8章
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荷物を手に教室を飛び出し、玄関に向かって歩いていたところで待ち受けていたのは野梨子だった。黒い艶やかな髪を揺らし、同じように黒く光る通学カバンを手にして柱に背中を預けている。
咲季の姿を見つけると、もともと大きな目をさらに大きくし、その直後に優しく微笑んだ。
「咲季、一度家に戻ってから剣菱邸に集合することになりましたわ」
「あ、そうなの?」
「もしよかったら一緒に行きませんか?」
なんだか有無を言わさないような雰囲気も漂う野梨子からの誘いに、少しだけ戸惑いつつも咲季は素直に従う。
白鹿家の送迎者はいつも黒塗りのベンツだが、今日は着替えることを伝えたのか、高さも十分な高級車が校庭に停車していた。
きっと服も中にあるのだろう、用意周到な彼女に脱帽しながら、咲季は野梨子の後ろについて歩いた。
運転手は二人の姿を見つけると、乗り込むはずの後部座席ではなく車の後ろのドアを開いた。
両開きのドアを開くと中には服が並べられており、野梨子は「どうぞ」と並んだ服を選ぶように勧めた。
野梨子に限らず有閑倶楽部の女性陣はそれぞれファッションにはこだわりがあるようで、悠理の奇抜なそれも例外ではない。
咲季はというとそこまで服装にこだわりはないのだが、こうして野梨子や白鹿家が選んだ服装をいざ手に取ってみると美的センスはこういう部分にも反映されるのだと感動さえ覚える。
どうしたらよいのかわからない咲季の様子に、野梨子はしびれを切らしたのか目の前にあった大きめの薄い灰色のニットを手に取った。
「咲季にはこれですわね。こういうゆったりしたニットのほうがいいですわよ」
「は、はい……」
「そうですわね、あとはこれを……」
結局野梨子がすべてコーディネートした服を渡され、車内に入ると仕切りカーテンを閉められ、ドアも閉められる。
咲季はそのまま渡された服に着替え始めたが、安全とはいえやはり車内で着替えるのは一苦労だった。
なんとか着替え終わってノックで合図をするとドアが開き、冷気を感じる。
咲季の姿をみた野梨子は満足そうに微笑み、入れ替わるように車内へ入っていった。
運転手は待とうとする咲季に対して車の側面のドアを開いて座るように勧めた。
温かそうなシートにおずおず手をかけて乗り込む。
咲季が座ったことを確認すると「お待ちください」と運転手が声をかけ、しばらくすると後ろのドアが開く音がした。
こつこつとヒールの音がしたかと思うと反対側のドアが開き着替えた野梨子が隣に座った。
「それにしても……」
運転手も乗り込み、車が発進する。程よく暖房がきいた車内で静かにエンジン音が響いたかと思うと、隣にいた野梨子が口を開いた。
正面を向いたまま少し目を伏せて微笑む野梨子の顔が見え、咲季は彼女の端正な横顔を見て言葉を待った。
「驚きましたわ。まさか咲季がこんなに行動的になるなんて」
「うーん……自分でもびっくりしてるんだよね。でも、納得したっていうか」
「納得……」
今度は咲季が正面を向き、ここ数日のことを思い返す。
日本に帰ってきてから、怖がりながらも少しずつ周りの人たちの表情に目を向けてきた。
好きな人のために身体を張る刈穂裕也の姿、カサル王子の言葉。
魅録が皆を思う気持ち、誰かを思う気持ちがうまくいかない時の悲しさ、寂しさ、正面から向き合って初めて得られた愛しい人のぬくもり。
思い出すと涙が出そうになるが、それは悲しい涙ではないということはわかる。
これまで自分が感じたことがない、否、感じていても抱えることのできなかったたくさんの想いが溢れそうになったのだろう。
「うまく言えないけどね」
「……なんだか、変わりましたわね」
「最近よく言われるけど、私そんなに変わった?」
「強くなった、というか……なんでしょう、うまく言えませんが……」
咲季の言葉をそのまま繰り返すように野梨子も答える。
会うたびに変わる彼女の姿は誰の助けもいらないような強さを得たわけでもないが、それでも言葉や瞳に頼もしさを感じる場面もある。しかし、その頼もしさは自分と彼女の距離を表しているような気もして、なんだか少し寂しい気持ちもした。
野梨子の言葉に対して返答を考える咲季は「うーん」と小さく唸りながら腕を組んで目線を上に向けた。
少し考えたところで、咲季は自分の気持ちを確かめるようにゆっくりと言葉を発する。
「強く…は、なってないかな。まだまだ怖いこともたくさんあるし。……でも、この前皆が助けてくれたでしょ?」
そう言って野梨子の方を見た咲季に、野梨子は彼女が恩返しとでも言うのだろうかと身構える。
返してもらうためにやったことではない。むしろ、自分たちが許してほしくて、一緒にいたくて、勝手にやったことなのだから。
野梨子は彼女の次の言葉を待つ間にもやもやと広がる何かに、少しだけ居心地が悪くなった。
「なんか、その気持ちが分かったていうのかなぁ」
「えっ……」
「そういう気持ちが自分にもあったんだなって」
野梨子を助けたい。可憐を助けたい。悠理を助けたい。みんなを、――自分が。
自分の体がどうなるかなんて考えなかった。いつの間にか治った傷も、今思えば人生で初めての痛みだった。
有閑倶楽部と関わるようになって、初めて殴られ、初めて傷ついた。
自分がそこにいないことの寂しさも悔しさも知った。自分にできることをやらないままに終わりたくなかった。
きっと同じ気持ちで私のことも見ていてくれたのかもしれない。
そう思わせてくれた魅録の涙に自分が救われたことも事実だった。
「そう、ですか……」
「だからこそ、魅録を助けたい。そのためにできることをやりたいし、その気持ちは皆も同じだと思ってる」
「やっぱり強くなりましたわよ、咲季」
「そうかなぁ?……だとしたらそれも皆のおかげだよ」
へへっと笑う咲季はいつもと同じようで全く違う誰かになってしまったようにも見えて、野梨子はやはり少しだけ寂しくなる。
車は少しずつ減速し、壮大な剣菱邸の敷地に吸い込まれていく。
それでもあどけなく「ついた」と呟く咲季の中に、野梨子は昔の面影を探し、小さく微笑んで「いきましょう」と返事をした。
剣菱邸ではすでに数台のパソコンとここ数日の新聞記事などが机に並べられており、着々と準備が進んでいた。
持ち出される機器の数々と同じように食事が運ばれてくるのは、最初に帰宅した悠理の命によるものだろう。
他の面々は咲季たちが着く少し前に到着していたようで、コートをメイドに預けて席に着こうとしていた。
「全員揃いましたね。では、まずはとにかく情報収集です。それぞれ分担して調べてもらいたいことがあります。」
清四郎が号令をかけ、皆が真剣な面持ちで指示を待つ。
咲季は野梨子と共に最近あった銃に関する事件を調べることになった。
インターネット上にあるどんな噂でもいいから集めてください、と清四郎が言ったものの、野梨子は信憑性に欠けるのでは、と小さくつぶやいた。
「だと思うでしょ?でも最近は結構本物もまじってるんだよ」
「美童」
「スキャンダルとかね、ほら、言うじゃん、火のないところはなんとかって」
「煙は立たぬ、ですわ」
「そうそうそう、それそれ!」
隣から割り込んできた美童の言葉に、なるほどと納得した咲季と野梨子は用意されたノートパソコンを操作し始めた。
各々がそれぞれのペースで作業をしていると、ピコピコと電子音が鳴る。
そろそろ飽きてきたのか、悠理はその音に敏感に反応し、清四郎の傍にある見慣れぬモニターを覗き込んだ。地図の真ん中で緑色の点が点滅している。
「なんだこれ?…この場所…魅録の家?」
「ああ、さっき学校から帰る途中で裏門によって魅録のバイクに発信機を付けたんです」
「さすが清四郎ね。魅録のことだもの、どうせ何か隠してんのよ」
「わかりやすいよね~」
可憐と美童は目を合わせてクスリと笑った。
そんな彼らの様子に、どんなに突っぱねても信じてもらえる魅録を幸せ者に思う。
遠ざける必要なんてないのに、と思ったところで、その言葉が自分にも返ってくる気がした咲季は人知れずドキッと鼓動が跳ねるのを感じた。
手がかりが少なすぎる状況で、銃というキーワードだけでは中々事件はヒットしない。
そもそもこのような事件は日本でそこまで頻繁に起こらない。ニュースになったときも、大抵は暴力団がらみの事件だ。
一学生が銃を手に入れた事件などそうそう起こるはずもない。
「……そういえば」
「どうしかしましたか?」
「いや、ちょっと疑問なんだけど、こういう銃に関する事件って警察はどうやって調べてるんだろう?」
咲季はふと思いついた疑問を口にした。
反社会勢力、いわゆる闇の部分を、一般人もアクセスできる方法で調べることができるとは到底思えない。
それでも警察の動きというのは時に目を見張るほど早い時だってある。
魅録の時も銃声が聞こえるや否や機動隊が突入したではないか。
「それは、もちろん裏取りはしているでしょうね。突然使われない限りは準備をしてから突入しなければ命の危険もありますし」
「警察だって武装しなければ危険ですわ」
「そうだよね…そうだ……」
「へー、だったらなんであいつら盾とかもってたんだろ?装備も完璧だったじゃん」
咲季が清四郎と野梨子の言葉に考えを巡らせていると、悠理がチョコレートの包装を破りながら素朴な疑問をぶつける。
その言葉にハッと目を見開いた清四郎と野梨子はお互い目を見合わせてその時の様子を脳裏に浮かべた。
「もしかして…銃があの場にあることは事前にわかってたってこと?」
そこから導き出される答えを発したのは可憐だった。
そうとなれば怪しい点はいくつもある。銃の送り主はもちろんだが、銃があの場所にあることを警察に通報した人間は誰なのか、なぜ魅録だったのか。
一気に道が開けた感覚を抱きながら、清四郎が咲季に目をやると、咲季はまだ机上を見つめてぶつぶつと何かをつぶやいている。
「咲季?」
「あの日、銃声が鳴る前から警察は中庭にいた。装備を固めて、まるで今から何か事件が起こるとわかってたみたいに…そしたら銃声が鳴った……」
「警察はすでに校内に待機していた、と…」
「しかも一直線で生徒会室に向かったんだよ。私も音を聞いたから走ったのに、それより早くたどり着いてたし……」
「それなら、銃が届いた時点だけではなく、銃を手に取ったときに通報されたと考えるのが妥当ですね」
「でも、そんなの部屋の中が見えない限り無理じゃ………え?嘘、見られてたってこと?」
可憐の顔からサッと血の気が引き、手で口を覆って呆然とする。
咲季は魅録が夜の生徒会室で投げた物体のことを思い出したが、可憐の様子を見て何も言わずに口をつぐんだ。
少しずつ日が傾いているのか、東の空に月が見え始めた。集まり始めたピースをつなげば何かつながるかもしれない。
チョコレートを食んでいた悠理さえその手を止めて黙ってしまった部屋の中、聞き覚えのある電子音が先ほどよりもせわしなく鳴り響いた。
「何?!」
「魅録に動きがあったようです!……どこに行くつもりなんでしょうかね…」
全員が食い入るようにモニターを見つめる。
バイクのスピードも相当出ているようで、清四郎はパソコンの充電を確認したかと思うと立ち上がり傍にかけられていたコートを手に取る。
支度をしたところでパソコンからコードを抜き、全員を見た。
他の面々も察したのか支度をし始める。魅録が走る道は通いなれた聖プレジデント学園ではなかった。
パソコンの画面が示す魅録の行く先に嫌な予感がしながらも、清四郎はスタスタとその部屋を後にした。
***
車の中で誰も何も発さないまま時間が過ぎた。
今どのあたりを走っているのかは運転している清四郎しかわからないが、その険しい表情と助手席に乗せた木刀から、楽しいドライブにならないことは予想できた。
いつもの有閑倶楽部のワゴンに乗ったものの、後ろの席の全員が別モニターに映し出された緑の点滅を見つめる。
すでにその点は停止しており、その場所に駐車されていることがわかる。
「…………」
咲季は目を凝らしてその場所を確認した。
比較的大きな通りを一本入ったところにある建設会社、とだけ認識しているが、その地図上にははっきりと”鮫島組”と書かれていた。
どう見ても危なそうなその名前に、咲季は先日の穴の開いた写真を思い出す。
そして、魅録の安否に背筋が凍るのを感じた。
ぐっと車が止まり、慣性の力を感じたところで車は停止した。
車のドアを閉める音は普段よりちいさく、清四郎が足音に気を付けながら降り立ったのがかすかに聞こえる。
数秒後、ワゴンの後ろのドアの鍵が外れる音がした。それを合図に5人は目を合わせた。
「行くか」
ドアを開いた清四郎と目を合わせて悠理がそう言ったところで、清四郎はちらと咲季を見た。
まるで、お前はここにいろ、と言わんばかりの目に一瞬たじろぐが、咲季は負けじとぐっと唇を噛んでその目を見つめ返す。
「……どうしても、行くんですね」
「当たり前でしょ」
咲季が答える前に可憐がそう返答したので、咲季もブンブンと頭を振って同意する。
はぁ、と小さくため息をついたあと、清四郎は自分が遮っていたドアの前から退き全員が下りるのを待った。
「バイクがありましたわ」
「ほんとだ…これ何?木の実………くるみ?」
冷たい冷気の中を神経を研ぎ澄まして歩くと、入り口の前に魅録のハーレーが止まっていた。
側面には見えづらいが発信機が付いている。革製のシートの上には無残にも粉々になった胡桃がばらまかれていた。
まるでそれが魅録を示しているような気がして、咲季はおもわず目をそらした。
「バイク回収しとく?なにかあったら危ないんじゃないかな」
「美童にしてはいいアイディアじゃない。じゃあ、私が呼ぶ」
美童の妙案にみんなが納得し、可憐がさっそく電話をかけた。知り合いの運送会社に電話をかけると、バイクを回収するよう手配する。
ビルの中は薄暗いが、ゆらゆらと人が動く様子が見える場所が一部屋あり、清四郎はそこを見据える。
意を決してビルの中に乗り込み、足音を殺しながら階段を上ったところで半分開いた部屋の中から薄明かりが漏れていた。
木刀を手にした清四郎を先頭にして廊下を進む。ドアの隙間を覗き込むと、巨体の背が見えた。
何を話してるかは聞こえないが、カチャリとリボルバーを回す音が響いた。
心臓が耳の横にあるかと錯覚するくらい、鼓動が鳴り響く。
さっと清四郎が動き出す。静かにドアの向こうに入っていく彼の背中を見て、咲季は息をのんだ。
瞬く間にすいこまれていく彼の姿に思わず身を乗り出すが、バシッという音にびくりと体が跳ねる。
少し攻防の間に、悠理もドアの隙間をすり抜けて部屋に入っていった。
「仲間を返してもらいましょうか」
冷たく重く響いた清四郎の言葉を合図に、反撃が始まった。悠理の飛び蹴りが炸裂し、迫りくる男たちを悠理と清四郎が薙ぎ払っていく。
遠くに見えるのは、座り込む魅録だった。
それを視認したところで、助けにむかうよう清四郎から檄が飛ぶ。
元気のよい返事をした野梨子と可憐はそのまま美童を戦場に放り投げた。
「えっ、僕!?」
「魅録!」
投げ出された美童と同時に飛び出した咲季は、不気味に笑いながら歩み寄るリーダー格の男と目が合わないよう身をかがめて一直線に部屋の奥まで走った。
どうやらリーダーは右往左往する美童をロックオンしたらしく、美童に平手打ちを食らわせる。
その音に美童への申し訳なさも募るが、視線の先でうなだれる魅録に向かって走ることはやめなかった。
「魅録!魅録!」
「……う…っ…」
「よかった…!生きてた……!」
いけないとはわかっていたが必死で身体を揺さぶり呼びかけると、かすかに声が返ってきた。
そのこえでようやく安堵し冷静になると、殴られた傷がところどころにあることはわかるが銃創はないことが確認できた。
パチン!と聞き覚えのある肌のぶつかる音にハッと我に返り咲季がふりむくと、頬に赤い跡をつけたリーダー格の男が倒れこんだ。
ほっと息をなでおろすのもつかの間、起き上がったリーダー格の男はまたしても笑顔の美童に襲い掛かるが、清四郎の鋭い一発によって完全に伸された。
ふっと一息ついたところで咲季が心配そうに見つめる魅録のもとに全員が駆け寄った。
「お前ら……なんで……」
「どうせろくでもないことを考えていると思って、発信機をつけさせてもらいました」
「一人でなんとかしようなんて、無茶だよ」
「あんな芝居までして…」
「水臭いですわよ」
「かっこつけすぎだぞ!」
「けど、さ……」
一人一人からの言葉をうつろながらも聴いていた魅録は、それでも自分の想いを伝えるために口を開いた。
それを制するかのように腕に小さな力がこめられ、魅録がゆっくりそちらを向くと、その力の主である咲季がいた。
いつの間にいたのだろうか、咲季の存在に驚いた魅録は話すのをやめる。
「魅録が僕たちを守りたいように、僕たちも魅録を守りたいんですよ」
「……」
「それが、ダチってもんで、しょ!」
「いって…!」
容赦ないデコピンをもらい、魅録は痛がるが、意地悪く笑う清四郎につられるように笑いだした。
同じように笑顔になる悠理や美童、可憐に、呆れたような笑顔の野梨子はそのうちに同じように笑い合った。
咲季は清四郎の言葉に胸が詰まる思いがしながらも、魅録が無事であることが何よりも嬉しく、笑い合う全員につられてぎこちない笑顔を見せた。
「てめえらがしっかりしてないからこうなるんだよ!」
「!」
部屋の外からガラの悪い怒号が聞こえ、全員の笑顔がサッと消える。
清四郎が急いで魅録を担ぎ、別のドアから静かに退散した。
どうやら間に合ったらしく、ビルの外に出たところでホッと息をついた。
なんとか支えられて立つ魅録のそばにいた咲季は、街灯と月明りに照らされる痛々しい傷を見て、思わず魅録に声をかけた。
「……大丈夫?」
「うん……ていうか、咲季、来たんだ」
「ダメだった……?」
「いや、無事でよかった」
そう言って笑う魅録に、こんな状態になっても自分のことを心配してくれるのかと戸惑う咲季は言葉に詰まる。
何も言わない咲季に視線を向けながら、魅録はまた言葉を続けた。
「てことは、ちゃんと相談できたんだ」
「えっ」
「俺のこと、清四郎とか野梨子に相談できたんだろ?」
「……うん…、昨日相談できてなかったら助けにはこれなかったと思う」
「はは」
魅録がなぜ笑ったのかわからなかったが、それを余計なお世話とは思っていないことは表情から読み取れる。
二人の会話を聞いていた清四郎は魅録を支える力をさらに込めながらスッと視線をそらし、そしてゆっくりと口を開いた。
「皆は先に剣菱邸に戻ってくれますか」
「なんだよ、急に」
「魅録を病院に連れていきます。野梨子、このビルから離れるために少し歩いたところに車を呼んでください」
「……わかりましたわ。魅録、ちゃんと治療を受けますのよ」
「おう」
何かを察したのか妙に物分かりの良い野梨子がすぐに車を呼び、連れられるように咲季たちは歩き出した。
まだ心配なのか何度か振り返る咲季や可憐の動きは夜の暗闇の中でも十分目立っており、その姿を見送ってから清四郎は魅録を乗り付けたワゴンの助手席まで案内し、自分も運転席に乗り込んだ。
車に乗り込み、エンジンをかけて発車する。
そういえば、と魅録が反応したところでバイクの所在を伝えると魅録は安心したのかシートに体重を預けた。
二人だけになった車内には音楽も流れず、暗い夜道ですれ違う車の音と歓楽街を歩く雑踏がかすかに聞こえるだけだった。
少し走ったところで魅録の声が静かに車内に響く。
「…悪い」
「何がですか」
「…なんか、全部、かな」
「…」
その短い道中に、魅録は隣の運転席でまっすぐ前を見る清四郎を横目で見やり、ぽつっと謝罪の言葉をつぶやいた。
きっと清四郎には何もかもお見通しだったわけだが、それでも謝らないと自分の気が済まない気がしたからだ。
それでも彼は自分を追及しなかった。「何が」悪いのか自分でもわからないが、この言葉を口にしないと自分の中にある罪悪感が消えることがないということは明白であった。
いっそ何か言ってくれよ。
そう願うことさえおこがましく感じられる時間の中で、「何が」悪いか思いを巡らせる。
咲季を危ない目に遭わせたこと。咲季に嘘をついて清四郎を遠ざけたこと。
思いをはせると殴られた箇所がずきずきと疼き始める。
「いてぇ」
「そりゃそうですよ」
「だよな」
「…咲季に感謝してくださいよ」
「……」
「昨日の夜も無茶したんでしょう。…咲季から聞きました」
魅録は清四郎の言葉にぐっと押し黙った。
昨日の夜のことを思い出し、自分を慰めてくれた咲季の優しい手の温かさがよみがえる。
咲季が清四郎に相談できたのだ、そう考えると温かさは少しずつ冷たさをまとい、頭を冷静にさせた。
それでもこうして彼女がまた清四郎と話ができた事実を知り、自分の過ちが少しでも許されたような気がしてきた魅録は自分を律するようにぐっと奥歯を噛んだ。
「ごめん」
「だから、なにがですか」
「…俺さ、…もうわかってると思うけど、あいつのこと好きなんだと思う」
「……」
今度は清四郎が押し黙った。
わかっていますよ、と言いそうになったが、清四郎はそれが言えずに飲み込んだまま言葉を発さなかった。
そこからは二人とも何も発言しないまま時が過ぎ、見慣れた道路に入ったかと思うと菊正宗総合病院にたどり着いた。
救急出入口の前に車を停めると、すでに連絡を受けていた医師たちが救急外来にスタンバイしており、魅録は車椅子に乗せられ骨折などの確認のため検査棟へ運ばれていった。
魅録を見送って待合のベンチに座った清四郎は、ただ広いだけで薄暗いフロアを見渡しながら魅録の言葉を反すうしていた。
遠くの方で自販機の明かりが見えるが、それ以外は何も見えない薄闇の中で、清四郎はあえて暗がりの方を向く。
魅録の告白は聞くまでもなく、わかっていたことだった。
それは自分が野心に駆られて咲季を傷つけたときから始まっていたということ、自分がいつまでもいじけている間に魅録は咲季だけを見ていたということさえ、清四郎はわかっていた。
「知ってますよ、全部……」
わかっていたが、受け入れられなかったのだ。
自分が真っすぐでいられなかったという負い目を、ここにきて突き付けられた気がした。
先ほどまっすぐにその気持ちを吐き出した魅録の姿ではっきり認識した。
自分はあんな風にはできない。
できないとわかっていて、そんな彼の気持ちを咲季が知ったらどう応えるのか。
「自信は、ないですねぇ…」
薄闇につぶやいた後にため息をついて、清四郎は救急外来の前のソファにずり下がるように背を預けた。
今頃咲季はどうしているかと考えながら、薄闇さえも視界に入れぬように目を閉じた。
***
一方、検査棟に車椅子で運ばれながら魅録は、車内で何も言わなかった清四郎のことを考えていた。
それと同時に魅録の頭の中には遊園地での出来事が頭の中をぐるぐるとまわっていた。
あれは魅録にとって最大のアクションであり最大の罪であった。
あの瞬間の咲季の表情は今でも鮮明に覚えているし、その後彼らの仲がおかしくなってしまったことも分かっている。なによりあの時の反応で、咲季のなかの清四郎の大きさを皮肉にも理解してしまったのだ。
その過ちの大きさを自覚していたからこそ、先ほど咲季が来てくれたことや清四郎に相談できたことが本当に嬉しかった。
その嬉しさは「好きな人が幸せになったから」などという美しいものではないことも魅録はわかっていた。
自分の過ちが一番最悪の事態を招かなくてすんだという安心感。
好きな人が幸せになった喜びではなく、好きな人を自分の手で不幸にせずにすんだという安堵。
それは決して美しいものではなく、むしろ薄汚れたものといったほうが納得がいく。
「ばちがあたったのかな」
ぽつっとつぶやくが、車椅子を押す看護師には聞こえておらず、「痛みますか?」という見当違いの返事が返ってきた。
それでもその言葉がやけにしみて、魅録は鼻の奥が痛くなった。
体中が痛いが、それ以上に、自分の情けなさに心が軋んだ気がした。
「痛いっす、ね」
「ゆっくり行きましょうね。」
何も知らない看護師が車椅子を押す足を少し緩めてくれた。
こうして少しでも、清四郎や咲季に会うまでの時間を稼ぎたい。それが魅録の本心だった。
静かに鳴る車椅子の音を聞きながら、二人の関係が少しずつ元に戻ったことに一番安心している自分を見つけたころ、魅録はさっきまで我慢していた涙がぼたぼたと膝に落ちるのを感じた。
「痛いっすね、やっぱ」
そう呟いたが今度こそ看護師には聞こえていなかった。
検査の結果、骨に異常はなく打撲で済んでいた。
血はすでに止まっていたがすべての傷を消毒し、痛み止めの薬をもらって全ての処置は終了した。
再び二人は車に乗り込み、剣菱邸に戻る。
「ありがとな」
「何言ってるんですか。これに懲りたら一人でなんとかしようなんて思わないでください」
「…おう」
先ほどより少し明るくなった魅録の言葉に、清四郎も自然といつもの調子で返答する。
歯切れの悪い返事があり、再び無言になったあと、信号が赤になったところで清四郎がゆっくり口を開いた。
「魅録」
「ん?」
「さっきの話ですが」
「……」
「もうわかっていると思いますが、僕も、咲季のことが好きです」
「…知ってる」
「ですよね」
必死で返した言葉に対して案外あっさりした答えが返ってきたため、なんだそれ、と魅録は拍子抜けして清四郎の方を見た。
相変わらず正面から顔の向きを変えない彼は、ずいぶん綺麗な横顔してるなあとぼんやり思った。
そのうち信号が変わり、清四郎の顔も緑色に照らされたと同時に車が静かに動き出す。
「知ってるけど、言ってくれてよかった。……俺さ、邪魔しようとか、取ろうとか思ってないから」
「えっ?」
「おれは二人とも好きだからさ、…そりゃ咲季と一緒にいられたら嬉しいけど……咲季と清四郎が一緒にいるところ見たほうが、安心した」
「魅録」
「そのほうが、咲季が幸せそうなんだよ」
「……」
「だから、そういうこと」
「……はい」
そこまで言うと魅録は黙り込んだ。
そういうこと、ってなんだそれ。
心の中で小さく自分に突っ込んで、魅録は助手席側の窓に顔を向けて意味もなく流れる景色を見つめる。
その安心は自分のわがままだと思うと、また魅録は情けなさと罪悪感で胸が締め付けられた。
じわじわ滲んでいく景色をそのままに、これでいいんだ、と今はもうあまり思い出せない咲季の笑顔を思い浮かべた。
清四郎がちらりと横を見ると、魅録は窓の方を向いていた。
手を顎にやり、窓の向こうを見ているようだったが、窓に反射して見える魅録の頬には涙が伝っており、かすかに微笑んだその表情に清四郎は何も言えなくなった。
その後、剣菱邸に到着し車を止めた。
魅録は正しい処置のおかげかよろめきつつも歩けるようになっており、清四郎と肩を並べてやたらと大きな玄関へ歩く。
先ほどのこともあり入りにくい二人だが、ドアを開けようとした途端に「帰ってきた!!」という大きな悠理の声が聞こえた。
ばたばたと足音がし、5人が走ってくる。
先頭を切ってきたのは悠理だが、意外にもその後に顔を出したのは咲季だった。
「大丈夫だったのか!?」
「ただの打撲で済んだ。一瞬ヒヤっとしたけどな」
「よかったー……」
そう安堵のため息をついた可憐の横で、同じようにほっとしている咲季と野梨子。
美童もも「ほらね、魅録は強いから」となぜか得意げな顔をしている。
「心配しましたのよ」
「ちゃんと処置もしましたから、安静にしておけばあとは日にち薬です」
「安静に、ですわね」
「そう、安静に、です」
「安静にね」
口をそろえる幼馴染組にお前ら・・・とつぶやく魅録。
特に訝しげな視線を送る咲季に、魅録はさっきまでの会話と相まってばつが悪いのか視線をそらした。
「でも、無事で帰ってきてくれてよかった」
「本当に」
すっと表情を変えてクスクス笑う咲季と野梨子の笑顔に全員が一瞬驚いて目を見開くが、あっという間に全員が同じ表情になる。
「飯!」という悠理の号令に、誰も異を唱えないまま作戦基地ともいえるリビングへ向かった。