7章
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咲季が結局解放されたのは20時、と案外早い時間だった。
一通り酒の名称を教えられ、後半2時間ほど実際に業務に就いたが、やってみると案外面白いもので咲季はすぐに仕事を覚えることができた。
終了後には明日の勤務時間を伝えられ、女主人が呼んでくれたタクシーに乗り込んだはいいが、咲季はポケットに入れた携帯以外の全ての荷物を教室においてきたことに気づく。
携帯電話に入っていた野梨子からの伝言を聞き、タクシーで白鹿邸に向かいつつ、咲季は今日連れていかれた裏カジノでの仕事を思い出していた。
最後の1時間は客が次第に増え始め、ゲームが盛り上がっていたようだった。そのせいかカウンターまで飲み物を求める客は少なく、ドリンクを運ぶホールの仕事量が増え、咲季はカウンターで頼まれた飲み物やオーダーの多い飲み物を用意することが多くなっていた。
慣れてしまえば簡単なもので、咲季はひと段落就いたところで盛り上がる会場内を観察する余裕さえあった。
「ホールの仕事はたぶん回ってこないな」
ぽつりとつぶやき暗くなった窓の外を見る。
後半、仕事終わりのサラリーマンやどこかで見たことのあるような芸能人が増え始めたころには、その場所がただの娯楽施設ではないと咲季も理解することができた。
そもそも賭博は法律で禁止されているが、さらにこのカジノでは特定の客のゲーム内レートが常識の金額を超えていた。
当の緑川もポーカーを楽しんでいたが負けが続くと悔しさとは違う表情を浮かべていた。その後勝利をつかみ取ると、狂喜乱舞し、大きな笑い声をあげていた。
そしてその様子を観察し、逐一報告するのがホールの本当の仕事のようであった。
みたところ彼らは女主人の目となり客が何か間違いを起こさないよう見張っているようである。そしてまた、彼らのディーラーとしての腕も折り紙付きであり、酔った客が何の気なしにホールの従業員を捕まえてディーラーをさせても店に損失が出ないように配慮されているようであった。
絶妙のゲームさばきで、客は勝ちと負けをバランスよく与えられ、この裏カジノに没頭するように仕組まれているようにも見えた。
だからこそ、最もゲームに関係のないカウンターに何も知らない自分を置いたのだと推測できる。
そう思えば、今日覚えた仕事ですべてなのだろう、気分転換にもなり、意外と楽しめるかもしれないとさえ思える自分に少し驚いた。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
なんてことを考えていると、白鹿邸の前にタクシーが止まる。代金はすでに女主人からもらっているようで、咲季が確認すると結構です、と断られた。
咲季は冬の冷たい風に身震いしながらタクシーを降り、白鹿邸の門をくぐった。
***
白鹿邸は、玄関までの距離はそう遠くない。しかしすぐ脇には広大な日本庭園が広がり、門をくぐると時代を忘れてしまいそうな和に囲まれた環境が広がっている。
野梨子から話を聴いていたのだろう、玄関の呼び鈴を鳴らすとすぐに見慣れた女性が玄関を開き、招き入れてくれた。
彼女はこの白鹿邸に住み込みで華道を習っているお弟子さんだ。
「皆さん、野梨子さまのお部屋にいらっしゃいます」
「はい……え?みなさん?」
素直に返事をして靴を脱いだところでお弟子さんに案内され、咲季は「皆さん」という表現にはた、と足を止める。
お弟子さんは何か問題でもあるのかという風にきょとんとしており、咲季は言葉を濁してそのまま案内を続けてもらった。
幼いころによく歩いた野梨子の部屋までの長い廊下を歩き、部屋の前にたどり着くとお弟子さんは中にいる野梨子に声を掛けた。
皆さん、の言葉に複雑な気持ちを抱いていた咲季は中から見えないような位置で待機し、聞こえてくる声に耳を澄ませた。
「野梨子さま、咲季さまがお見えになりました。」
「あら、思ったより早かったですわね。通して」
「はい。」
どうやら中はそこまで騒がしくなく、野梨子の凛とした声が聞こえるだけだった。
お弟子さんは野梨子の返事を聴くと咲季に視線を送り、入るように促す。
「しつれいしまーす…。」
「咲季、こんばんは。」
そこにいたのは着物姿の野梨子だけで、野梨子の横には咲季が置いていった上着とカバンが置かれていた。野梨子はいつもと変わらない柔らかな表情のまま、座布団に向けて手のひらを差し出す。促されるままに咲季はそこに座り、まだあたたかい湯気の立つ湯飲みを手に取ろうとした。
しかしそこで、机に置かれた3つの湯飲みに気づく。
「誰か来てるの?」
「…ええ、清四郎が。」
「えっ…。」
あからさまな反応に、野梨子は笑いそうになるがそれをこらえて咲季の狼狽えようを観察する。
咲季の方はというと、誰かがいることはわかっていたが、まさか清四郎なんて、とこの後どう説明をしようかということで頭がいっぱいになっていた。
「今は席を外していますが、じきに戻ってきますわ」と野梨子が付け足し、咲季はハッと我に返る。
「咲季、いったい今まで何をしてたんですの?」
「えっ、えっと…」
間髪入れずに野梨子がそう尋ねるので、咲季は答えに窮してしまった。
どこから、どういう内容まで話せばいいのか。しかしこのまま黙っていても許してくれる幼馴染ではない。そうこうしているうちに清四郎が戻ってくるかもしれない。
咲季は少ない時間の中で頭を回転させる。
「緑川に呼ばれて、それから戻ってこなかったとお友達から聞いていますが。」
そんなところまで知っているのか。下手に嘘をつけば逆に怪しまれるだろう。咲季はその言葉を「うん」と肯定する。
野梨子は大きな目を細め、怪しんだ目で咲季を見つめる。
以前の咲季の様子といい、最近緑川と奇妙なかかわりを持っている彼女だが、その真相がわからない。
居心地が悪そうにしている咲季を観察していると、咲季が恐る恐る口を開いた。
「ちょっと最近先生のお手伝いをしていて…。」
「お手伝い?」
「!…清四郎…。」
「あら、おかえりなさい。」
襖の開く音がし、上から声が降ってきたかと思うと、そこには硬い表情の清四郎が立っていた。
遊園地の一件といい、緑川の一件といい、あからさまに清四郎を避け続けた咲季は、気まずさと恥ずかしさが入り混じった複雑な感情が巻き起こり言葉を失う。
そうこうするうちに清四郎は、向かい合う野梨子と咲季の中間に位置する座布団に腰を掛け、何も答えない咲季の横顔を見つめる。
「お手伝い、してるだけ」
咲季が片言で返事をする様子に野梨子は幼馴染を慰めたい気持ちになってしまう。ここまでわかりやすく避けられれば、流石の清四郎でも戦意を失ってしまうのも仕方ないかもしれない。同情するような、呆れたような眼を清四郎に向けたとき、野梨子は清四郎の神妙な横顔におや、と思った。
どうやら自分の半分当てつけのような叱咤激励が効いたようで、先日のような萎えた視線はなく、咲季に真剣なまなざしを送っていた。
野梨子はここからの展開に少し期待しながらも、咲季や清四郎の次のアクションを気長に待つことを選択し、緑茶を一口飲む。
清四郎は答えたっきり視線をそらした咲季を見つめながら、こんな近距離で咲季をじっくり見るのは久しぶりだな、と別のことを考えていた。
最後に彼女の顔をしっかりと見たのはけがをして気を失っているときで、それからは彼女の泣き顔や遠ざけるような硬い表情しか見ていない気がする。
そういえば病院で魅録と話しているときに笑っていたか?思い出してみると咲季のことはいつでも頭の中に焼き付いていて、そんな自分に笑ってしまいそうになる。
手を伸ばしたら触れられる距離に咲季が居て、逃げずに目の前にいてくれる。
野梨子の妙な叱咤激励も後押ししているのか、いつもの自信が少しだけよみがえってくる。それでも気を抜くとすぐに不安になりそうだった。
それだけ彼女に避けられることがつらいという意味でもあるのだが。
そこまで考えたところで、清四郎は静かな部屋の空気を震わせるように声を発する。
「最近緑川に何かと絡まれているようですが、なにかあったんですか?」
清四郎に話しかけられた咲季は驚きと困惑を隠せない表情のまま清四郎のほうをみる。素直な反応に清四郎は困らせてしまった申し訳なさよりも反応してくれた嬉しさが勝った。
咲季が顔を少し上げて声の主の方を向くと、幼馴染二人は真剣な面持ちでこちらの言葉を待っているようだった。
助けを求めるべきか、そう考えたところで緑川の怪しい笑顔がふっと頭をよぎり、咲季は言葉を詰まらせ視線をそらす。
何か言いかけて口を閉ざした咲季の様子を野梨子と清四郎が見逃すはずがない。
「…言いたくないなら別にかまいませんが」
「清四郎、」
「僕たちが何年咲季と一緒にいたと思ってるんですか。」
その話題から一見手を引いたように見えた清四郎に、思わず野梨子が声をかけたが、清四郎はそのまま咲季を見つめて言葉をつづけた。
思いもよらない清四郎の言葉に、咲季はそらしていた視線を再び清四郎に戻す。
その目はどこか懐かしさを感じる光を帯びており、咲季は目線をそらせない。
こんなにも近くで、まともに清四郎の顔を見たのはいつぶりだろう、そんな考えが頭をよぎり、咲季はそのまま清四郎の言葉を待った。
「隠そうとしているつもりかもしれませんが、咲季は顔に出るので無意味ですよ」
「ふふっ。」
「ちょ…、野梨子、笑うところじゃないよ!」
「だって、本当に清四郎の言う通りですもの。」
「だからといって無理強いはしません。言いたくないことを無理に言わせるようなことはしたくありませんから。」
「………うん。」
野梨子のあたたかい優しさと清四郎らしい強引な優しさが、咲季の胸を締め付ける。ぐっと泣きそうになるのをこらえ、咲季は頷いた。
いつもこうだ。自分のことはなんでもわかると豪語し、確かにすべて見透かされているような気がするのに、それでもすべてを見守っていてくれる。
その心地よさを久々に感じた咲季は、その切なさにすこし泣きそうになる。
それでも自分にうんざりしているんでしょ?という卑屈な言葉も浮かんだが、それを言うのも考えるのも今はやめておこうと思えた。
こうして伸ばしてくれる手を放すのはその後でもいいのかもしれない。
今自分がやっていることを、巻き込まれていることを話せばきっと清四郎は、二人は、皆は助けてくれるのだろう。
分かってはいるが、それでも魅録の言葉が、緑川の言葉が、悠理の顔がちらちらと咲季の気持ちを阻んでいく。
咲季の言葉を待っている二人の幼馴染は、複雑な表情の咲季の様子に、なにかただならぬものを感じていた。
しばらくして口を開いた咲季の言葉に野梨子と清四郎は耳を傾ける。
「……詳しくは言えないけど、」
「はい。」
「その、緑川の秘密を知ってしまって…。」
「緑川の、秘密?」
「それをばらさないようにって、目をつけられていて…。あ、でも、ばらさなければ何もないし、」
心配ないよ、と続けて二人の表情を見ると、その言葉を一切信用していない野梨子と、何かを考えている清四郎の表情に、咲季はそれ以上言葉が出ない。
黙り込んでしまう清四郎と野梨子は自分がもう少し何かを語るのを待っているのだろうが、咲季はこれ以上説明のしようがないと思い口を噤む。
少しのヒントでも二人ならなんとかしてくれるかもしれない、と考えたが、下手に動けば自分は退学になってしまう。この疑いさえ晴らせればどうとでもなるが、果たしてこれも、彼らにかかればどうにかしてもらえるのだろうか。
そこではた、と気づく。そういえば自分に疑いがかかったのはもとはといえば悠理の100点事件だ。二人なら何か知っているかもしれないと思い、咲季はそのまま言葉をつづけた。
「あの、少し気になってたんだけど」
「なんですか?」
「今日の数学のテスト、悠理が100点だったって本当?」
その言葉に野梨子と清四郎は目を見開いて咲季を見る。
予想外の二人の反応に、咲季はこの質問がなにかまずかったか、と二人の表情を見つめて反応を待った。
「…悠理がまともな手で100点を取れるわけがありませんわよ。」
「反論できないのがつらいね。…で、どうやって100点取ったの?」
「それは…」
清四郎が言いよどみ、野梨子の方を見る。つられてそちらを見ると、野梨子も何か言いにくそうな顔をして口をつぐんだ。
その表情は言いたくないといいよりも、どう説明すればよいのかわからないといったような表情である。
咲季はその様子に、悠理が何かの方法を使って100点を取ったことだけは理解でき、なんとか穏便に自分の疑いを晴らす方法はないかと考える。
「どんな方法かは知らないけど、悠理が100点を取ったのは事実なんだね。」
「まあ、そこは本当ですよ。教頭や理事長が騒いでいた声が聞こえたはずです。」
「うん、聞こえた。校内中に聞こえてたから…でも、どうやって100点取ったんだろう…」
咲季がやけに悠理のテストについて気にすることが気になったが、それが幽霊の仕業かもしれないということを説明するのも難しい。清四郎や野梨子も返す言葉がなく、無言の時が流れる。すると、清四郎の携帯が震え、かすかな振動音が部屋に響く。
「失礼します。…咲季、もう遅いですから、今日は帰ったほうがいいですよ。」
「…うん、そうだね。そろそろお暇しようかな。…あの、一人で帰れるから。」
けん制するように咲季がそう付け足すと、清四郎は少し目を見開き、そしてふっと笑った。
その予想外の反応に咲季は面食らうが、「わかりました。気を付けて」といい電話に応じながら清四郎は部屋を後にしてしまい、部屋には野梨子と咲季だけが残される。
咲季が席を立って帰ろうとすると、野梨子も立ち上がり、そっと咲季の手を取って心配そうに見つめる。
清四郎が居なくなって緊張は解けたが、その安堵感は少しの寂しさも混ざっているのか、咲季は清四郎が去った後の襖をそのまま見つめていた。
「…咲季、何か危ないことに巻き込まれているのであれば、いつでも言ってくださいね。」
「野梨子…ありがとう」
「私たちはいつでも咲季の味方ですわ。」
「…私、清四郎にもっと嫌われてると思ってた。」
野梨子のやさしい言葉を聴きながら、咲季はぽつりとそう呟いた。その言葉に野梨子は驚きながらも、次の言葉を待つ。
咲季は野梨子の手の感触を感じながらも、先ほどの清四郎の顔や声を思い出しながら口を開く。
「面倒なことに巻き込むなって、言われるって。うんざりしているんだろうなって思ってた。でも、話を、聞いてくれた。…どういうことかわかんない。」
「咲季…。」
「清四郎が優しくしてくれるの、うれしいけど怖いんだ…。」
そう呟いたかと思うと、咲季はふーっと大きく息を吐いて、いつもの寂しい笑顔を見せた。
そして「ありがとうね」と簡単にお礼を言い、野梨子の手をほどいて荷物を手にして歩き出した。
部屋を出ても、清四郎の姿はなかった。
少しだけ期待していた自分がおかしくて、咲季は笑いそうになる。
「いるわけないか…」
そう呟いて、明日からどうしようか、友達に連絡しないと、とかき消すように他のことを考えながら白鹿邸の長い廊下を歩きだした。
白鹿邸の扉がガシャンと閉まる音が響いたのを確認して、清四郎は静かに廊下に足を踏み出した。
咲季の呟きが妙に耳に残り、清四郎の心に重く響く。
その重さはなぜか心地よく、清四郎は少しだけ温かくなった心を隠すようにぐっと唇をかみしめて咲季が歩いた廊下を同じように歩いた。