に入ってもらうために長居せず出発することにした。格式高そうな門を潜り抜けて、咲季と清四郎はゆっくりと街灯の下を歩きだした。
白鹿邸を出て少し歩いたところまで、二人は何も言葉を交わしていなかった。
咲季が急がずとも足並みがそろっているのは、清四郎が歩調を合わせてくれているからだろうと思ったが、そんな優しささえも先日の出来事を思い出させる。
何か話したほうがいいのだろうか、そんなことを考えながら、ただひたすらに歩を進めていると左隣の清四郎が立ち止まった。
「一昨日はすいません」
「えっ」
立ち止まる清四郎と共に咲季も足を止める。もうすぐマンションにたどり着きそうな、少し視界が明るくなった歩道の真ん中で清四郎は頭を下げていた。
咲季はその様子に驚き、慌てて周囲を確認する。道の真ん中で男が謝罪する姿など誰かに見られでもしたらどうするのか。咲季は清四郎の謝罪に返事をせず、「とりあえず帰ろうよ」と声を掛けた。だが清四郎は動かない。
「怒ってます、よね」
「………う、ううん」
咲季が曖昧な返事をするため、清四郎は顔を挙げて咲季の表情を確認した。マンションの逆光で咲季の表情はよく見えない。
二人の間を冷たい風が通り抜けて、清四郎は少し我に返り再びマンションに向かって歩き出すことにした。
またしばらく無言の時間が続き、咲季のマンションにたどり着く。咲季はここで別れるつもりのようだったが、清四郎は先日のように咲季と共にエントランスへ入った。
咲季はまたも少し驚いたが、それでも拒むことはしなかったことに清四郎は安心する。
「…ていうか」
「はい」
エントランスに入って少し咲季が早歩きで清四郎の前を行き、立ち止まる。こちらに振り返らないまま咲季は清四郎に話しかけた。
「意味わかんない…謝るんだったら、なんで、あんな、キ、あ、あんなことを…」
「…それは」
「清四郎って私の事、す、好きなの…?」
清四郎が言い淀み、意を決して今の想いを話そうとしたところで、咲季がくるりと振り返って質問した。
さすがの質問に清四郎は一瞬思考が停止し、なぜ咲季がそれを聞くんだと心底訴えたくなったがそれを抑え、腹をくくる。
「はい」
ハッと目を見開き、エントランスのオレンジ色の照明でもわかるくらい赤面する咲季に、清四郎は苛立ちにも近い呆れを感じた。
自分で聞いたくせになんだその反応は。
清四郎はあえてそれ以上の発言はせず咲季を見つめた。
すると咲季はその返事を聞いて一瞬固まったかと思うと、勢いよく踵を返してエレベーターの方に歩いていく。
ずかずかと歩いていき、ボタンを押すのを見たところで、清四郎も慌ててその後を追った。
微かに音がしてエレベーターが到着する。
「じゃあ!」とこちらに背を向けたまま開いたドアに勢いよく入り、階数と閉めるボタンを連打する咲季を追いかけ、清四郎はドアが閉まる直前にエレベーターに乗り込んで咲季を後ろから抱きしめた。
「咲季」
「ひゃあ!」
お互い防寒着を着ているとはいえ、咲季は自分の背中に清四郎の堅い胸板が当たるのを感じて一気に体中が熱くなる。
自分の耳元に清四郎の息遣いが聞こえ、予想以上の距離感に咲季の鼓動が跳ね上がった。
そして正面を向き、鏡に映る自分たちの様子に恥ずかしさがピークに達してぎゅっと目を閉じる。
「ちょ…!」
「…咲季が先に言わないでくださいよ…」
耳元で苦しそうに呟く声が響き、咲季はこそばゆさでぞくりと体が震えるのを感じた。
体格の差はわかっていたが、こうして抱きしめられると清四郎の身体の大きさを実感する。
腕の中に閉じ込められながら、エレベーターが上がっていく独特の重力を感じた。
清四郎が咲季を捕まえる腕が強く、咲季は身をよじらせる。最初こそ離れないように力を込めていた清四郎だったが、腕の中の咲季の抵抗は思っていたよりも弱かったため、腕の力を緩めた。
咲季は少しでも密着する背中の感覚から逃れるように体の向きを変える。
「あっ…」
くるりと向きを変えようとしたところで清四郎と目があった咲季は赤面したまま動きを止める。腕の中で横向きになる咲季の顔を覗き込むと、咲季は目線を逸らした。
「なんで、こんな…」
「なんではこっちの台詞ですよ。こんな計画ではなかったのに…」
咲季を見つめながら不満そうにつぶやいた清四郎は、少しずつ咲季に顔を近づける。
一昨日の感触が一気によみがえった咲季はとっさに目をつぶるが、ふわっと重力を感じたと思うと清四郎の身体が離れる。恐る恐る目を開けるとエレベーターが到着しており、清四郎は促すように咲季の身体をドアの方に向ける。
咲季もそのままエレベーターを降り、清四郎はその後ろについた。
最上階であるため、エレベーターホールから玄関まで少しスペースがある。
玄関まで数歩無言のまま歩き、ドアに到着したところで、清四郎は平静を装ってその場を離れようとした。しかし、咲季は振り向くことなくそのまま立ち止まっている。
「咲季?」
「…」
「嫌、でしたか」
「へっ?いや、そ、そんなことない!」
我に返った咲季が慌ててそう返事をして振り返ると、清四郎は予想以上に寂しそうな顔をした。
「無理しなくてもいいんですよ。僕が勝手にしたことですし…」
「だから、別に怒ってないから…」
咲季がそう言って次の言葉を探していると、清四郎はぐっとこぶしを握って「咲季」とはっきりと名前を呼んだ。
その声と雰囲気に咲季も清四郎の方にしっかりと向き直る。
「この際、ちゃんと言わせてください。僕は小さい時から咲季のことが好きだった。それは今も変わりません。ずっと守りたい。それに、キスもしたいし抱きしめたい。でも、嫌がることもしたくない……もう遅いんですけど」
「あ…私は…!」
嫌じゃないんだってば。
そう言いかけたところで、清四郎の携帯電話が鳴り響いた。二人は驚き、清四郎はディスプレイを見て慌てて電話に出る。どうやら相手は理事長だったらしく、体調が回復し、明日学園に復帰するという内容だった。
電話を切り、その内容を伝えると咲季は安心の笑顔を浮かべた。
「よかった…!」
清四郎は喜ぶ彼女の様子に緊張がほどけた。そうだ、こういうところも好きなんだった。
先ほどまで思いをきちんと伝えられなかったもどかしさがあったのが、気持ちを伝えられて少し落ち着いたようだった。
確かに自分の思いを受けれてほしい気持ちもあるが、それ以上に、自分の傍で安心して過ごしてほしい、笑顔でいてほしいという気持ちの方が大きいことに気づく。
清四郎は先ほどまでの話をこれ以上続けることをあきらめて咲季に笑いかける。
「聞いてくれてありがとうございます。まだ気は抜けませんし、今日はこのくらいにしておきましょうか。さ、もう休んでください」
「ちょ、さっきの話は…」
「変なことを言ってすいません。では、おやすみなさい」
自分を呼び止める声を無視して、清四郎はその場を切り上げてエレベーターに向かう。先ほど乗ったエレベーターが残っており、そのまま乗り込む。
自分の腕の中に閉じ込めた咲季の表情や感触を思い出し、熱くなる顔を冷まさなければと気を引き締めて階数が減るモニターに目をやった。