8章
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結局そのまま数歩先を清四郎が歩き、咲季もその後ろを早歩きでついて歩いた。冷たい夜風は咲季を冷静にさせるが、それでも頭の中は先ほどのキスの感触でいっぱいになっていた。結局そのまま生徒会室に到着し、清四郎が静かにドアを開く。
入ってきた二人を見て野梨子が音を立てて立ち上がり、咲季に駆け寄った。
野梨子の大きな瞳よりも先に、彼女の美しい口元に赤いあざができているのを見つけた咲季は、さっきまでの出来事が嘘ではないことを改めて実感し言葉を失った。
「咲季…無事でよかったですわ……」
「ありがと…でも、野梨子、その傷…」
「抵抗した時に、少し…でも、清四郎に比べたら、全然、ですわよ」
「…気にしないでください。それより、座りましょう。あとは魅録だけですね」
清四郎に促され、野梨子と咲季は円卓を囲んで座る。
咲季は、腰を掛けた瞬間の景色を通して自分がこの場所に座るのがずいぶん久しぶりであることに気が付いた。
月光だけが部屋の中を照らす薄暗い部屋の中で、互いの顔を見合わせようにも表情はよく見えない。
不安げな瞳の揺れとそれぞれの顔についた生々しい傷だけがやけに主張する。
「あ…俺が最後か…」
軋んだ扉の開く音が響き、バイクブーツの厚底が床を鳴らしたと思うと、かすれた声が部屋の中に響いた。
その声に全員が視線を向けるとともに、安心感が生まれる。
よかった、無事だった。
誰ともなくそんな感情が芽生えたと同時に、すべての計画が崩れ去ったという無力感が唐突に襲ってきた。
静かに自席に向かう魅録は足を引きずっていた。不規則な足音に悠理が声を掛けるが、魅録はそれに言葉を返すことなく席に着き、「お前らこそ」と口を開いた。誰もそれには返事をしなかったが。
「皆、傷だらけ、だね…」
「今回ばかりは…そう簡単にはいきませんね……」
完敗だといわんばかりの清四郎の声に、美童、野梨子も悔しさと惨めさをはらんだ声でつぶやく。
完膚なきまでに計画は破たんし、何も得られるものがなかった。
そればかりか、大切な仲間を傷つけ、さらなる危険に追い込んでしまっただけの結果に、その場にいる誰もが希望のある言葉を発言することが出来ない。
ただ一人を除いて。
「冗談じゃねえよ………ここがなくなるなんて」
「魅録…」
「ここがなくなってもいいのかよ!!」
魅録の精一杯の叫びに部屋の中が震えた。
咲季はその大きさに肩を一瞬震わせ、月光を背中に背負う魅録の方を見る。
涙をいっぱい浮かべて心の中を吐き出す魅録はただ一点を見つめて言葉を続けた。あの日の夜、皆を守りたいと願った彼の姿が重なる。
「俺たちいつも一緒だったじゃん………せっかく7人で居られるようになったのに……俺は…嫌だ……」
一筋流れた魅録の涙があまりにも綺麗で、咲季は言葉を失う。
彼のつぶやく言葉は全員の心を解きほぐしていくのがわかる。それぞれの思いが涙になり、ため息になった。
咲季もまた、ぐっと奥歯をかみしめて、短いながらも7人で過ごした思い出と、皆から教わった大切な何かを胸の中に感じる。
「俺は諦めねえぞ…絶対に取り戻してやる……」
魅録が立ち上がり、そう決意すると、静かに清四郎が口を開いた。
「かっこつけないでください。……僕だって諦めませんよ」
「清四郎…」
「僕も」
「あたしも」
「あたいも!」
「私もですわ」
一瞬驚いてはいたが、そう言って立ち上がる面々に魅録は少しずつ顔がほころんでいく。
そうして最後に席についていたのは咲季だけだった。全員の視線が降り注ぎ、咲季はそんな一人一人の顔を見上げる。
咲季、あなたはどうするの?
私は、どうしたいの?
いつの日か、何度も問うようになっていた疑問。
私自身がいつも探していた答え、そして自分にしか出せない答えを。
「私は……」
意を決して立ち上がろうとした時に、自分の体が思った以上に動かないことに驚いた。否、自分の中で込めた力があまりにも小さかったことに驚いていた。皆がどんな気持ちと意志で立ち上がったのかを実感して、覚悟の違いに自分が恥ずかしくなる。俯き、座り込んだまま、咲季は言葉を続けた。
「私は、魅録みたいな自信、ない……」
「咲季、なんで」
「私は、皆みたいな力、持ってない」
「……」
「怖くてたまらない」
言った言葉が襲い掛かってくるようだった。その言葉に、最初こそ反論しようとした魅録も黙り込む。
俯いた彼女の顔はよく見えないが、声は微かに震えているようだ。誰もが困惑して視線を合わせるが、咲季はなおも続ける。
「皆を探しながら、頭のどこかでずっと逃げ出したいって思ってた。痛い目に遭いたくないから、怖いから。でも、どこを探しても皆がいない、声も返ってこない。それはもっと怖かった。……私には何もない、何もないのに、そんな自分だけ無事なんて悔しかった。そんな訳分かんない使命感だけであそこまで走った」
「咲季」
「清四郎を見つけて、皆を見つけて、魅録のメールを見て、本当に安心した。こんなことにならなきゃわからないのかと思うくらいだけど」
吐き出した言葉を止める努力を捨てて、ぐっと体に力を込める。震えていた声も足も、今度は自分の体として受け入れられるほどに力を受け入れてくれた。
ぎし、と軋む木製の椅子を押しのけて、咲季は静かにその場に立ち上がる。
「私には何もない。でも、私には皆がいる。だから…皆と出会わせてくれたこの場所を守りたい。……私も、そのために頑張ってみたい」
ゆっくり顔を上げると、全員がこちらを見ていた。
その驚きと喜びと、いろんな感情が入り混じった表情の中に、自分を排除するものは一つもない。
「あったり前だよ」
「そうよ、咲季」
「咲季がいなきゃ意味ないし!」
「当然ですわ」
「俺らには咲季が必要だから」
「……」
最後に黙り込む清四郎に、咲季は視線を向ける。
一瞬ここに来る前の出来事を思い出すが、咲季はぐっと唇を噛んで清四郎を見つめた。
「怖くてもいいんです。僕たちが咲季を守ります。咲季が僕たちを守ってくれたように」
「清四郎……」
「やるなら絶対に勝ちましょう。……不可能を可能にするのが」
「有閑倶楽部ですから」
***
翌日、珍しく予定のない咲季は部屋のソファで時間を持て余していた。
自宅謹慎処分になっていることもあり、平日の午後だというのに部屋の中にいる咲季は特に意味もなくテレビをつける。いつだって平日の昼間というのはテレビの再放送か通販番組ばかりだ。
「明日の確認も終わったしなぁ……どうしよう」
午後だと思っていたが、ほどなくして夕方4時のワイドショーが始まる。ニュースのラインナップには上位にはならないが魅録の発砲事件の捜査状況が残っている。
咲季は不快感を抱いてテレビを消した。
そしてソファに座り直し、机の上に散らかった数枚の紙を手に取った。
結局昨夜は全員のけがも処置ができていたため、自宅に戻ることになった。
咲季が秘書とぶつかって偶然手に入れた手帳によると、2日後(つまり明日なのだが)に学園の権利書を用いた取引が行われることが分かったのだ。
しめたとばかりにその内容を確認し、権利書奪還のシナリオが作成されたのが今日の午前中だ。
データになって送られてきた内容をプリントアウトして確認し、念入りに脳内シミュレーションを行っていたらこんな時間になっていた。
再び手に取った資料を机に投げ出し、ソファに勢いよく背中を預けたところで、膝の上に置いてあった携帯が震える。ディスプレイには“清四郎”と書かれており、きちんと登録しなおしたこともあってすぐに差出人は判明した。
咲季はその文字を見た瞬間鼓動が跳ねたが、一斉送信であることがわかり胸をなでおろす。
と同時に、どうしても思い出さないようにしていた昨夜のもう一つの出来事を思い出してしまった。
「ていうか……初めてだったんだけど……」
外国ではキスの文化があるということもあり、そこまで抵抗はなかったつもりだが、やはり咲季にとって人生で初めてのキスは特別だった。
その時の景色、感触を思い出しては一人で悶々とする時間は、今日だけでも二度三度ではない。
そしてその想像は必ず最後に「忘れてください」という一言で後味悪く締めくくられる。
「そんな簡単に忘れないし!ていうか忘れろって言われて忘れられるもんでもないし!なんで…なんで、あんなこと…」
ソファと同じ柄のクッションに向かって携帯を投げつけ、咲季ははぁとため息をついた。
別に嫌だったわけではないけど、と先ほどの独り言に付け足したところで、このままでは明日の計画実行のその時までこの繰り返しになると思った咲季は、投げて転がった携帯を再び手に取って外出の準備を始めた。
簡単に支度を済ませてマンションを出る。外はほとんど暗くなっており、西の空が微かにオレンジがかっていた。
特に行くあてもない咲季は何を思ったのか、病院へと続く並木道を歩いた。
とはいっても清四郎はおそらく病院ではなくその敷地の奥にある自宅で明日の計画に必要なものを手配している頃だろう。
明日の計画は万全の態勢で臨みたい、と言っていたことを思い出し、集中できない自分が外出していることを心の中で小さく謝罪した。
しばらくぷらぷらと歩いていると、後ろからクラクションが鳴った。
何事かと振り返ると、いかにも高級な白いベンツが減速しながら歩道に寄ってきた。ライトがまぶしくよく見えないが、近づいて停車したところで後部座席の窓が開き、ふわふわした美しいウェーブと共に可憐が顔を出した。
「可憐!」
「こんなとこで何してんの!」
「ちょっと、散歩?」
「ふーん、…じゃあ一緒にディナーしない?」
突然の誘いではあったが、咲季はこのまま一人でもやもやと明日を迎えるのも嫌だったため、快く応じた。車に乗り込むと可憐も「なんか落ち着かなくてねぇ」と一言つぶやき、「今日はイタリアンがいいな」と運転手に告げる。同意を求める視線が向けられたため、咲季も「いいね」と返すと、車はゆっくりと走り出した。
しばらく走ったところで、高級飲食店が入ったビルの前に車が到着する。
1階にある店のフロアが外から見え、店員が出迎えてくれた。そのまま店員の後ろについて歩き、予約席の札が置かれた店の奥の落ち着いたテーブルに到着した。
「可憐って、やっぱり綺麗だね」
「何、どうしたのよ急に」
席に着くまでにほとんどの男性が振り返り、可憐に視線を向けていたため、咲季は改めて彼女の美貌を実感した。
学園はエスカレータ式とはいえ、やはり高校生ばかりが集まる。
大人びた可憐はやや浮いているところもあるが、街中ではむしろ可憐の美貌は十分大人の男性たちを虜にしているようだ。
注文を終えて一息ついたところで咲季はその感想を素直に可憐に伝えたが、可憐は驚いたように目を丸くしていた。
「どこにいってもモテモテだね」
「モ、モテモテって古くない?」
「そうかな」
「あのねぇ、こんなこと自分で言いたくないけど、咲季のこと見てる人だっているんだからね」
少しつんとした言い方で可憐がそういうが、咲季にはその自覚はまるでない。むしろ可憐が気を遣ってくれているとさえ思ったため、咲季は「いやいや」と適当に流して冷水を一口飲んだ。
「私だって、皆に好かれるわけじゃないしね。好かれるならお金持ちがいいなぁー」
「変わんないねー」
相も変らぬ可憐の言葉に素直に笑みがこぼれ、そのまま可憐の恋愛遍歴の話になる。
3人ほど聞いたところで注文の品が運ばれてきたため、二人はそのままディナーを楽しんだ。
***
食後のデザートとコーヒーが運ばれ、咲季と可憐はそれを一口飲んでため息をついた。食事の量もちょうどよく、これでデザートを食べれば確実に満腹になると思いつつ、クリスマスにちなんだ可愛らしいレアチーズケーキに金色に輝くフォークを差し込む。
「さっきの話だけどさ、可憐は今まで何人くらいと付き合ったの?」
「え?」
可憐は文字通り一言聞き返してケーキを口に運んだ。咲季も自分の質問をして、そのままケーキを口に運ぶ。酸味を含んだ甘さが口に広がり、好みの味に咲季はすぐさま次の一口を用意する。
「10人過ぎたあたりから数えるのやめちゃったからわかんない」
「予想の斜め上の答えだった…」
「なにそれ!」
そこまで話してケーキに集中したが、小ぶりのケーキはすぐに腹に収まり、コーヒータイムに突入する。カップを置いた可憐は「うーん」とうなり、咲季もコーヒーカップを置いて可憐の様子を窺った。
「でも、初恋は覚えてるわよ」
「えっ」
「初めてキスした相手も覚えてるわね。あ!でもこれは秘密よ!」
「ええっ!ど、どんな感じだったの?」
「秘密って言ってるじゃない!普通よ、普通!」
先ほどまで雄弁に恋愛遍歴を語っていた可憐が急に秘密と言い出したこともだが、咲季にとってはキスの話題は今一番聞きたい話でもあるため、咲季は食い下がる。妙に興味を示す咲季を不思議に思いながら、可憐は話題を少しそらすことにした。
「ていうか、キスくらいはしたことあるでしょ?」
「へっ?し、してないよ!」
「うわ、怪しー。何その反応」
形勢逆転とばかりに可憐がにやつきながら咲季の顔を覗き込む。咲季の方もさっきまで食い気味に質問していたにもかかわらず、突然身を引いて視線を逸らし始めた。これは何かある、と思った可憐だが、ふと野梨子と清四郎の顔がちらつく。咲季と言えばこの二人ではないか。
「でもそうかぁ、野梨子も結局あの時キスしてないわよね」
「え?ああ……刈穂さん?」
「そうそう。あの時も清四郎不機嫌だったし、清四郎が許さないか」
「そっ、そうだね、そうだよねぇ」
「……」
「何?」
咲季は少しでも平然を装い可憐の話に相槌を打つ。その様子を少し怪しんだものの、可憐は咲季をじっと見つめて、その後ふっとコーヒーカップに落として口を開いた。
「デートは出来ても、キスは別。少しでも好きじゃなかったらできない。……野梨子がキスできる相手なんて今後現れないかもね」
「……そういうもんなんだ」
「嫌いな相手とキスできるなんてよっぽど悪いやつよ。美童じゃあるまいし」
「ああー……ふふっ」
美童の顔が思い浮かんだものの、二人の脳内に思い浮かぶのはキザな彼ではなく、無邪気にダジャレを言う姿だったため思わず吹き出してしまう。二人でクスクス笑いあった後、可憐はふと「でもさ」と話し出す。
「美童はどうでもいいとして、魅録や清四郎はキスしたことあるのかしら?」
「へ」
「なに間抜けな声出してんのよ」
「いや、考えたこともなかったから…」
「そうよね!考えたことないわよね!だからあえて今疑問に思ったのよ」
「いやぁ……どうだろう…」
咲季の脳裏には本日何度目かの昨夜の出来事が思い出され、可憐の言葉にまともに返すことが出来なかった。清四郎に関してはあります、私ですけど、とは口が裂けても言えず、咲季は考えるふりをして目線を上に向けた。可憐は独自の理論を展開しており、「魅録は見た目に反して硬派だから絶対まだ」とその仮説を力説している。
「清四郎は謎ね」
「謎…だね」
「いや、わかりやすいのよ。わかりやすいけどその実態は謎」
「わかりやすいかな」
「えっ、だって誰が見ても……」
「え?」
少し不安げにきょとんとする咲季の様子に、どうやら清四郎の思いは本人には伝わっていないのだと気づいた可憐はそこまで話してコーヒーを口に含んだ。これ以上言えば絶対に怒られるだろう。たとえ周囲が気づいていたとしても、本人がわかっていないということが重要だ。
「………いや、…まあ、謎、よね…」
「謎だよ、何考えてるかわかんないし」
「まあそれは確かにね……」
照明や化粧のことを抜きにしても、何やら咲季の顔が赤い気もした可憐は、やはり余計なことを言わなくて正解だと安堵した。だが観察していると少しずつ不安そうに曇る咲季の表情に、楽しい恋愛トークから明日の一大計画へと可憐の意識が逸れる。長い沈黙を経て、可憐はぽつりとつぶやいた。
「……………明日、うまくいくかしら」
「………」
「準備はしたつもりだけど、…怖いわね」
「…うん」
咲季はそれ以上弱音を吐かないようにするためにコーヒーを口に含む。最後に溶けきっていなかったのか、砂糖のざらざらした感触が舌に残り、咲季はそれを流し込むためにぐっと飲み込む。可憐もコーヒーを飲み干し、咲季の方を向き直った。
「精一杯がんばりましょ。学園のためよ」
「そうだね」
「みんな一緒だから大丈夫よ!」
可憐がそう笑うのを見て、咲季も同じように頷いた。
やはり悶々と家にこもらなくてよかった、と心の中で彼女に感謝をした。
***
帰りの車に乗り込み少し走ったところで、可憐はずっと聞きたかったことを咲季に尋ねることにした。
少し遠回りをしてもらえるよう、運転手に目配せする。黄桜家に長く仕える運転手は彼女の合図の意味をすぐに悟り、ウインカーを出した。
「ねえ、ずっと聞きたかったんだけど」
「ん?」
窓の外の景色を見ていた咲季は、可憐に話しかけられて顔を向ける。当の可憐はまっすぐ前を向いているため、横顔でしか表情はわからないが、先ほどの恋愛談義とは違う真面目な表情だ。
「カサルとはどんなこと話したの?」
「えっ…」
「あの日、カサルが帰る日。抱きしめられてたわよね?」
今となっては懐かしく思う人物の名前とその時の状況を思い出して、咲季は悪いことをしたわけでもないのに居心地が悪くなる。
あの時は思いが詰まって走って逃げたけれど、そういえば皆に見られていたのだということを思い出した咲季は、少しでも誤解のないように伝えようと言葉を選ぶ。
「あ、別に責めてるわけじゃないのよ。でも、やっぱり結構衝撃だったっていうか」
「だよね……あの、あの時、カサルには“皆と仲良くしろ”って言われたの」
「……なにそれ」
可憐は少し拍子抜けしたような声でこちらを向き、ぱちぱちと瞬きした。長いまつげがぱさぱさと揺れるのを見ながら、咲季は正直に話を続ける。
「私もカサルも、遠慮っていうか…迷惑かけるくらいならって思ってたところがあって…。そこが一緒だったのかな。でも、カサルは可憐やみんなと一緒に過ごしてそれは違うんだってわかったんだって」
「そう、なの…」
「迷惑をかけて、迷惑をかけられて。私は皆とそういう関係じゃないのか、って諭されたんだ。でも、あの時の私は耐えられなくて逃げちゃったの」
「……」
「今回こうやって皆と頑張ろうって思えたのは、カサルのお蔭でもあるんだけど」
昨夜の彼女の発言もそうだが、彼女は最初に出会った時からずいぶん変わったようだ、と可憐は純粋に感心していた。と同時に、カサルがそこまで咲季を含めて自分たちのことを考えていてくれたとは知らず胸に熱いものが込み上げる。
「じゃあ、あたしはカサルに感謝しなきゃね」
「可憐…」
「さ、明日が本番だから今日は早く休むこと」
「あ、もうついたんだ。……ありがとう」
可憐の言葉にハッとして窓の外を見ると、最初にクラクションを鳴らされた並木道が見えた。
可憐がクスッと笑うのを見て、咲季もつられるように笑う。
明日のことが気になっていてもたってもいられなかったが、彼女のお蔭で充実した時間を過ごすことができた。その意味も込めて感謝の言葉を伝えると、車がゆっくりと減速する。マンションの玄関に到着し、咲季は車を降りて白いベンツが去っていくのを見送った。
帰宅してすぐに咲季はシャワーを浴び、まだ眠るには時間が早いが寝支度を済ませた。
再びソファに座り、打ち合わせた資料を手にミネラルウォーターを口にする。資料を見つつも考えていたのは今日の可憐との会話だった。
「好きじゃなきゃ、キスできない……」
可憐の言葉をふと思い出し、咲季はペットボトルを机に置いて、空いた手で自分の唇に触れる。冷えたミネラルウォーターで冷たくなった唇に触れながら、咲季はその言葉の意味を考えていた。
論理的に考えれば、その裏は“好きだから、キスをする”となるが。
「清四郎って、私の事………」
そこまで言いかけて咲季は、触れていた手をバタバタと左右に振って「いやいや!」と自分の発言につっこみを入れる。“キスをするのは、好きだから”という対偶も考えたが、俄かには受け入れられず、咲季は混乱しながらもう一度ペットボトルを手に取ってミネラルウォーターを流し込んだ。
「そもそも、清四郎って好きな人とかいるのかな…」
自分でそう呟いて、咲季は清四郎のことが頭に浮かび顔が熱くなる。
最近になって自分が清四郎のことを想っていると気づいたものの、その反対、つまり、清四郎が誰を好きかということを考えていなかったのだ。以前、秋ごろに社交ダンスを見に行った帰りにこの手の質問をしたことがあったが、その時は何と言っていただろうか。
好きという気持ちがわからないという自分に対して、正しい答えを言えないと目を伏せた清四郎の横顔。
そして、その上で聴いた清四郎の想い。全力で守りたいと言っていたあの瞳が誰かに向くのは嫌だとわずかながら感じたことを思い出した。何より彼は、自分だけを見ていてほしいと言っていた。
その相手はいったい誰なのだろうか。
今までの数々の清四郎の言動を思い出しながら、それは自分ではないかと自惚れてしまう。しかし、そう思うと同時に「そんなはずが」と自分を諌める思いが同じだけ浮かんでくる。
まるで、そうではなかった時に自分を守るかのように、自然と矛盾した気持ちが渦を巻いていく。
「もう、わかんないや……」
咲季はそこまで考えたところで、手に持った資料の存在に意識が集中する。
今の自分が頑張るべきは、明日の計画のことだ、と切り替えることにし、資料を折りたたんでソファの脇に置いていたカバンの中にしまった。
そしてペットボトルのふたを閉める。考えはコントロールしようとするほどうまくいかないということを今日一日嫌というほど味わっていたが、それでも咲季は布団にもぐって眠りにつくその時まで、昨夜のキスと清四郎のことを忘れようと無駄な努力を続けたのだった。