8章
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魅録のバイクが曲がり角を曲がって見えなくなった後、咲季はどうしても彼の行動が腑に落ちず、先ほどまでのことを思い返していた。
どんなに問いかけても中身を話そうとしなかった彼の様子から、彼は何があっても誰に対しても今回のことを話すことはないのだろうという予想が浮かぶまでにさして時間はかからず、同時に、自分自身もその気持ちが痛いほどわかった。
ただ、押し黙るほうになったことはあっても、返事が返ってこない側になることは初めてだった咲季は彼の態度にやりきれない気持ちが沸き上がっていた。
突然、少し強めの冷たい風が全身を襲った。
頬が冷える感覚に、咲季はスッと視界が冴え渡り暗闇の中にかすかに光る街灯を見て魅録の弱った姿を思い出す。
震える彼に対して何もできない自分。
こんな時に何もできないなんて、と自分の無力を感じる。
街灯の先に見える菊正宗病院の白い光に、咲季の脳内には清四郎の顔が浮かんだ。
「清四郎なら、どうするのかな…。」
何もできない自分とは違う、何でもできる彼なら。
無意識のうちに浮かんできたのは遠い記憶の中の自信に満ちた清四郎の顔。
咲季は不思議と抵抗なく携帯を取り出し、カジノ騒動の後に野梨子に教えられた連絡先の中から清四郎の番号を選択した。
“迷惑”という魅録の声が、発信ボタンを押した直後に脳裏に浮かんだ。
それでも、自分がいつでも助けを求めるのは彼しかいない。
その事実は紛れもなく、そんな自分に呆れながらも、冷たい携帯電話を耳に押し当てる。
何度かのコール音を聞いたが、一向に出る気配はない。
「…出ないか。なにこんなときだけ都合のいいこと…」
そう独り言をつぶやき、携帯電話を耳から外して電源ボタンを押そうとした。
ディスプレイが急に通話時間を示し、かすかに「もしもし?」と声が聞こえる。
少し上ずった幼馴染の声。
咲季は一気に心臓の鼓動が速くなったことに気づいた。
まさかつながるとは思わなかったのだ。
「あ、えと」
「咲季?」
「…清四郎、」
さきほどの上ずった声と違う、なだめるような優しい声で名前を呼ばれ、咲季はそれに呼応するように声の主の名前をつぶやいた。
「はい。」
なんだか少しうれしそうにも聞こえる清四郎の声に、咲季はくすぐったいような気持ちになる。
ざーっと隣の道路を車が通り抜け、吹き返す冷たい風に当てられるが、それさえも涼しく感じるほど顔が熱くなっていることに気づく。
「せいしろ、」
「今、外にいるんですか?」
「…?うん、家に入る前で…」
「エントランスに入ってください。行きます。」
「え?」
言うが早いか、電話はすぐに切れてしまった。
咲季はツーツーと電子音を鳴らし続ける携帯電話を耳から放して、たった数十秒の通話時間を示した画面を見つめる。
電源ボタンを押すと見慣れた待ち受け画面が表示された。
しばらく立ち尽くしたあと、流石に体温が下がってきた咲季は言われた通りにマンションのエントランスに入る。
暖かい暖色の照明に照らされたエントランスは暖房がきいており、あたたかい空気が体を包み込む。
はあ、と温かさに対する安堵の息を吐いて、じっくりみまわしたこともなかったエントランスの中をぐるりと見回した。
エントランスのど真ん中で突っ立っているわけにもいかず、咲季は少し壁際に寄って、野梨子のメールに書かれている有閑倶楽部の面々の連絡先を電話帳に登録する作業を始めた。
まもなくして、静かに自動ドアが開く音がし、かすかに冷たい風が入ってきた。
その風をまとうように息を切らした清四郎が入ってきた。
咲季は驚きとはまた別の鼓動が跳ねる音を感じ、さっと携帯を閉じた。
まともに二人きりになったのはいつ以来だろうか?
「咲季。」
息を切らしながら名前を呼ぶ彼の姿に、ここまで走ってきたことがうかがえる。
清四郎は普段から、自室でくつろぐときでも十分外に出られる格好しているらしいが、それでもいつもは一番上まで止めているボタンが外れてちらりと首元が見えるだけでも、いつもの彼と違う様相を表している。
「清四郎…なんでわざわざ」
「電話をくれたからです。しかもこんな時間に外にいるなんて…なにかあったかと思うでしょう。」
「……。」
「というか、まだ制服じゃないですか。今まで学校に?……いや、まずは座りましょう。」
清四郎にしては珍しく思ったことがすべて口をついて出ているのがおかしくて、咲季は心配されているとわかりつつも笑ってしまいそうになる。
そんな咲季の様子に面食らいつつも、安堵した清四郎はエントランスの端にある休憩スペースのベンチを勧めた。
素直に指示に従い咲季は席に着く。冷たいベンチの感触を感じ、咲季はさきほどまでのことが頭に過り表情が硬くなった。
白鹿邸の時のようなぎこちなさがなく、やけに素直な咲季に調子を乱されていた清四郎だったが、席に着いた彼女が床に視線を落として暗い表情を浮かべた様子に、なぜ自分に連絡をしたか、少しだけ悟った。自分も彼女の隣に座り、彼女の方に顔を向けて様子を窺う。
なんと切り出すか迷っていると、意外にも咲季の方から口を開いた。
「ここに来るまで早かったね。…走ってきたの?」
「はい。この距離で車を出すのは流石に。」
「確かに。電話したとき、何してたの…?」
咲季は何かが言いたいのだろうが、どう切り出したらいいのかがわからない様子で、会話が途切れることを恐れるように質問を繰り出す。
相変わらず視線は落とされていて、落ち着かないように両手をもんでいる。
「今日の事件について調べていました。魅録のお父さんも謹慎になりましたからね…。」
「え?そうなの…。」
「大きな事件が絡んでいるのかと。」
「そうなんだ…。」
清四郎は咲季の返答に対してあえて沈黙を選択し、窓の外から聞こえる車の通行音を聞きながら咲季を観察する。
しばらくすると、彼女は意を決したように口を開いた。
「私ね、さっきまで学校に残ってたんだ。新聞部が号外をとんでもないスピードで作ってさ…回収するのに一苦労だった。」
「まさか、そんなことになっていたんですか。」
「うん、でももう最後まで確認して全部取り払ったし、部長とも話をつけたから大丈夫。」
「色々と後処理をしてくれていたんですね。それで制服のまま…」
清四郎がねぎらいの言葉をかけようとしたが、咲季はまだなにか言いたいことがあるようで「でも…」と言葉をつづける。
その様子に言いかけた言葉を飲み込んで清四郎は次の言葉を待った。
「帰る前に魅録が生徒会室に来たのを見た。」
「え?」
「それでその…なんか、様子がおかしかった。」
「魅録が?学校に戻ってきてたんですか?」
思いがけない名前と状況に、流石の清四郎も柔らかな思考が鋭くなる。
警視庁から出た後、まっすぐ家に帰ったはずだ。その魅録がなぜ学校にいたのか。
答えを探るべく、咲季の話に耳を傾ける。
「すごく怯えてた…顔もケガしてたし。でも、何を聞いても教えてくれなかった。」
「…。」
「バレバレなんだよ。何もないとかいって、何もないならなんでケガしてるのって言いたかったけど、何も言えなかった…。」
せわしなく揉んでいた両手はいつの間にか微かに震えている。
その時のことを思い出していた咲季は、真っ暗な中でかすかに見えた写真や魅録の怯え様が脳裏に浮かび、何とも言えない恐怖や無力感に襲われていた。
一度堰を切ってしまうと言葉はとうとうとあふれ出し、咲季は静かに聞いてくれる清四郎に甘えるように言葉を続けた。
「自分は何も言わないくせに、一人になるな、とか言ってね、」
「魅録らしい、ですね。」
「おかしいって思った。なんか写真も持ってて、………穴が…。」
「穴?」
予想外の発言に清四郎は思わず咲季の言葉を遮った。
相変わらずうつむいたままの彼女の表情は読み取れず、ぎゅっと握りしめた小さなこぶしでしか彼女の感情を計り知れない。
「銃で…撃ちぬかれたみたいな……、清四郎…魅録は、危ない目にあったりしないよね?」
「…。」
思い浮かんだが否定したい気持ちが先行していた予想が的中し、清四郎は押し黙る。
やっと顔を上げた咲季は縋るような表情で清四郎を見上げた。
その表情を視線でとらえたかとおもうと、清四郎は正面を向いて手を顎にあて、何を考えていた。
思っていた以上に深刻な状況に対して真剣に思考を巡らせる清四郎に、咲季は自分の言葉を受け止めてもらえた感覚を抱き、少しだけ安心した。
魅録に何かあったら、あの写真に開いた穴がもしも次は魅録に向けられたら。
思考がまるで事実になったかのように恐怖をもたらすが、目の前にいる清四郎に吐き出すことで、一人で押しつぶされることはないという保証になって今の咲季を落ち着かせていた。
しばらくの沈黙の後、咲季はふいに頭に浮かんだ言葉を思うままに口にした。
「私…魅録の気持ち…わかる…。」
「…。」
「巻き込みたくないとか、迷惑かけたくないとか…。でも、初めてそれをされる側になって、すごく、不安になった。」
「咲季…。」
突然の独白に、咲季はまた視線を落とす。
考えを巡らせていた清四郎も咲季がいつしか自分自身の話をしていることに気づいてそちらに耳を傾けた。
「なんで頼ってくれないの?って………私さ、皆にもそう思わせていたのかな………だとしたら、すごく、申し訳なくて…。」
「……。」
「差し伸べてくれた手を拒むことは、拒まれたほうもつらいんだって…わかった…。だから…。」
次に続く言葉を言おうとすると、咲季は喉の奥がきゅっと締まって苦しくなった。
清四郎はその続きが容易に想像できたが、咲季が身体を少し斜めに向くようにしてこちらに向け、垂れていた頭をゆっくり上げる。
これから叱られるのを耐える子犬のような表情でこちらに視線を向け、小さな声でつぶやいた。
「…ごめんなさい。」
やはり予想通りの言葉ではあったが、咲季の口から直接聞くと清四郎の胸はぐっと苦しくなった。
謝るのは自分のほうだ、と言いたくなる苦しみは、おそらく罪悪感というものだ。
何も言わない清四郎に、咲季は弁解の言葉を必死に探していた。
おろおろし始める妙に素直な彼女が気になるが、それよりもこれ以上謝罪の言葉を言わせたくない清四郎は、相変わらず膝の上できつく組まれて赤くなった小さな手をそっと握った。
「え?」
突然の出来事に驚き、魅録と自分を重ねてぼんやりしていた頭の中が急に手の感触でいっぱいになる。
一気に体温が上がるのを感じ、乗せられた清四郎の手に視線を一度落として、すぐにまた清四郎の顔を見上げた。
清四郎は最初こそは乗せた自分の手を見つめているようだったが、そのうちすぐに咲季に目を向けたので、咲季はそこから逃げるようにまた手に視線を落とす。
落ち着かず目線を上下する咲季をみて清四郎は頬を綻ばせた。
「冷たい。」
「だ、だって…外にいたから…。」
ひんやりした小さな彼女の手について素直に感想を口にすると咲季は焦ったように言い返した。
ああ、愛しいな。
手の感触も、小ささも、ぎこちない反応も、何もかもが愛おしくて、清四郎は心に浮かんだ言葉をかみ殺して笑った。
清四郎が見たこともないような笑顔を見せるので、咲季の頭の中から知らず知らずのうちに先ほどまでの不安や恐怖が消えていた。
やや青ざめていた顔色にも赤みが差し、震えが止まり力の抜けたこぶしを確認して、清四郎は口を開いた。
「咲季、魅録のことはよくわかりました。教えてくれて、ありがとうございます。…なんとかしたいと思って僕に連絡してくれたんですよね?」
「うん…。」
「僕はそうやって咲季が頼ってくれたことがとても嬉しいんです。」
「え……?」
目を丸くして見つめる咲季の瞳がきらりと揺れて、清四郎は吸い込まれそうな気持になる。
自分を映す彼女の瞳さえ愛しくて、今度は清四郎も素直に言葉を続けた。
自分の言葉を待つ咲季の姿を目に焼き付けながら、脳裏に浮かぶ彼女の泣き顔や寂しそうな表情を塗り替えていく。
「確かに、拒まれて辛いと思った時もあります。でも…それだけのことを、僕はしてしまった。」
「そんなこと…。」
「それなのに、こうして僕の目の前にいて、僕の名前を呼んでくれた。…僕のことを、必要としてくれた。それがとてつもなく嬉しいんですよ。」
自然とこぼれる笑みを見て、咲季の瞳は大きく揺らいだ。
手だけではなく全身を包み込むような柔らかで優しい声で清四郎は言葉を紡ぐ。
泣きそうになるのをこらえながら咲季はゆっくり首を横に振る。
何かを否定するわけでもないが、清四郎の言葉は優しすぎて自分を責めることでしか抱えきれなかった咲季の心に深く響いていた。
「だから、もう謝らないで。……謝るのは僕の方だ。」
「清四郎…。」
自然と口をついて出た彼の名前に、咲季はぎゅっと胸が苦しくなるのを感じる。
今度はこの名前を呼ぶと、返事が返ってくる。
今まで宙に消えてしまったこの声も、今は居場所を見つけたかのように行き場を取り戻していた。
その証拠に、名前を呼ぶと自分の手を握る大きな温かい手に力が加わる。
この手が離れなかったらいいのに。
頭に過った素直な気持ちは、流石に飲み込んでしまった。
もしかしたら今の清四郎ならこの気持ちも受けとめてくれるかもしれないと思えたが、小さくて臆病な咲季にはその言葉を発する勇気までは沸き上がってこなかった。
「魅録のことは、明日みんなで何とかしましょう。放っておけませんからね。」
「うん。」
「さ、もうこんな時間です。今日は大変だったことですし、そろそろ休んでください。」
気を取り直すかのような清四郎の言葉に適当に返事をした咲季。
ちらりと時計に目をやって、清四郎は咲季の手から自分の手を離す。
ぼんやりとした頭の中で言われた言葉をそのまま受け止めていた咲季だったが、立ち上がろうと膝に手を置く清四郎を見て、咲季は目の前にあった清四郎のシャツの袖口をつまんでそれを遮った。
立ち上がろうとした清四郎だったが、思いもよらない衝撃に立ち上がるのをやめる。
驚きつつ袖口に目をやると、遠慮がちな指先が引き留めるように力を込めているのが見えた。
「…咲季?」
「…。」
無言のままじっと動かない咲季に、清四郎はそのまま動きを止める。
離れたくない。もっと隣にいてほしい。
咲季の頭には、普段なら思わないような、いや、思っていても抑え続けていた気持ちが制御を受けずに浮かんでいた。
しかし、しばしの空白の後にはっと我に返った咲季は慌ててその手を離した。
「ごめん、なんでもない!」
跳ねるように立ち上がった咲季に、清四郎は一瞬面食らったもののすぐに笑顔を浮かべて同じように立ち上がった。
「それは反則ですよ。」
そして小さくつぶやくと、清四郎は咲季の手をとって歩き出した。
握られた手に驚くが、歩き出す清四郎に連れられるように反対の手で鞄をもって共に歩き出す。置いていかれないように、その手が離れないように、咲季も手を握り返した。
振り払われるどころか握り返されたその手の反応に、清四郎は咲季をそのまま帰したくない気持ちが沸き上がるが、極力平静を装ってエントランスの先にあるエレベータホールまで歩いて上向き矢印を押した。
遅い時間ということもあり、利用者が少ないエレベータはすぐに1階に降りてきた。
到着を知らせる音が鳴って、重々しいドアが開く。
それを合図に清四郎の手の力も抜け、咲季も自然に手を放して乗り込んだ。
「では、また明日。…おやすみなさい。」
「お、おやすみ…。」
ぎこちない咲季の挨拶と同時に扉が閉まる。
エントランスと違った冷たい冷気が流れる箱の中で、咲季はしばらくそのまま立ち尽くして重力に反する感覚を感じていた。
***
翌日、登校してみると魅録の事件は瞬く間に生徒中に知れ渡っていた。
それもそのはず、校内新聞はなくなったとしても昨夜のニュースはその話題で持ちきりだったのだ。そのうえ父親である警視総監まで謹慎処分になったというのだから、今や学校だけでなく日本中の話題となっていた。
相変わらずあることないことをべらべらと話す有名コメンテーターの顔が思い出されると、何とも言えない不快な感覚に襲われた。
学校存続の危機という噂はかすかに立っていたが、そんなものはあっという間になくなっていた。
本日は緊急理事会が開かれるということが担任から告げられ、場合によってはしばらくの間休校になるかもしれないというお達しが出る。
マスコミ対策なのだろうか、校内で知りえた情報をむやみやたらに発信しないように釘を刺された。
教師たちも理事会の様子が気になるのか、なんとなく締まりのない授業を受ける。
大人しく授業に出席していた咲季も最初の数時間の授業を受けた後、いてもたってもいられなくなって教室を出た。
「行ってみるか…。」
以前は抵抗のあった生徒会室への階段も、今や焦りと不安のほうが勝り上りきることができた。
それでも扉が近づくと、自分がこんなところでなにをしているのかという思いが沸き上がって足が重たくなる。
弾丸で穴が開いた扉を見て、昨夜の魅録のことがちらつく。
写真を見たときの形容しがたい悪寒が背筋を走り、すっかり足が止まってしまったところで、背後から大きく声をかけられた。
「高天原くん、ここで何をしているんですか?」
「今は授業中のはずですよ!」
そこには校長と教頭の姿があった。
手には何か紙のようなものをもっているが、何かの処分を言い渡すためのものだろうということは容易に想像できた。
生徒会室までやってきたということは、魅録に対するものであるということも咲季の頭に簡単に浮かんだ。
「理事会は、終了したんですか?」
「ええ。処分も決定しました。さあ、高天原くんももう教室に戻ってください。授業中なのですよ。」
校長の声が聞こえたのか、生徒会室のドアが勝手に開く。
顔を出したのは可憐と野梨子で、大きな目を左右させて人物を確認した。
咲季の姿を視認すると大きな目はさらに丸くなった。
「…入りますよ。」
いつになく真剣な表情で入室しようとする校長に、可憐も何も言わずに抵抗せずドアをあけ放った。
続いて教頭が入室する。そして、咲季もその後ろについていった。
驚く教頭を尻目に、そのまま生徒会室に入った。
そこにはいつものメンバーがそろっている。
咲季の姿をみて一番驚いていたのは魅録だったが、そのあとすぐに視線をそらした。
「理事会で君たちの処分が決定しました。校長どうぞ。」
そう言って手に持っていた紙を広げる。
自宅謹慎、と書かれたその紙を見て、やはり最初に食って掛かったのは悠理だった。
「本日より生徒会役員は自宅謹慎になりました。妙なことを考えずに速やかに帰宅し、自宅で反省なさい。」
「なんだって!?なんであたいらが…!」
「そうよ!何にも悪いことしてないのに!」
言葉にしたのは二人だけだったが、他の面々も不服な様子だった。
もちろんついてきた咲季もどういう経緯でこうなったのか、納得がいかない。
ざわつく部屋の中で魅録だけが静かにその文字を見つめて黙っている。
「反論しないんですか、魅録?」
水を打ったように静まり返る部屋の中で、視線は魅録に注がれる。
なにやら不穏な雰囲気の両者だが、魅録は一転を見つめた後にゆっくりと口を開いた。
「なんで?」
「何も悪いことをしたつもりがないのであれば、真っ先に反論するはずですが。」
「…だから、悪い奴らのことはさっさと警察が何とかしてくれるだろ。俺たちは大人しくしてればいいんだ。」
「魅録…。」
「退学になんないだけマシだろ。…んな熱くなんなって。」
一見なだめるような口ぶりだが、どこか投げやりな言葉を吐いて手に持っていたギターを置き立ち上がる。
妙に聞き分けのいい彼に校長や教頭は驚きつつも素直な賞賛を示した。
相変わらず納得のいかない他の面々は鋭い目つきで他者を突き放す魅録の態度に苛立ちを隠せない。
清四郎だけは呆れたような視線を向けて去り行こうとする魅録の背中を見ていた。
通り過ぎようとする魅録を引き留めるかのように、咲季はおもわず口を開く。
「生徒会役員は自宅謹慎ですか?」
「…高天原くん、教室に戻るように言ったはずですよ。今度は君がわがままを言うんですか。」
「本当に自宅謹慎なんですね?」
「何度も言わせないでください。有閑倶楽部のメンバーである生徒会役員は全員自宅謹慎です!」
「では、私も自宅に戻らないといけません。」
「はい?」
言質をとった咲季はなぜか自信満々にそう返答する。
その予想外の言葉に校長は間の抜けた声を出した。
驚いたのは校長と教頭だけではない。その場にいたすべての人間が、彼女の言い放った言葉に目を丸くした。
それは、今まさに部屋を出ていこうとしていた魅録でさえ同じであったため、彼もまた足を止め目を丸くして咲季のほうに振り返った。
「私も生徒会役員ですよ。」
「ええ、いや、そうですけどもね…、」
「例にもれず、私もこの処分を受けることになるのでは?」
「しかし…」
「何か間違ったことを言っていますか?」
なぜか頑なな彼女に満足な返答を言い渡せずたじろぐ校長たちだったが、有閑倶楽部の面々には咲季がなぜそのようなことを言ったのか、その理由に見当がつかなかった。
その様子をしばらく見ていた魅録が、間に割って入る。
「そうだな…。咲季も生徒会役員だし、本人がそういうなら自宅謹慎でいいんじゃねえの。」
「魅録、」
野梨子が彼の言葉を遮るように声を上げたが、魅録はその制止の意味を込めた声を無視して話を続ける。
校長たちに対峙していた咲季も魅録の方に目を向けた。
「いいじゃんそれで。大人しくしてようぜ?こんな事件、何があるかわかんねーし。……もちろん俺は何もしてない。みんな巻き込まれただけだ。でも、だとしたらさ、」
「…。」
「この学園にいることのほうが危ないと思う。」
先ほどまでのあしらうような言葉ではなく、心からの言葉に全員が押し黙ってその言葉の意味を考えていた。
この学園の中で起こった事件によって、自分たちが危機にさらされていることはすでに明白である。
「それは確かにそうかもしれないけど…。」
「現に美童、お前、もしかしたら死んでたかもしれないんだぜ?」
「…。」
「お前らだって巻き込まれるかもしんねーだろ。」
「でも魅録!!お前はこのままで納得いくのかよ!」
しびれを切らした悠理が魅録に食って掛かった。
なんだかまとまらなさそうな雰囲気を感じ取ったのか、校長と教頭は視線を合わせて何かを示し合わせると突然口を開いた。
「とにかく!!君たちは午後から自宅謹慎です!わかりましたね!」
そう言い捨てて部屋を去ろうとする二人に咲季が詰め寄ろうとすると「勝手になさい!」とうんざりした口ぶりで言葉が降ってきた。
バタン!という大きな音を立てて生徒会室のドアが閉まる。
一瞬の静けさの後、その空気を重く塗り替えるように魅録のため息が響いた。
「今回のことはどう考えても普通じゃねえだろ。」
「そうですね。」
頭を掻いてそう吐き捨てる魅録に、清四郎は落ち着いて返事をする。
静かな部屋の中で全員の視線は一斉に魅録に注がれており、ここ数分の彼の挙動に対する不信感や心配にも似た感情が渦巻く。
「だから、家で大人しくしてたほうがいいって俺は思うんだけど。」
「そうですか。」
「………なんだよ。」
「いえ。」
「なんでそんなにつっかかってくんの?」
さすがの魅録も、一見流しているように見えて探りを入れるような清四郎の返答に苛立ったのか、くるりと振り返って清四郎の方を見据えた。
鋭い眼光が清四郎に向けられるが、清四郎は涼しい顔をしてその視線を受け止める。
「そんなつもりはありませんが…。」
「…そうかよ。」
「ただ、あんな不当な処分を素直に受け入れるなんて、いつもの魅録らしくないと思っただけですよ。」
「…………あっそ。でも、俺は引き際をわきまえてるつもりだから。」
魅録はそう言って話を無理やり終わらせるように言い、またドアの方に向き直った。
部屋を出ていこうとする魅録の背中に誰もが何も言えないままの時、咲季が戸惑いながらも声を上げる。
「ねえ、」
「…何?まだ、なんかあんの…?」
その声の主がすぐにわかった魅録は立ち止まったものの、顔だけ横に向けて咲季の方に横眼だけを向けた。
余計なことは言うな、ときつく命令されているような気分になりながらも、咲季は言葉を続ける。
さすがの魅録も咲季に声をかけられるとそのまま無視をすることはできず、素直に対応した。
「本当に?……本当に、引き際だと思ってるの?」
「…ああ。これ以上危ない目にあいたくないだろ。お前らだって。」
「そうだね、皆も誰かが傷つくようなことは、もう嫌なはずだよ。」
咲季と魅録の脳裏には、確かに昨夜のやり取りが存在していた。
しかし、魅録の頭の中には差し出された仲間の命がかかっている。
そしてそれをここで吐き出せないままの彼は、咲季のその言葉が自分の気持ちだと声を上げたくなった。
わかってくれ。そう目で訴えることしかできない。
「…ああ、そうだな。」
「魅録が傷つくのだって、嫌だと思うよ…。」
「………。」
咲季が昨夜の話をしているということを察した魅録は、ふと後ろにいる他のメンバーを見る。
その言葉に同意するように頷く悠理や可憐、そしてじっと視線を向ける野梨子と美童。
何かを考えているのか、ちらりと視線を向けたかと思うとまたテーブルに落とす清四郎。
そして、何かを訴えようとしている咲季。
「…そうかよ。」
魅録は一言そう呟くと、足早に部屋を去っていった。
彼女の言葉が彼に届いたかは定かではないが、ゆっくり閉まる弾痕の残るドアを見つめて咲季はただ立ち尽くした。
ドアの閉まる音がすると同時に、全員が緊張から解き放たれ少しの開放感を持った。
ふうと息を吐いた野梨子はすぐさま咲季に駆け寄る。
そっと肩を抱いて優しく声をかけた。他の面々も二人のやり取りをみつめる。
「本当に自宅謹慎するつもりですの…?」
「うん。」
「理事会の処分は私たち6人に対するものですわ。…咲季の成績に傷がついたら、留学のことは…。」
「別に大丈夫だよ。」
野梨子は自分の今後のことまで考えてくれているようだったが、咲季にとっては今はそれはどうでもよいことにも思えた。
咲季は去っていった魅録の背中がどうにも自分と重ねて見えて、それが頭を離れなかったのだ。
ついこの間自分がこの部屋を去るときのような、勝手にすべてを決めつけて、自ら距離を取り、自分や他人を守るともっともらしい理由を作って行動し続ける姿。
それを続けることがどれだけ心をすり減らし、孤独を味わうことになるか、自分はよく知っている。
そしてその行動は相手を守っているようで、実は突き放しているだけであるということも、咲季はよくわかっていた。
「…私、皆に謝らないといけなかったんだよね。」
「え?」
「カジノで…助けてもらったことのお礼も言えてない。クリスマスパーティーに誘ってくれたよね?それも本当はとても嬉しかった。」
「咲季…。」
不思議と涙は出ない。
自分の言葉を聴いてくれる5人に寄りかかれる安心感を胸に、咲季は素直に言葉を続けた。
言いたい言葉を飲み込まなくていい、ただそれだけでこんなにも気持ちは軽くなるのだと実感する。
「色んな事を言えないままにしておくところだった…。………本当に、ごめんなさい。すごく子供だったね…。」
「…。」
「それと…、うわっ!!」
そこまで口にしたところで何かが自分に突然覆いかぶさる。
驚いた咲季の目の前にはくるくると四方にうねる髪の毛。
猫のような柔らかさを持ったその髪の毛が鼻先をくすぐったかと思うと、反対の耳から「うううう」とうなり声が聞こえる。
「もういい!!ここに、帰ってきてくれただけでいい!!」
「悠理…。」
「あたいらもごめん!謝りたかったんだ!ずっと…っ!」
ずるずると鼻水をすする音が聞こえ、それに混じるようにごめんを繰り返して震える悠理はまるで小さな子供のように今にも声をあげて泣きだしそうだった。
悠理の髪の毛の向こうに見える皆の顔も泣きそうで、うんうんと頷く美童と可憐はうっすら涙を浮かべている。
清四郎と野梨子は穏やかな表情でそれを見つめていて、清四郎と目が合うと、より一層優しく微笑むので、恥ずかしくなって目をそらすように悠理の方に視線を向けた。
「ごめんな…っ……帰ってきてくれて、あんがと……!」
「あはは…一緒だ…。」
「うえええん!」
泣きじゃくる悠理に思わず笑ってしまい、咲季はぽんぽんと悠理の背中を叩いた。
ありがとう、は私が言おうとしたのに。
そう思いながら昨夜魅録にしたのと同じようにそれ以上何も言わずに悠理をなだめた。
皆もクスクスと笑いだす。
「もー泣きすぎだよ悠理!」
「だってえ!」
「泣くほどうれしいのよね!」
「あはは。」
はしゃぐ4人を見て野梨子は心底安心していた。
自分でも自覚はなかったが、彼女への罪悪感がずっと心に重くのしかかっていたのだろうか、心の中の何かがすっと消えていくのを感じた。
悠理に抱き着かれ、美童と可憐にも笑いかける幼馴染の自然な表情に、ずっと暗闇がかかっていた重たい空気は感じられない。
数日前に「わかんない」と呟いていた一瞬の瞳はもうどこにもないように感じられた。
戻ってきたのね。
そう思うと野梨子も感慨深い気持ちが胸を満たすように思えた。
隣にいるもう一人の幼馴染を見ると、輪の中にいる彼女を見たこともない優しい視線で見守っていた。
そんな顔もできるのね、と感心していると、彼は視線を床に落とし、ぐっと唇を結んだと思うと言葉を発した。
「帰り支度をしましょう。」
「え?」
「我々は自宅謹慎ですからねぇ……学園は早々に対処して、どこかで作戦でも練りませんか?」
「おお…!」
躍起な清四郎の言葉に悠理は咲季から離れて目をキラキラさせる。
何かを企む挑戦的な視線がぱちりと咲季に向けられ、咲季は昨夜の体温を思い出して鼓動が跳ねるが、作戦という言葉を聴いてすぐさま我に返った。
「そう、だね…魅録が大人しくしているとは思えない。」
「私も同感ですわ。」
「魅録のことです。自分の情報網を使って事件の裏を探っているはずですよ。」
二人の言葉に全員が頷き、魅録の動向を追う必要性を共有する。
悠理は「じゃあうちに集合な!」と声をあげ、咲季に笑いかけた。
咲季はそこでハッと気づき、急いで部屋を出ようとした。
「咲季どこいくんだよ!」
「荷物とってくる!」
そう言うが早いか、咲季は部屋を出ていった。
一瞬呆気にとられた残りの5人だったが、彼女の軽やかな足取りに美童がフフッと笑い、それにつられて全員が笑いだす。
どうやら彼女は本当に、ここに戻ってきたようだ。
咲季はというと、廊下に出て授業中であることを思い出し、足音に気を付けながら早歩きで教室に向かう。
言いたかった謝罪と感謝を少しだけ言葉にできて、少し心が軽くなった。
取り繕った笑顔では筋肉全部が使えないのかも、と違和感を感じる自分の頬に触れる。
教室にたどり着き、ドアを開けると教室内は少しどよめいた。
授業をしていた古典の先生も、驚きつつ咲季に声をかける。
「高天原さん、遅いじゃないの。どうかしたの?」
「先生、申し訳ありませんが自宅謹慎になりましたので帰ります。」
「はい?」
その言葉を聴いた教室中がさらにどよめき、咲季はその中を闊歩して自分の荷物を取る。隣の席の友人が「どうして謹慎なのに嬉しそうなのよ」問うが、咲季はそれに対して「ん?」ととぼけて教室を出ていった。