7章
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翌日、いつものように机に並べられた食べ物は一向に減る気配がなかった。
心配そうに可憐が視線を送った先には、うなだれた悠理の姿がある。
数学の小テストで100点を取って以降、見知らぬ幽霊に取りつかれたという悠理は食事を一切取ることができなくなっていた。
かろうじて経管での栄養摂取はできることが確認でき、菊正宗病院の医師が朝方剣菱家を訪れ栄養剤を点滴で摂取させた。
どうやらその”幽霊”――飛良泉少年という――は緑川に相当な恨みを持っているらしく、悠理の身体を介してそれを訴えてきた。取りつかれた彼女を目の当たりにした有閑倶楽部の面々も、悠理の言葉が嘘ではないことを確信する。
とはいえ、飛良泉少年を視覚的にとらえられるのは悠理だけであり、いまだに詳しい事実がわからないまま、悠理が明らかに弱っていくのを見ていることしかできない状態であった。
状況は変わらず、いつものように悠理宛てに届いた食事はまったく手を付けられておらず、円卓だけでなく別の机の上にも食べ物が広がっている状態である。
「ていうか毎朝こんなに食べてたことが驚きなんだけど…」
「全くですわね。」
山分けしようにも他の5人では到底処理しきれない量だ。
魅録と野梨子が呆気に取られている中、清四郎は現在の悠理の状況だけでなく、昨夜の咲季との会話を反すうしていた。
「悠理が100点を取った理由、は間違いなく飛良泉少年でしょうしね…」
「清四郎?」
「あ、いえ、……何をやっているんですか?」
美童と可憐がせっせと何かをしているかと思えば、円卓の一角が片づけられ、今朝女子生徒が持ってきた「バラエティーまん3種」が並べられていた。
試してみなきゃわからない!と意気込む美童と可憐に、ふたりが悠理に食べ物を摂取させようとしているのがうかがえる。
これで食べれるのであれば問題ないが、清四郎はそれに望みをかけず、悠理の点数、咲季、緑川の関係について推理を続けた。
***
曇り空のなか、残りは午後の授業を残したところで咲季は昨日の疲労が残っていることに気が付いた。
慣れないことをすると肉体も脳も疲れるようで、いつもの変わりない授業をただ座って聞くという行為がかなり疲労感を増悪させていた。
今日は早く帰ってねよう、と考えていたが今日もあのカジノでのバイトが入っている。
馬鹿正直に従う必要はないと言われてしまえばそれまでなのだが、自分だけでなく悠理のこともある。
それに、緑川自身の弱みを握っている状態で引き下がるのも悔しいものがあった。
「なかなか気分の悪い状況だよね…」
昨夜は野梨子と清四郎に尋ねられたが多くを語ることができず、助けを求めることも難しいことがわかった。
ただ、悠理が100点を取ったことが事実であること、それがまともな手では無いことは2人の表情から明らかだった。
問題は、その手段なのだが。
「高天原。」
「…緑川先生。」
考え事をしながら歩いていると、前方から会いたくない人物の声が聞こえた。
咲季は立ち止まって緑川の表情をうかがう。
本性を知ってしまうと普段以上に気分の悪くなる笑みだ。咲季はそのまま歩み寄ってくる緑川に対して毅然とした態度で迎えた。
「ママはお前を気に入ったそうだ。」
「そうですか…それは、よかったです。」
「フン、随分開き直ったものだな。……やはりお前も生徒会の一員、ということか?」
耳元で話す緑川の言葉とククッという笑い声に若干の嫌悪を感じつつ、振り切るように歩き出す。
緑川も隣に並んで言葉をつづけた。
「…とにかく、お前は私の言うとおりにしろ。」
「…。」
「さもなければ退学だ。お前も、…剣菱もな」
結局はあの校長たちと同じことを言っているのだから面白いものだ。
目障りなものは消すのが一番楽というのはわかるが、こうまであからさまにされると反応に困ってしまう。
はあ、とはきだしたくなる溜息を抑えて歩くスピードを上げたところで、後ろからパタパタと足音が聞こえる。
明らかにこちらに向かってくるので、訝しく思い振り向くと、白い花瓶を振り上げた悠理がこちらに向かって走ってきた。
「ゆ、悠理!?」
「剣菱お前何を!」
ズキンと頭に鈍痛が走り、咲季はその場に立ち尽くす。
頭を押さえてその場に座り込みそうになるのを抑えると、悠理は自分の前を通り過ぎて逃げる緑川を追いかけようとした。
視点の合わない悠理の目線は咲季に一瞥もくれることはなく、彼女の様子が普通ではないことが一瞬で咲季にもわかった。
「待て悠理っ…!」
道の端から魅録と美童が現れ、悠理を捕らえ花瓶を奪い取る。
ぐっと頭痛が激しくなると同時に、大事にならなかったことの安心感から、咲季はその場にへたり込んだ。
頭を押さえながら前髪の隙間で悠理を見ると、魅録の制止を必死で振り切ろうともがき視線は緑川にしか注がれておらず、不気味ささえ感じる。
「今度こんな真似をしたら…補修どころじゃ済まないからな!」
「…」
緑川の挑発にもとれる捨て台詞にも微塵も反応せずにもがく悠理。
その姿に緑川は同じように不気味さを感じたのか、そこで押し黙り座り込む咲季の方に歩み寄る。
もがく悠理に咲季も言葉を失っていた。突如魅録が「出てけ!」と大声で怒鳴り悠理の後頭部を殴る。鈍い音がしたかと思うと、悠理の目には生気が戻り、激しい頭痛がやわらいだ。
必死で声を振り絞り、咲季は立ち上がって悠理に声をかける。
「悠理…大丈夫…?」
「まさか、これもお前が指図したんじゃないのか?」
歩み寄ろうとした咲季の足を止めるように緑川が口を開く。
吐き捨てられた小さな言葉に、咲季はハッと緑川を見た。
歪んだ口元に侮蔑するような視線を湛えて自分を見る緑川に反論しようにも、続く頭痛とこの状況に咲季は何も言えず、ただ緑川を睨み返すしかできなかった。
「…行くぞ」
緑川は咲季にそう告げ、踵を返して歩き出す。
このまま一緒にいれば、先ほどの緑川の言葉を肯定することになる。そう考えた咲季は心配そうに悠理を見つめた後、申し訳なさそうにその場を後にした。
足取りもおぼつかない悠理を支えながら部屋に戻り5人はこの状況では悠長にしていられないことを察していた。
このまま放置しいていれば、食事をとれず悠理が倒れるか、緑川への恨みのもとに飛良泉少年に操られた悠理が緑川を襲うかのどちらかだ。
「なんとかしないと…。」
魅録がつぶやき、先ほどの抵抗する悠理の力の強さを思いだす。
確かに馬鹿力な悠理だが、食事をとっていない状態であれだけの体力があったのは、明らかに悠理本人の力だけではなく飛良泉少年の思いの強さが加わっているのだろう。
次に同じことが起きてとめられるか、そう思うとさらに不安を駆り立てる。
そう感じているのは自分だけではないようで、可憐がわめく声が聞こえ、自分にも言い聞かせるように可憐を黙らせた。
「咲季の様子も変だった…」
小さくつぶやいた美童の言葉を聴きとった野梨子は、え?と美童の方を向き直る。
美童は花瓶を受け取った後、頭を押さえてその場に座り込む咲季の様子を見ていた。
緑川に何かを言われ、申し訳なさそうにこちらを見てから去っていく彼女の様子が妙に頭に残っていたのだ。
「咲季が、どうかしましたの?」
「緑川と一緒にいたんだ。そこに悠理が走って行って………そうか、幽霊が…」
「美童?」
美童がぶつぶつ言うので清四郎もその様子に気が付き美童に問いかける。
彼の脳裏には、以前悠理に老婦人が乗りうつったときの光景が浮かんでいた。頭痛で頭を押さえていたあの時、彼女は悠理までとは言わないが、自分たちよりも霊感があるのかもしれない。
飛良泉少年が悠理にとりついているとき、彼女もまた彼を感じて頭痛が起こるのだろう。
「幽霊、飛良泉少年が悠理に乗り移っているとき、咲季も頭を押さえていたんだ。きっと頭痛がしたんだろうね。」
「ああ…なるほど、それであそこに座り込んだのか。」
「えっ、咲季、また緑川と一緒にいたの?」
「うん、悠理から飛良泉少年が出ていったあと、緑川と一緒に歩いて行った。…申し訳なさそうにしてて、…なにも悪いことしてないのに…。」
美童がそう言葉をつづけると、全員が咲季の行動に疑問を感じていた。
なぜああまでして緑川の言うことを聞いているのか。
そして、昨夜話していた咲季の言葉がもう一度脳裏によぎった清四郎は、悠理だけでなく咲季も緑川の陰謀に巻き込まれているのでは、という不安を感じる。
「緑川の秘密…ですか。」
「清四郎。」
清四郎のつぶやきに、野梨子が反応する。
おそらく飛良泉少年は緑川の陰謀の被害者であり、そのせいでここまで恨みを持っていると推測できる。
そして咲季は偶然にもその陰謀を知り、それをばらさないように監視をされているのだろう。
「一刻も早く緑川と飛良泉少年の関係を調べましょう。…そこに答えがあるはずです。」
疑問なのはその陰謀が何かということと、何故咲季がそれをこちらに伝えられないのか、ということだ。
昨日の時点でそれを教えてくれればなんとかできたかもしれないというのに。
言えない理由を考えれば、まず第一に思いつくのは咲季も弱みを握られているか、もしくは脅されているかだろう。
昔からトラブル体質の咲季だ。何かに巻き込まれているという予想はあながち間違いではないだろう。
清四郎はいくつかの予想を立てながら、他の4人に作戦を伝える。
午後の授業が終わるチャイムが鳴り響いた。
***
曇り空はすっきり晴れ、夕暮れのオレンジが映える。
帰り道を歩く緑川の後ろに、サングラスとマフラーで顔を隠し逆に目立っている二人の男女が隠れていた。
緑川の情報を少しでもつかむため、美童と可憐は学校外での緑川の行動を尾行する役割になっていた。
その間に魅録は緑川の家に侵入し、清四郎と野梨子は学校内での情報収集を行うことになっている。
少しの動きでも見逃さないよう緑川を追いかけていく。
彼は学園まで歩いて出勤しているのか、そのままずんずんと大通りへ出ていく。
緑川にとっては歩きなれた道だろうが、美童と可憐にとっては初めての道だったため、ついていくのにも一苦労だ。
しかし、だんだんとついていくのに苦労する理由がわかってくる。
「ね、これ…どこに向かってんの…?」
「家ではないことは確かだね…。」
最初に聴いていた緑川の住所とは全く違うところに進んでいくこともおかしいが、彼が歩いていく道はどんどんその雰囲気が妖しげなものに変わっていく。
それは普段自分たちが存在は知っているが近づかないような、金と色恋が渦巻く妖しいネオン街へと続く道だった。
「ちょっとちょっと…これ、制服で来ちゃまずいやつじゃないの…?」
可憐はそう呟き、美童も心の中で同意した。
人ごみは人込みでも、その人ごみを構成する人間が、先ほどの大通りとは明らかに違っていた。
暗がりで見えないことが幸いし、サングラスを外すが目的地が決まっているのだろう、緑川の歩調は変わらず人を縫っていく。
しばらくすると、有名な高級クラブにたどり着いた。
IDチェックのための列をなしており、その中にはテレビで見たこともあるモデルや、先日自宅で開かれた食事会にきた人物もいた。
ID自体はすぐに作成できるだろうが、今の自分たちは制服のためそこには入れない。
美童は魅録に連絡し、これ以上の尾行が不可能なことを伝える。
「こっち、裏口とかないかな?」
可憐が電話を終えた美童に提案し、入り口をくぐっていく緑川を撮影したところで店の裏口に回った。
裏の路地にはゴミ箱が並んでおり、すぐ横を見ると隣の建物の裏口の扉があった。
暗がりでよく見えないが、しばらく進めば先ほどのクラブの勝手口もあるだろうと踏んだ二人はその先へ進んでいく。
「うへえ、真っ暗だね。」
「ていうか入れたとしてもどうしたらいいのかしら…。」
そう話しながら恐る恐る進んでいくとがちゃ、と音がして勝手口が開いた。
暗い路地裏に白い蛍光灯の光が漏れ、逆光でよく見えないがバーテンダーが姿を現す。
ビンのたくさん入ったごみ袋を持ち上げ、ドアを自分の体で支えながら路地裏に置いた。
特徴的な金色の名札がきらりと光り、それが先ほどのクラブの店員だとわかった二人はそこに近づいていく。
体つきから考えると女性だろうか?アップにした髪と胸のふくらみに、自然と美童が少し足を早めてその女性に近づいた。
「あの」
「え、美童?」
「…え?」
逆光で顔が見えず何もわからないまま声をかけたが、それよりも先に自分の名前を呼ばれて美童は不覚にもドキッとする。まずい、そうおもったが、隣にいた可憐があっけにとられた顔で指をさす。
「咲季……!なんで、ここ、」
「あっ、可憐…!いや、なんでって…ていうか、二人こそなんで」
「え、いやちょっとね、ははは……」
可憐がごまかそうとするが、美童はそのまま咲季に詰め寄った。
その勢いに気おされながら、咲季は美童の方を見る。
「悠理、今大変なんだ。ご飯が食べられないんだよ。」
「なんで?食べられない?」
「幽霊のせいなんだ!咲季も感じなかった?男の子の霊が…」
そう言いかけたところで、白い光の奥から「おーい」と声がした。咲季はハッと目を開き、「今行きます」と返事をする。ごめん、と簡単に謝罪の言葉を述べると咲季はドアノブをもって二人を振り切るように建物の中に入った。
入っていったのは明らかにクラブの中。来ていたのはクラブの制服だろう。名札にクラブ名が彫ってあったのを可憐は見逃さなかった。
最近何かと緑川と関わりのある咲季が、緑川の入っていったクラブの中で働いているとは。
緑川の情報を得るつもりがとんでもない情報をつかんでしまい、可憐と美童は顔を見合わせて同時に同じ疑問を抱いた。
「このこと、清四郎には…」
「言ったほうが、いいわよね…」
一方の咲季はガチャンとドアを閉めた後、高鳴る鼓動を抑えることに必死だった。
どうしよう。ばれてしまった。あの二人が清四郎たちに黙っていてくれるはずがない。
口止めをしようにも、有閑倶楽部では野梨子の連絡先しか知らないことを思い出しさらに絶望する。
声をかけてくれた先輩バーテンダーはドアの前に立ったままの咲季を見てさらに声をかけた。
言われるがままにカウンターに戻り、落ち着きを取り戻すべく深呼吸をする。
今日も飽きずにポーカーで一喜一憂する教師の姿を見ていると、スッと冷静になれるのだから面白いものだ。
「幽霊……?」
頭が落ち着いてくると咲季はさっきの美童の言葉が思い浮かんだ。
そういえば以前、美童に恋をした老人の霊が悠理に取りついたことがあったが、その時も耐え難い頭痛に襲われた。
今日の花瓶事件のときに感じた頭の痛みは、言われてみればそれに近く、悠理の生気が戻ったと同時にその痛みが治まったことを思い出す。
だとしたら、今悠理には何か幽霊が取りついているということだろうか?
「幽霊ね…悠理もさすがだな…」
そう呟いてから、はたと気づく。そういえば数日前に悠理が叫びながら校舎を走り抜けたことがなかっただろうか。あたいらだけだよな?と意味不明なことを言っていた気がする。
まさかあの時、幽霊に出会ったというのか?
「食べられないとかいうのもその幽霊のせいだって言ってたけど…。」
本当に食べられないのだとしたら、それは普通の人間であっても栄養失調になって死んでしまう。
なにか力になれることはあるかと考えたところで、緑川の笑い声が響いた。
大きな役が当たったのだろう。その人間らしさを前面に出した姿に辟易しながら、咲季は緑川に冷たい視線を送った。
***
翌日、全員の情報をまとめるために生徒会室には5人が集まっていた。
ホワイトボードには情報がまとめられ、状況を一度確認したところで魅録が部下に撮影させたクラブの写真を取り出す。
美童と可憐は目を合わせ、それぞれが渡された写真を見る。
「…これはひどいですね。」
清四郎がそう呟くのが聞こえ、可憐は渡された写真の束を見ながら狂ったように笑う緑川の写真を見て悪寒が走った。
二枚目の写真をみたところで、緑川のいるカウンターの奥に、昨夜見かけた咲季の姿が映っているのを見つける。
このあとどうなるのかわからず一瞬躊躇するが、彼女が自分からここで働いている可能性は低い。
そう考え、意を決して写真を他の4人に見えるように置いた。
「これ、ここのカウンター。…咲季がいる。」
「えっ?」
そういわれ、魅録は身を乗り出して写真を見た。
普段と違う髪型だが、それは間違いなく咲季だった。
魅録は手元にある他の写真から、カウンターの映っている写真を数枚出し、テーブルに置く。
「実は昨日、偶然咲季に会ったんだ。」
「入れないってわかって、裏口の方に回ったの。そしたら中から咲季が出てきてね。このバーテンダーの格好して、ゴミ出ししてた。」
「話しできそうだったんだけど中から呼ばれてできなかったんだ。……ここで働いてたんだね。」
野梨子と清四郎は顔を見合わせ、先日帰りが遅くなり話を聞いたときのことを思い出す。
緑川の手伝い、とはおそらくこのことで、緑川の秘密とはこのカジノ通いのことだろう。
思った以上の巻き込まれ具合に、思わず野梨子ははあ、とため息をつく。
清四郎はというと少しずつ状況が整理され、いくつか考えていた推理がつながっていくのを感じる。
「飛良泉少年の成績は優秀で、この学園の試験に落ちるような成績ではない。にもかかわらず、入学試験に失敗した。…実際にこのことは不可解です。」
「ああ。間違いなく成績は良かった、試験でミスをしたとしても落ちることはまずねえよな。」
「そんな彼が恨みを抱いているのは、借金を抱え金が必要なこの学校の権力者。…このことから導き出されるのは、」
「…裏口入学、か。」
魅録が小さく答えると、清四郎は指示棒を円卓に置き、はい、と返事をする。
ほかの3人も事の大きさに驚きつつ、緑川の卑劣な行いに憤りを感じ、無念のままに人生を終えた飛良泉少年を哀れに思う気持ちがわいていた。
「で、もう一つ。咲季のことですが…。」
「それは、おそらくその秘密を咲季が知ってしまったということでは?」
「最も可能性が高いのはそれですね。その秘密を知った咲季を監視するために、わざと手伝いをさせてそばに置いたんでしょう。」
「許せませんわ…。」
次々に暴かれていく緑川と咲季の事態に、全員が緑川への嫌悪を感じていた。
しかし、一つだけ疑問がある。それは、この状況をなぜ誰にも話せないまま緑川にしたがっているのかということだ。
彼女にとってはこの間、白鹿邸での状況でこのことを伝えることができたはずだ。
「でも、どうしてあの時いってくれなかったのかしら…。」
「………まさか。」
「え?清四郎、まだ何かあるの?」
野梨子のつぶやきで、あの夜の咲季の話を思い出していたところで、清四郎はある一つの仮説にたどり着く。
美童が清四郎に尋ねると、清四郎は顎に手をやり思考を巡らせながら語り始めた。
「悠理が100点を取った日、咲季が荷物を置いて学園を出ていきました。友人の話では、緑川に呼ばれたと。」
「…おそらくそれがこのカジノで働き始めた日でしょうね。」
「この日はこの督促の期限だ。…咲季を売ろうとしてたってことか。」
「その日の夜、咲季と話をしたときに彼女はそのことについて言及しなかった。」
「そうですわね。私たちには話せない理由があった…でも、」
「咲季はなぜか、悠理が100点を取ったのは本当か、と尋ねてきました。それも真剣に。まるで、それが一番の気がかりであるかのように。」
清四郎がそこまで言ったところで、野梨子がはっと息をのむ。
その様子に清四郎も目配せし、同じ結論にたどり着いたことを確信する。
「…悠理の100点は、咲季が関わっている、と緑川は考えた…?」
「悠理に問題をリークし、100点を取らせた。学年主任の部屋からテスト問題を盗んだ、ということになれば悠理だけでなく咲季も何らかの処分でしょう。…もちろん、100点は飛良泉少年の力ですから、実際には咲季は何もしていないのですが。」
「てことは、処分を受けたくなければ従え、って脅されて、咲季はバカ正直にそれに従ったってこと?…悠理や、俺たちが巻き込まれると思って…?」
「嘘…。」
このままにはしておけない、と清四郎はふうと息を吐く。
二人を救い、緑川をうちのめすための方法を練るべく、5人は作戦会議を続けた。
写真に写る咲季の姿を目の端に、清四郎の中には咲季を救い出すという確固たる信念が生まれていた。
***
せっかくの土曜日にも関わらず、咲季は外に出る支度をしていた。
咲季にとっての週末は、家にこもって専ら歌曲の練習に勤しむ時間となるのだが、今日に限っては少し違う。
昨夜、土曜日のシフトを告げられ、せっかくの週末はカジノのバーテンダーとして働くことが決定した。
とはいえ昼からのなので午前中に今日の分のトレーニングを終わらせた。
ここ数週間、というよりも帰国してからというものまともに歌う練習ができていないことを知られたら、先生は何というだろうか。
「絶対怒られる…。」
しかし、やはり日本に帰ってきてから歌うと歌の感触が少し違っていたのには驚いた。
先生が無理にでも自分を日本に帰したのは自分に足りないものを見つけてほしいからだというのはわかっていたが、咲季自身はまだ何も見つけられていないままだった。
それでも帰国してからの色々な出来事が自分の中の心境を少しずつ変えていることに関しては、咲季自身もなにか違う感触を得ているというのが正直なところだった。
今もこうしてカジノでのバイトのために準備をする自分は昔だったら考えられない。
こうして自分の活動範囲が広がり、人間のいろいろな部分を観察することは自分の歌の幅を広げるための一助となっているのは間違いないだろう。
「さてと、お仕事行きますか。」
昨日は路地裏で美童と可憐に出会ったが、その後野梨子からも連絡はなかった。
おそらく黙っていてくれたのだろうと思う反面、不可抗力でばれてしまったほうがこの状況を打破できたのかもしれないともおもった。
咲季自身はこの働いている状況を楽しんでもいるが、いつまでも緑川の言いなりになるのはごめんである。
充電をおえた携帯を手に取ると、チカチカと青いランプが点滅している。
どうやらメールが来ていたようで、咲季は慣れた手つきでメールを開いた。
差出人が野梨子ということがわかり、咲季は少しどきりとする。ついにばれたのか?
そう思いながらメールをひらいた。そこには「咲季、必ず助けに行きます」とだけ書かれていた。
受信日時を見るとつい数十分前で、一体どういうことか分からないが、おそらく自分がカジノで働かされていることがばれたのだろう。
予想はしていたが一瞬でこの後の展開がわからなくなり、咲季は困惑する。
「助けるったって…どうするつもりなの…?」
呟きつつ、ハッと我に返り液晶の右端に移る時間を見て咲季は慌てて部屋を出た。
言われていた出勤時間に間に合うように、急いで歩き出した。
最寄りの駅で電車に乗り、数駅先で降りて歩いていくとそのカジノは存在する。
一見すると高級そうなクラブだが、昼間でもちらほら見える客も、ほとんどすべてがカジノの客だ。
咲季はその客を尻目に路地裏に入り、勝手口のキーロックを外し中に入る。
「来たね。」
「お疲れ様です。」
そこには机上の電卓に何かを打ち込んでいる女主人がいた。
咲季は挨拶をし、自分のロッカーのかぎをあけて着替えを始めた。
女主人はその様子に一瞥くれた後、ふう、とためいきをついた。
「緑川、来てるよ。」
「そうなんですか。」
「昨日、でかい金が入ったみたいでね。今日は朝から来てる。…馬鹿だね。」
「…。」
特に返事をせず、白いシャツにそでを通す。反応を示さない咲季が面白くなかったのか、女主人は少し間をおいて口を開いた。
「あいつの遊んでる金が何で得られたものか、あんたは知ってるのか?」
「……。」
「フン、あれが教師なんだからねぇ………。あんたも気の毒だけど、金は返してもらわないと。」
無言を決め込む咲季に、女主人はやはり憐みの目を向けながら毒づいた。
黒いジレを羽織り、髪を結いあげて用意ができた咲季が振り返ると、先輩バーテンダーでホールを担当していた男がスタッフルームに入ってきた。
女主人が何の用かと目で尋ねると、男は表情を特に変えないまま淡々と報告をする。
「妙に勝っている客がいます。…新規IDで、知らない顔です。5人組でやってきましたが、どのゲームでも掛け金が高く…」
「ふうん。5人組?つるんでるの?」
「いや…それぞれ別々のゲームをプレイしています。」
「…行こうか。」
その報告を聞きながら、咲季はその5人組が誰か大体見当がついた。
なぜ5人かはわからないが、おそらくは有閑倶楽部のみんなだろう。
会ったところでどう反応すればよいのか、半ば困りながらも咲季は女主人の後について歩きカウンター業務に向かった。
フロアに出ると咲季が予想していたよりも会場はいつもと変わらなかった。
休日の午後ということもあり、客は若者が多く、このまま夜に人が増えることが予想された。
咲季がカウンターに入ると、怒り心頭な緑川が詰め寄ってきた。
「高天原…お前……よくも…!」
「え?なんですか、急に…」
「お前はやっぱりあいつらと組んで…」
「そこまでですよ。」
カウンターに詰め寄りウイスキーを一気に飲んだかと思うと、緑川は咲季に食って掛かった。
怒りと悔しさからか歯を食いしばりながら恨み言を言う緑川に、冷徹な声が降りかかる。
視線の先には着飾り、一目では高校生と分からない格好をした清四郎たちの姿があった。
驚きに声も出ない咲季に代わり、緑川が声を上げる。
「どうして…!」
「惜しかったですね。もうやめちゃうんすか?…あー、お金ないんだ?」
「うるさい!!」
怒鳴り声をあげて緑川が振り返ると、悠理を除いた有閑倶楽部の面々が行く手を阻むようにずらりと並ぶ。
ゆらりと詰め寄り、白いスーツケースを持ち出すと中身を見せる。
札束がぎっしりと詰め込まれた様子を見て、緑川はごくりと生唾をのんだ。
「先生、これで一発勝負しない?先生が勝ったら、これ全部やるよ。」
「そうとう借金してるんですよね、先生。」
彼らはいつの間にそこまで突き止めたのだろうか。咲季は次の展開にハラハラしながら黙って先を見守る。
気配を感じてちらりと視線をやると、隣にはいつの間にか女主人がいた。
その目が何を考えているかわからなかったが、かすかに笑みを湛えたその表情に咲季は何も話しかけることができず、静かに視線を彼らに戻した。
「これで借金も返せると思いますよ。」
「その代わり、負けたらそれ相応のことはしてもらいます。」
そう発言し、清四郎はちらりとその奥にいる咲季を見る。
目が合った咲季は、小さく息をのみ、その射貫くような視線に鼓動が跳ねるのを感じた。
「わかった。…やろうじゃないか。」
「ちょっといいかしら?」
「店長!」
緑川が意を決してそう答えたところで、隣にいた女主人が声を上げた。
その場にいる全員が彼女の発言に驚きつつ、そちらを見る。
おどおどし困惑した咲季の隣で女主人は飄々と言葉を発した。
「どうやらこの店で一番の大勝負をなさるようで。どうせなら、ルーレットで戦うのはいかがかしら?」
「ルーレット…」
「その素敵なサングラスを外して、ね?……お金だけじゃない、大事なものを賭けるのでしょう。」
驚いた様子の面々をみて、サングラスに仕掛けが施されていることを暗に知る。
どこまでもお見通しの女主人に全員が面食らう中、清四郎が一歩前に出た。
そして、以前と変わらないつよい視線で瞬きもせずに咲季を見る。
「ええ。お金以上に大事なものがかかっているんです。…負けはしませんよ。」
「威勢のいいこと。じゃあ、準備しましょうか。」
清四郎の瞳に女主人は初めて目を細めて笑顔を見せた。
口元だけの不気味な笑みはなく、勝負に挑む清四郎の姿に感心したようだ。
そしてすぐに準備するよう近くのスタッフに声をかける。その後、彼女は咲季のほうを向き、口を開いた。
「さ、あんたも来るんだよ。」
女主人はすべてわかっているかのように見えたが、咲季は本当のところがわからず言われるがままに準備されたルーレット台に向かおうとする。
「その勝負、あたいがやるぞ…!」
突如、階段から現れたのは悠理だった。心なしか顔は青白く、ぐっと仁王立ちした悠理の足はかすかにふるえている。
咲季はここ数日で弱った悠理の姿に驚きながらも、皆の様子を見た。
他のみんなも驚いているところから、彼女が相当衰弱していることがわかる。
悠理はふらふらと歩き出し、咲季に駆け寄る。直後に可憐が声を上げ、悠理を制止した。
「どうしてきたのよ…!あんたそんなことできる体じゃないでしょ?!」
「だって…みんなが頑張ってるのに、あたいだけ待ってるなんで嫌だい…!それに、…それに、咲季にも迷惑かけて…。」
がくっと足の力が抜けたのか、咲季の数歩前で悠理が前のめりになる。
咄嗟に咲季は走り出し、悠理を抱きとめた。
全体重がかかり一瞬よろけるが、ぐっと踏ん張って悠理を支える。悠理が渾身の力を振り絞って立っていたことが分かり、咲季はそのエネルギーに驚きながらもしっかりと両手で悠理の腕をつかんで包み込んだ。
「咲季…!」
「悠理、大丈夫?…さ、座ろう。」
「これに勝たなきゃ、あいつだって成仏できない…あたいは、あいつに選ばれたんだ…。」
支えられながら悠理は振り絞るように語る。
こんな状態で参加できるのか、と美童が清四郎に尋ねた。
悩む清四郎に、咲季の支えを乗り越えるように歩き出し、悠理は詰め寄った。
ともに歩み寄る咲季は悠理が小さく震えながら声を振り絞るのを感じた。
「清四郎…頼む…。」
「しかし…」
「……私からも、お願い。」
「咲季、」
「これは悠理の大事な勝負なんだよね?…でも、私も蹴りをつけたい。」
悠理の気持ちを感じながら、これは自分の勝負でもあると感じ取った咲季は悠理を支えながら清四郎に気持ちを伝えた。
それに折れたのか、清四郎は息を大きく吐いて、仕方ありませんね、と呟き優しく笑った。
悠理と顔を見合わせて笑い合い、そのまま悠理を支えてルーレット台に向かった。
すでに準備は整っており、緑川は席についていた。
ルーレット台には顔なじみの先輩スタッフがいる。咲季は彼が好きな数を出せることをしっていた。
「待って、彼が回すんですか?」
「…。」
「私、彼が好きな数を出せることを知ってます。このままゲームをやってもフェアじゃありません。」
無言の女主人は咲季の強い口ぶりにおや、と一瞬目を見開くも、その発言のせいでディーラーが使えないとわかりチッと舌打ちをする。
緑川が目の色を変え、動揺し始めるとともに、女主人は咲季に詰め寄った。
「それなら、あんたが回すかい?」
「え…?」
「この子たちは金だけじゃなくて、あんたも賭けてるみたいだ。だったら、あんたが自分で勝って見せな。自分の運命に。」
そういわれ、咲季は操られるようにルーレット台に歩を進める。
女主人の言葉の意味をかみしめながら、白い小さな玉を手に取る。
ぐっと力を込めて玉を溝に添わせる。これをはじくだけよ、と女主人が耳打ちした。
ぐっとはじいた玉はぐるぐると回り始める。
咲季はその様子を見つめながら、悠理がどちらにかけるのかをドキドキしながら待った。
突如、頭に激痛が走る。小さくうめき声をあげて頭を押さえたところで、美童がその異変に気付いた。
「咲季、」
「大丈夫…。」
時を同じくして、悠理は自分が選択しようとした方向とは別の方に手が動くようで、震えながら勝手に動く自分の手を見ている。
そこで咲季は今まさに幽霊が悠理の身体をあやつっていることにきづいた。
ずきずきと痛む頭に顔をしかめていると、女受けのいい甘い香りが近づいてくる。
「咲季、無理しちゃだめだ。痛いんだろ?」
「美童…。」
「大丈夫、皆いるよ。」
よろける体を支えるように咲季の斜め後ろに立ち、優しく笑った。
安心したのと同時に悠理が赤にチップを置く。それと同時に頭痛は収まり、それを見計らって美童と共に反対側にいるみんなのところに合流する。
少しずつ玉の速度が落ち始め、カランと音を立て、黒いくぼみに入った。
その瞬間頭に激痛が走る。痛みに咲季は顔を覆った。緑川の大きな声と、皆の落胆のため息が聞こえる。
「赤…?」
小さな悠理のつぶやきに、咲季は驚いて指の隙間からルーレット台を見た。
白い玉は赤いくぼみに納まっており、それを見た皆が驚きと喜びの声を上げた。
ふっと力が抜けてよろけた咲季だったが、背後にいた清四郎が肩をつかんで支える。
その感覚に意識が引き戻された咲季が振り返ると、清四郎が安心した様子で咲季を見つめていた。
「よかった。」
そう呟いて子供っぽくはにかみ、嬉しそうに遠くを見た清四郎に、咲季は耳が赤くなったのがわかった。
恥ずかしさから逃げるように咲季は腕を振り切り、スタッフルームに駆け込んだ。
その様子を見ていた有閑倶楽部のみんなだったが、彼女の白い肌が赤くなっているのがわかり、皆で笑いあう。
最後の始末のために持ってきていた証拠を用意し、愕然としている緑川に突き付けた。
急いでスタッフルームに駆け込んだ咲季は、そこに女主人が待っていたことで一気に現実に引き戻される。
やはり何を考えているかわからない瞳に臆しながらも、先ほどの彼女の言葉を思い出してぐっと見つめ返した。
それに対して女主人はふっと笑い、胸元から白い封筒を取り出した。
「自分で何とかしたんだね?」
「……。」
本当のことを言えば一瞬黒に入った後、激しい頭痛がしたことを考えると、あれは自分の力ではなく幽霊の力だろう。
しかし今はそのことは黙っておくことにした。自分があの輪に一瞬でも入っていたことが嘘じゃないと、腕の感触が覚えているのだ。何より彼らは悠理だけだなく自分を助けに来てくれていた。
何より安堵した清四郎の表情が、自分をどれだけ思っていてくれたかを示している。
「ほら、これは給料。あんた優秀だから、金持ちの暇つぶしでまた来てくれてもいんだよ。」
「…でも、私は、」
「これでも女だからね。女を売るような男なんて、私もごめんだ。」
ククッと笑うが「金は返してもらうけどね」と付け足すところを見ると、彼女がやはりやり手であることがうかがえる。
咲季は差し出された封筒を受け取り、少し考えるとそのままカウンターに向かった。
女主人は少し驚いたがその後の行動がすぐに予測できたのか、バカだねぇとつぶやいて彼女を見送った。
ふっとカウンターに現れた咲季をみて、窮地に追い込まれた緑川は食って掛かった。
突然立ち上がり勢い良く詰め寄ると、酒気を漂わせて咲季に罵声を浴びせる。
「お前…お前がばらしたんだろう!!剣菱と組んでっ…!」
「先生」
「くそっ!!最初から仕組まれてたんだ!お前…最初から有閑倶楽部の人間だったんだろう!」
「…。」
「どいつもこいつも俺を馬鹿にして…!」
その言葉を聴きながら、咲季は荒れ狂う緑川がこうまで人間臭いものだと思わず、妙に冷静な気持ちで彼を見つめていた。
ずい、と魅録が一歩出て後ろから緑川の肩をつかみ力強く向き直させる。
よろめく緑川に詰め寄り、ドスのきいた低い声で緑川に言葉を放つ。
「センセ、いい加減にしないと怒るよ。」
「松竹梅…っ!」
「先生のやってることは許されない。…咲季を返してくれ。」
「僕たちの大切な仲間を傷つけたんだよ。」
美童も言葉を付け加え、険しい表情で他の4人も詰め寄る。
皆の言葉と気持ちが伝わってきて、咲季は胸に込み上げるものを感じた。
言葉を発すると涙がこぼれそうな気がして、咲季は手に持っていた封筒を緑川のいるテーブルに置いてその場を後にした。
置かれた封筒を見て、緑川は呆然とする。ほかのみんなもその意味が分からず、再び現れた女主人に視線を送った。
はあ、とため息をついて、テーブルに置かれた封筒を手に取ると緑川に突き付けた。
「これはね、あの子がこの数日働いた給料だ。…とんでもない子を売ったもんだね。」
「そんな…」
「あんたの借金を払うためにここに連れてこられたことを、あの子はちゃんとわかってた。こうやって金を渡そうとしたんだ。自分が恥ずかしいと思わないのかい?」
咲季の行動に毒気が抜かれた緑川は、その封筒を手に取って、やっと自分のしたことの大きさが少しずつしみこんでいったようだった。
その様子を見て納得したのか、スッとだれかが消えていく感覚を感じた悠理は、飛良泉少年の無念も晴らせたのではないかとかすかに感じる。
よかった、と安堵すると空腹が襲ってくる。せっかくだし咲季とご飯が食べたいな。そう感じていると女主人はそれを読み取ったのか、こちらに話しかけた。
「あの子ならもう帰っただろうね。」
「えっ」
「ま、面白いけどめんどくさそうな子だから、ちゃんと見ててあげなきゃだめだよ。」
ぱちん、とウインクした先にいた清四郎は、一瞬目を見開くが、「それは十分承知しています」と笑った。
どうやら自分の雑な叱咤激励も無駄ではなかったようだ。野梨子はその様子をみて小さく微笑んだ。
***
急いで着替えて裏口を出た咲季は、珍しく実家の運転手を呼んだ。
その間、隠れるように駅に向かい、数分で着くという連絡を受けた後にあるところに電話を掛けた。
「もしもし?」
「はい…あら、その声は高天原さん?」
「はい、理事長、すいませんお休みの時に」
電話の先にはセントプレジデント学園の理事長、ミセス・エールがいた。突然の電話に少し驚いたようだが、咲季はその非礼を簡単に詫びて用件を伝える。
「あの、悠理…剣菱さんの補修、取りやめになりませんか?」
「どうしたの?急に」
「確かに成績はひどいものでしたが、小テストでは100点が取れましたし、…その。」
「……そうね、確かに100点は見事でした。勉強は嫌だといっていたけれど、頑張ってつかれたみたいで学校もお休みしたり早退していたみたいだしね。」
「…はい。それに、他の科目のことも考えると補修よりもレポート提出のほうが先生方の負担も減るかと。」
ふふふ、と電話口で笑う声が聞こえ、エールはいつになく必死な咲季の様子に何かを察する。
彼女の思いもよらない変化に、無茶なお願いへの苦言よりも喜びが勝ったのか、わかったわ、と二つ返事をした。
「いいんですか?」
「ええ、校長たちには私から言っておきます。…あなた、変わったわね。やはり海外での体験は人を変えるのかしら?」
「……どうでしょう、自分ではよくわかりませんが、昔の自分とは違うと、自分でも思います。」
「それはきっといい変化だと思うわ。これからのあなたの成長を、私も楽しみにしているわね。」
じゃあ、といって電話は切れた。
思い起こせば多くの人に見守られているなと胸が温かくなるのを感じる。
ちょうどよくついた車に乗り込み、咲季は再び携帯を開いて野梨子にメールを打った。
今日のお礼と補修のことを打ち込む。
どんな反応するかな。そう思いながらメールを送信し、満足して背もたれにしっかりと体重をかけた。
しばらくすると携帯が震え、野梨子からのメールが届いた。
悠理が家に帰って今からご飯を食べること、無事を祝う言葉が並び、咲季はカチカチとボタンを押してスクロールしていく。
「クリスマス…」
文章の最後はクリスマスパーティーのお誘いで終わっていた。
もしよければ、と書いてあるが、野梨子の誘いを不思議と素直に受け取れた自分がいた。
ちょっと前なら躊躇していたかもしれないが、今の自分は多少なりともこのお誘いを喜んで受け止められた。
「まあ、行くとは限らないけど…」
そう呟いて、ボタンを押し続ける。
しばらくスクロールすると、長い改行の後に続きがあることに気づく。
それは、有閑倶楽部の面々の連絡先だった。
”もう大丈夫だと信じてお伝えします。私たちはいつでも待っていますわ”
咲季はしばらくその画面を見つめ、しばらく考えて静かに携帯を閉じた。