7章
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緑川の歩くスピードは決して速くないにも関わらず、咲季との間には常に一定の距離が保たれていた。
その距離は心の距離を示しているようにも見え、咲季は自分が無意識のうちに彼を警戒していることに気が付いた。
先ほどの彼の目線は今思い出しただけでも寒気がする。
何かを企んでいるような、射貫くような眼光は間違いなく昨日の出来事に関係しているに違いない。
「…。」
緑川はあれから何も言わずに主任室までの道のりを歩いていた。
彼が通ると生徒たちは無言で道を開く。その後ろをついて歩く咲季の姿に生徒たちは憐れむような表情を見せるが、関わりを持たないように極力何も言わないように徹しているようだった。
主任室につくまでの間、終始無言のままだったが、主任室にたどり着き、ドアノブに手をかけたところで緑川がこちらを振り返った。
「高天原。」
「…はい。」
「分かっているとは思うが、ここで見聞きしたことは一切他言無用だ。…お前を信頼しているぞ。」
にこりと気持ち悪いまでのやさしい笑顔でそう釘を刺し、咲季の返事を待たずにドアを開けた。
ただただその圧力に圧倒されながら一歩足を踏み入れる。昨日とさして変わらない部屋の中、昨日まで咲季が作業をしていた机の上にテストの答案用紙の束が置かれていた。
「そこにこの間のテストの答案がある。名簿にそれぞれの点数を入力してくれ。」
「…そんなこと、生徒である私がやってもいいのでしょうか?」
「ああ、さっきも言っただろう、お前のことを信用している、と。」
含みのある言い方に、咲季はそれ以上言い返すことなく、促されるまま昨日の席についた。
紛れもなく自分たちの学年のテストの答案がそこにはあり、一番上には見慣れたクラスメイトの名前と赤いペンで56と点数が書かれている。
改めてこの作業に疑問を感じ、緑川の方を見ると、瞬く間に目が合い、彼がずっとこちらを監視していることに気づいた。
「何も気にしなくていい。」
「…。」
そこから緑川は何も言わなくなり、ただ無言でこちらをじっと見つめていた。
咲季は気味が悪くなり、少しでも早くこの作業を終わらせて帰ろうと机に向き直る。
窓の外は少しずつ日が傾いてオレンジ色になりかけていた。
咲季が作業を始めたのを確認し、緑川は明日の小テストの問題を作るべく、参考書や教科書を読み始めた。
***
あれからしばらく作業を続け、気が付くと日は完全に沈んで窓の外は暗くなっていた。
緑川がはあ、とため息をついたためそちらを見ると同時にそばにあったプリンターが音を立てて紙を吐き出し始めた。
「そちらはどうだ。」
「あと1クラスです。」
「そうか、ご苦労だった。…続きは明日でいい。」
プリンターの音に紛れながら、少し疲れた様子の緑川の声が聞こえ、咲季は彼の先生らしい一面を見て少し感心していた。
おそらく学校のほとんどの生徒から煙たがられ、先生たちからも畏怖の対象になりつつある彼も、こうして生徒の小テストを作成し、明日の授業に備えていると考えると、なんとなく彼に対して無条件の嫌悪を感じていた自分を恥ずかしく思う。
しばらくするとプリンターの音が止み、緑川はそれらを手に取ってまとめると、壁際にある金庫の扉を開けた。どうやらテストなどの機密はあの金庫にしまってあるようだった。
「…高天原、お前はもう帰りなさい。そろそろ最終下校時刻だ。」
「あ、はい。」
「続きはまた明日、頼んだぞ。」
その言葉と表情に咲季は昨日のことを思い出し、はっと表情を変える。
緑川は咲季のその様子に少しだけ眼光を鋭くさせたかと思うと、もう帰りなさい、と一言告げて今すぐ帰るように促した。
咲季は促されるとさっさと周辺を整理し、そそくさと主任室を後にした。
部屋を出て、暗くなった廊下をゆっくり歩いていたとき、咲季は自分がカバンやコートを全て教室に忘れていたことを思い出し、教室に向かうことにした。
最終下校時刻である8時には、すでにクラブ活動後の生徒たちも校舎を後にしているようで、昼間の賑やかさとは正反対の静けさを保っていた。
「静かだなぁ…さむっ…」
流石に12月ということもあって、防寒着なしで廊下を歩いていると肌寒さを感じた。
早く帰ろうと足早に教室に入り、コートを着て荷物を手に教室を出た。
さて帰ろうとドアを閉めたところで、バタバタと乱暴な足音が聞こえ、咲季は驚いて廊下の先に目をやる。
「え?誰?…こんな時間に…?」
足音は次第に近づき、「ぎゃああ」という叫び声も聞こえる。
階段を駆け下りているのだろうか、どんどん近づく足音と声に咲季は恐怖を感じて足がすくんだ。
「ああああああああああ!」
「きゃあああ!」
階段を駆け下り、自分の目の前にものすごい速さで迫ってくる人影に、咲季は悲鳴を上げる。
その人影にぶつかったところで、悲鳴と足音は止まり、咲季とその人影はその場で座り込んだ。
「なんだよくるな!くるんじゃねええ!!うわああ!」
「なになになに!?誰!?」
そう声を上げたところでお互いその声に聴きおぼえがあったのか、一瞬の静寂があたりを包む。
そして月明りに少しだけ照らされたその人物の顔を見て、咲季はすぐに気が抜けた。
「悠、理…?」
「え……あれ?…なんだ、咲季じゃん!!!」
「びっくりした…!こんな時間に何してるの?」
「咲季こそこんな時間に……って、もしかして、緑川の手伝い、…」
悠理は一瞬緑川、という時にはむっと眉間にしわを寄せたが、直後に、普段と変わらない咲季の様子に言葉を詰まらせた。
咲季はその様子に気づくことなく、そのまま悠理の質問に答える。
「うん、さっきまでね。悠理は?なんでこんな時間に学校にいるの?」
咲季の様子に呆然としたのも束の間、自分がさっき見た光景を思い出した悠理は勢いよく立ち上がるとあたりを見まわし、誰もいないことを確認してから咲季の肩をつかんだ。
「咲季!誰もいないよな!?」
「へ?い、いないよ、私たちだけだよ?」
「いや、でもいるんだよ!」
「は?」
ぶんぶんと頭を横に振り、いるんだって!と声を荒げる悠理の様子はどこかおかしかった。
咲季はその発言に気味が悪くなり、悠理を落ち着かせようと自分も立ち上がる。
「悠理、どうしたの?何かあった?」
「なんか、いや、いたんだって!」
「どこに?」
「みど、いや、あの…その…えーっと…」
急に言葉に詰まり始め、悠理は視線を泳がせる。
みど、と言いかけたその言葉を疑問に思いつつ返事を待ちながら、悠理の首から聴診器がかけられていることに気が付いた。
「なんで聴診器…?」
「え!?あ、いや、その。これは…はは、はははははは」
笑いながら聴診器を首から外し、それを手でもてあそんだかと思うと、悠理は「じゃあな!おやすみ!」と言いながら逃げ出した。
呆気にとられた咲季はしばしその場で立ち尽くしたが、徐々に静かになっていく校舎の様子とひんやりした空気に、少しだけ不気味さを感じながら歩き出す。
そして冷静になって考えてみる。
みど、の言葉、聴診器、あの慌てよう。どうせろくなことを考えていないだろうと咲季は呆れ、そしてふっと微笑みを浮かべて暗がりの廊下を歩いた。
***
翌日、小テストが終わりすっきりした様子のクラスメイト達と共にお昼を食べようと教室の一角に集まったところで、教頭と校長の叫び声が校舎に響き渡った。
騒がしいのはいつものことだと、テストが終わって気が緩んだ生徒たちは笑い飛ばしてお昼を食べる。
咲季はこの叫び声に昨夜の悠理を思い出し、別の意味で笑いが込み上げそれを隠すように手で口元を隠した。
にぎやかだよね、とクラスメイトと話を弾ませ、最後の一口を口に運んで咀嚼する。我ながら今日のお弁当はいい出来だった。
談笑するクラスメイトの様子を眺めながらお弁当を口に運ぶ。しばらくし、最後の一口を食べ終えたところで、教室の外が静かになっていることに気づく。
「高天原はいるか?」
がらりと教室のドアが音を立てて開かれ、いつもよりも数段冷たい声で緑川が入ってきた。
名前を呼ばれた咲季が振り返ると、入り口でこちらをにらみつける緑川と目が合った。
「緑川先生…。」
「来なさい。」
何事かと不安げなクラスメイト達に一瞬だけ視線を向け、咲季は食べ終わった弁当箱を急いでカバンにしまい、教室を出た。
緑川は咲季が出てくるのを確認すると早足で廊下を歩く。
彼の醸し出す雰囲気に圧倒され、廊下にいる生徒たちもそそくさと道を開け、通り過ぎた緑川とそこについていく咲季の様子を見て口々にささやきだす。
居心地が悪くなり、咲季自身も早歩きで緑川の後ろをついていき、そのまま主任室の中に入った。
「…。」
緑川はそのまま自分のデスクまで近づくと、こちらを振り返って無言のまま咲季を見つめた。
そのまま何も言わずに困惑の表情を浮かべる咲季の様子に目を細める。
「自分がなぜここに呼ばれたか、わからないようだな。」
緑川の言葉に思い当たる節が全くない咲季は、緑川の次の言葉を待った。
昨日、仕事を手伝いこの部屋を出てから今に至るまで、緑川と関係のあったことなど小テストくらいしかない。
テストの内容はわからないし、金庫にしまわれたことも確認した。
昨日の採点の結果も誰にも公言していない。
考えを巡らせていると、緑川はデスクの上の答案用紙を咲季に見せた。
それはまだ記憶に新しい、今日の午前中に行われた小テストの答案だ。
回答欄の全てに丸が入り、右下には100と書いてある。
この字は自分の字ではないとわかり、視線を名前の欄に向けると、”剣菱悠理”と書かれていた。
彼女には悪いが、咲季は驚きを隠せない。
「え…悠理…」
「剣菱の前回の小テストの点数は、お前も分かっているだろう。」
「…。」
「1日勉強したくらいで、満点が取れるようなヤツじゃない。」
悔しいが、緑川の言うことに反論はできない。しかし、この答案の結果になぜ自分を呼び出すのだろうか。
そう一瞬考え、緑川の表情にハッとする。「まさか」という言葉をぐっと飲みこみ、沈黙を貫いた。
「……。」
「昨日作成した小テストの問題のありかを知っているのは、私とお前だけなんだよ、高天原」
「…どういうことですか。」
咲季は表情を硬くし、緑川の次の言葉を待った。
何も言わない咲季の様子にふぅと溜息をついて、緑川は心底残念そうに咲季を見る。
「まさかお前があいつらと繋がっているとはな…驚いたよ。」
「…。」
「剣菱にこんな点数が取れるわけがない。そして、小テストの保管場所を知っているのはお前だけだ。」
緑川は喉の奥でくくっと笑うと、悠理の答案用紙を机に置いて咲季の方に歩み寄ってきた。
咲季は身体をこわばらせ、後ずさりする。
緑川の表情は変わらないままだが、その雰囲気から怒りや落胆に近い感情が伝わってくる。
「このことが理事長たちに伝わったらどうなるかな?」
「…!」
「優秀な生徒のお前が、小テストとはいえ、作成したテストの内容を他の生徒に伝える…それも、主任室に侵入して金庫を破った…」
「な…!私はそんなこと、」
「ならば、なぜ剣菱は満点を取れたんだ?私があいつに問題を教えるわけがないだろう?」
事実を歪曲し、したり顔で話す緑川に咲季は思わず反論するが、緑川はそのまま言葉をつづける。
何も言えなくなった咲季は緑川を睨むが、緑川は特に表情を変えない。
彼の言葉はどこか違和感があり、悠理に問題の内容を伝えたことに対する叱責が目的とは思えなかった。
「このことが知れれば、高天原、お前は退学だろうな。」
「そんな…!」
その言葉を聞き、ショックを受けた咲季はさっと血の気が引いたのが分かった。
そこでふと昨日の夜のことを思い出す。聴診器を持ち、夜の校舎を駆け抜けた悠理。
今日のテストでの満点、悠理はおそらく昨日の夜、主任室に忍び込んで小テストの内容を見たに違いない。
そして緑川はそのことを利用し、自分に罪を着せ、退学させるつもりなのだ。
その理由もおそらく、緑川が裏口入学の窓口となっていることが咲季にばれた恐れがあるからだろう。
「有閑倶楽部…あんな奴らと関わるからこうなるんだ。」
憐れむような眼でこちらをみる緑川の様子に、咲季は彼の思惑が予想通りであることを確信する。
緑川のことだ。ここで懇願したとしても退学になることは必至だろう。もし理事長たちが粘ってくれたとしても、緑川の権力は今や大きく、彼の計画通りになりかねない。
絶体絶命だ、と思ったところで、緑川の携帯が鳴り響いた。
どうやら緑川のプライベート用携帯のようで、緑川はディスプレイを見た瞬間に表情を変え、一度こちらに視線をやったあと、背を向けて電話に出た。
「はい、ああ、どうも、…あ、はい………え?!」
見たことのない腰の低さに驚いていると、緑川が大きな声で反応した。
そして狼狽えながら「そんな」「本当に今日でなければ」と戸惑った声を出している。
後ろにいる咲季の存在を思い出し、緑川がこちらを向いたとき、緑川ははっと表情を変え、今までに見たことのない笑顔を見せた。
咲季はその表情に悪寒が走り、ごくりと唾をのんで体を強張らせる。
「では、働いてお返しします。…いえ、私ではありません。優秀な奴がいます」
それで話が付いたのだろうか、緑川はそのまま数度返事をすると電話を終えた。
咲季はさっきの緑川の言葉に恐怖を感じ、その場で立っているのがやっとだった。
働く?どこに?自分がこの後どうなるのかわからず、何も言えないまま立ち尽くした。
緑川は2,3度返事をし、電話を切るとすぐさまどこかに電話をかけ始めた。どうやらタクシーを呼んだらしく、電話が終わると先ほどまでの鋭い目線がねっとりと絡みつく気味の悪い視線に変化していた。
咲季は頭の中で、先ほど緑川が電話をした相手は誰かと考える。
自分の学校の生徒を売るなんて、緑川がそんな無鉄砲なことをするとは思えない。しかしあの焦りようを見るに、緑川にとってかなりの弱みを握っていると見える。
一瞬ここで逃げてしまえば、と思ったが、そうすれば自分は退学になる。
母親と、そして諒と約束した手前、ここで学校を辞めるわけにはいかない。
緑川のことだ、自分がこの脅しに屈しなければ他の手を使ってでも自分の口を封じに来るだろう。
「どこに、向かうんですか。」
まずは情報収集しかない。僅かな期間でも有閑倶楽部で培った冒険心で、勇気を振り絞って聞いてみた。
「今聞かなくともじきに分かる。お前に選択する権利なんかないんだからな。」
強気な発言にいらだちを感じるが、感情的になっては緑川の思うつぼだ。咲季はぐっと押し黙り、相変わらず気色悪い笑みを湛えた緑川を睨む。
「先生は何をそこまで必死になってるんですか。」
「何?」
先ほどの電話が緑川の弱みだとして、今から咲季が連れていかれるのはその代償であることはすでに明確だ。
緑川は自分の口を封じ、監視するためにこうやって強硬手段に出ている。それならばこちらはとことん弱みを握り、自分だけやられることのないようにしなければ。
死なばもろとも、だ。
「そこまでして私を退学に追いやりたいんですか。悠理に100点を取られたことがそんなに悔しいとは思いませんでした。」
「……やっと本性を現したか、高天原」
「私が疑問に思うのは当然だと思います。私は退学にされるようなことは何もしていません。隠すことだって何もない。」
そこまで聞いたところで緑川の笑顔が醜く歪み、「貴様…。」と緑川が小さく唸った。
その怒りを遮るかのように携帯が鳴り、タクシーが到着したことが告げられる。すると緑川はまた表情を笑顔に戻し、ついてこい、と主任室を出る。
咲季は意を決して緑川の後ろについていった。
裏門への道を足早に歩き、停められたタクシーに乗り込む。不意に強く吹き付けた風の冷たさに身震いし、自分が荷物や上着を全て教室においてきたことを思い出す。
そのことに気づいたところで、今の自分がどれだけ危険に身をさらしているか実感し、別の意味で背筋に悪寒が走った。
その時にはすでに咲季はタクシーに乗せられ、いつもは見慣れた近くの国道の風景がどこかも分からない場所に見えるほど恐怖でいっぱいになっていた。
ついたのは高級そうなビル。
その入り口にはスーツを着た男が立っており、中に入る人に対してIDカードを出せと無表情に促した。
緑川もそれに続く。
スーツの男が主人公を見ると、緑川が間に入り、「ママに連れてくるように言われた。確認を取ってくれても構わない」と言うと、男は振り返り、後ろにいる別の男に確認を取った。
その男がうなずいたところで、緑川は軽く咲季を促し中に入るように言った。
中は広く、ルーレット台がいくつか並んでいた。奥にはバーカウンターがあり、部屋のサイドは扉が幾つか並ぶ。
偶然開いたドアの向こうには高級そうな白い大理石の床があり、その上にはビリヤード台があった。おそらくいくつかのドアの向こう側にはそれぞれ何か遊ぶための場所があるのだろう。
奥のバーカウンターまで歩く緑川の後ろについていくと、平日の夕方に有名私立の征服を来た女子高生がきたとあって、客は珍しそうに咲季を見ていた。
カウンターまで来るとバーテンダーが二人を一瞥し、カウンターの奥に向かって何か声をかけた。しばらくすると、いかにも高級な、しかし幼馴染は絶対に着ないような着物を身に纏った中年の女性が現れた。
緑川に話しかけるその声は掠れており、その様相や雰囲気から彼女がこのカジノの主人であることをすぐに理解した。
「ああ。こいつはかなり優秀な私の生徒だ。・・・私が頼むと快く引き受けてくれた。本人も同意しているんだ、大丈夫だろう?」
「…。」
「ふうん……確かに、見た目は悪くない。」
緑川の言葉をすぐに否定しようかと考えたが、今はまさに虎穴に入ったともいえる状況だ。女主人は品定めをするように咲季を眺め、最後に目をじっと見つめた。
逃げ出したい気持ちを抑えながら、余計なことは言うまい、と、ぐっと口を噤んで彼女を見つめ返した。
「…ふん、ずいぶん肝の据わった子じゃないか。」
「あの高天原の令嬢だ。頭もいいし、言うことない」
緑川は女が主人公を認めたと確信するや否や、自信満々に話し始める。
女はそんな様子を気に留めることもなく、今度は少し哀れむような目で咲季を見て、そして顎で店の奥を指した。
「あっちが控え室だ。いろいろと説明することがあるからついておいで。・・・先生、あんたも恐ろしいことをするもんだねぇ。そんなにゲームが楽しいかい?自分の生徒を売ってまで。」
「楽しくなんかない。・・・今はもう金を返すのに精一杯なんだ。そのためには手段は選ばない。」
「ふふっ、まあ、金さえ返ってきたら私はどうでもいいんだけどね。でもせっかくのゲームなんだ、できれば楽しんでいって頂戴よ。」
ドスの聴いた声でそういいながら、ぱち、とお茶目にウインクを飛ばすと、緑川はごくと生唾を飲んで眉間にしわを寄せる。あの緑川がこんなにも小さく見えるなんて、この主人はよほど怖いのかもしれない。
咲季は心の中で「無駄なことはしないでおこう」と誓った。
そんな咲季を尻目に女は「こっち」といって、”staff room"と書かれたドアに歩いていった。
***
「なかなか良く似合うじゃないか」
「そう・・・ですかね?」
さっきとは打って変わって穏やかな笑みを浮かべる女主人の言葉に、咲季は警戒心が少し解かれていくのを感じていた。
控え室に入ってから、女主人はロッカーからいくつかの衣装を取り出して、咲季に選ばせた。
なかなか着るのも憚られる様な際どいラインのドレスもあれば、しっかりきまったバーテンダーの制服まであり、咲季は「どう考えてもこれはないな」とドレスをそっと避けてバーテンダーの制服を手に取り選び出す。
女主人はそんな咲季をじっと見たあと、視線を部屋の一角にある試着室らしき場所に移したため、咲季はその視線に従い服を着替えたところだった。
「記憶力はいいほう?」
「まあ、悪くはないと思います。」
「じゃあこれからバーカウンターで酒を選んで出してもらうか。なに、心配ない。ここは私の店だから、柄の悪い客は来ないよ。こちらが粗相さえしなければね。」
「はい。」
緑川と話をしていた時に感じた鋭さは消え、あっけらかんと話す彼女に咲季は拍子抜けした。
返事をしながらもきょとんとしている咲季を見て、女主人はかすれた声でくすくす笑う。
「もっと危ないことをさせられると思ったんだろう?」
「!」
「私だって女だ、あんたを気の毒に思う良心位は残ってるよ。それにどう見たって緑川”先生”に無理やりつれてこられたんだろう?・・・あの先生のことだ、ろくなことはしないさ。」
「・・・。」
ひどい言われようだな。そう思い少しだけ緑川に同情すると同時に、女主人の思いがけない優しさに少しだけ緊張の糸がほぐれる。
「可哀相にね、自分の生徒まで売るんだから。あの男はたいしたもんよ。」
ハッと笑ったその笑顔は明らかに緑川は嘲笑したものだった。そして続けて自分を見るその目も、哀れみを含んだ目だった。
稼ぎになるなら私もなんだっていいけどね、と付けたし、危ない目にはあわせないと約束してはくれたが、やはりここでは気は抜けないと咲季は再び緊張の糸を張った。
「名前は?」
「高天原 咲季です。」
「わかった、咲季。これからお前はここのバーテン。客に知り合いがいちゃいけないだろうから、裏方でやんな。・・・・・・表じゃ見たくないもんも見えちゃうからね。」
女主人はくくっと思い出し笑いをして部屋を去った。
なんのことか分からず呆然としていると、バーテンダーの男がノックをして入ってくる。
服をしまうロッカーの鍵を手渡し、「仕事を教えるからついてこい」と無表情な声で言う。
咲季は言われるがままにロッカーを開けて制服をしまい、鍵をかけて男の後ろを歩いていった。
「なんでこんなことになってるんだろ・・・?」
小さく独り言をいいつつ、経験したことのない仕事に少しだけわくわくする心を抑えて薄暗い廊下を歩いた。
***
一方、夕暮れの日が差す聖プレジデント学園のある教室では、教室の机の横に黒い鞄がかけられていた。
椅子の背にはコートがかかっている。たった一人残っていた女子生徒が不安そうな顔でその鞄とコートを手に取り、丁寧に机の上に置く。
女子生徒は暗くなってきた廊下に視線を移し、はあ、とため息をつく。すると、こつこつ、と足音が聞こえてきた。
その音に気付いた彼女は急いで廊下を飛び出し、その足音の主を確認する。
黒い髪は肩口で揃えられ、文句のつけようのない所作に、彼女はそれが白鹿野梨子であることに気づき少しだけ落胆の色を見せた。
そしてすぐに意を決したかのように息を吸い、こちらに向かって歩く白鹿野梨子の前に歩み出る。
「あの、白鹿さん」
「!…何か御用ですか?」
華道部の帰り、日の暮れかかった廊下を歩いていると誰かに呼び止められる。
すぐそばの教室から出てきた女子生徒は見慣れない顔だが「先輩」と言わないあたりを見ると同級生だろう。
本当なら100点を取った後気が抜けたように家に帰った悠理のところに行きたいところだが、今日は華道部の集まりがあったため、先に剣菱邸に集まってもらっていた。
出来れば早く済ませたいと思いながら、淡々と返事をすると女子生徒はどこか焦りや不安を帯びた表情で言葉をつづけた。
「咲季、どこにいるかご存じないですか?」
「え?」
思いもよらない発言に、野梨子はつい聞き返してしまった。
どこにいるか?という問いには答えられないが、その表情や言葉から、咲季の所在がわからないということにすぐに気づく。
野梨子は驚きで目を丸くし、そのまま女子生徒の顔を見た。
その様子に女子生徒は、野梨子が咲季の居場所を知らないことに気づき、事情を説明する。
「あの、実は今日の昼休みに緑川先生が教室に来たんです。」
「……それで?」
「咲季、先生に呼ばれたきり帰ってこなくて。もうすぐ教室施錠の時間なのに荷物も置きっぱなしで…。」
段々と声が小さくなっていき、女子生徒はちらりと教室の中を見た。咲季の席らしきところには彼女のコートや鞄が置かれている。そのまま押し黙る女子生徒を見ながら野梨子は「緑川」という言葉に引っかかっていた。
昨日の一件といい、緑川はなぜか咲季に執着しているようだ。そしてさらにわからないのが、それに素直に従っている咲季だ。
昨日の様子といい、何かを隠しているのはわかるが、その背景がわからず、連絡も特にない。
開いたドアの向こう、教室の一番後ろの咲季の席に置かれてた荷物を見て、野梨子は一抹の不安がよぎる。
向かい側で腕時計を見て暗くなる空に視線を移した咲季の友人に、野梨子はふっと表情をやわらげ安心させるように言った。
「咲季の荷物、私が預かりますわ。」
「え?」
「あら、咲季は何も言ってないのかしら。私と咲季は幼馴染ですのよ。荷物は預かって、こちらで届けておきますわ。」
「でも…咲季が取りに来るかもしれないし」
「こちらで連絡しておきますわ。あなたの心配な気持ちもわかりますが、もう下校時刻ですし。」
それでもなお心配そうな表情の彼女に、咲季がクラスで慕われていることを感じる。孤高と呼ばれていた咲季だが、その実クラスでは頼もしい彼女を慕う人間は多かった。それは今も昔も変わらないようだ。
だがそれは、いつも6人で固まってあまり交友関係を広げない(むやみに広げる輩もいるが)自分たちと違う世界にいた咲季の普段の生活を感じさせられて、少しだけ寂しい気持ちにもなる。
「ちゃんとあなたにも連絡を入れるように言っておきますわ。ほら、生徒会長に見つかる前に帰ったほうがいいですわよ。」
「…わかりました。幼馴染の白鹿さんが大丈夫というなら、信じます。」
咲季の友人は複雑な笑顔を見せて、失礼しました、と一礼して帰っていった。その後ろ姿を見送って咲季の席まで向かい、携帯を取り出して連絡をする。
しばらくコール音が鳴り、そのうちに留守番電話に変わった。
分かってはいたが、無機質に流れる留守番電話サービスの音声に野梨子は落胆の溜息を小さく吐き、口を開いた。
「…野梨子です。咲季、荷物を置いてどこに行ったんですの?預かっておきますから、ちゃんと取りにに来てくださいな。」
そう言って電源ボタンを押す。ふうと息をついて咲季の荷物を手にしているところで、人の気配を感じた。
ふっとドアの方を振り向くと、鍵束を手に驚いた表情をしたもう一人の幼馴染が立っていた。
「何をしてるんですか?」
「あら…清四郎。」
「それ、咲季の…。まだ、学校の中に?」
野梨子の手に咲季のものらしき荷物と上着があるのを見て怪訝な表情の清四郎に、野梨子はこの現状を伝えるかどうか躊躇した。
しかし、先ほどの咲季の友人の話を聴くに、見て見ぬふりもできない。かといって自分だけでは解決できないこともわかる。
この幼馴染に相談すれば、なにか解決の糸口はつかめるかもしれないが、それは今の彼の精神状態を考えるとやめたほうがいいようにも感じられる。
不安定な彼は、ここ数日様子がおかしい。遊園地の一件の後、魅録と話す様子を見るに咲季と何かあったようだが、清四郎のことだ、それを野梨子に相談するはずがない。
その上昨日の咲季の態度で、清四郎は少なからず傷ついているようだった。
「野梨子?咲季の荷物が何故ここにあるか、何か知ってるんですか?」
「…わかりませんわ。」
黙り込んでみたが、さすが、咲季のこととなると食いつきが違う。
これが知らない誰かのものであれば、まだ校舎に残っているだのなんだの言ってくるというのに。
野梨子はこの事態をどうするべきか慎重に考えながら、咲季の灰色のコートを腕に抱えた。
相変わらず嫌な幼馴染は、焦っているにもかかわらず野梨子の次の言葉を待ちながらもこちらを観察している。
「…咲季の荷物、私が預かりますわ。」
「…。」
「持って帰って、連絡しておきます。それで施錠はできますわよね?」
「野梨子。」
清四郎の声は先ほどまでと違う。そしてそれは、しばらく聞いていなかった少し尖った声だった。
あら、怒らせてしまったかしら、と野梨子はやや他人事のように清四郎の顔を見据え、わざとらしく返答する。
清四郎は野梨子の名前を呼んだきり、何も言わずに野梨子を見ていた。
「……。」
「野梨子は、咲季をどうしたいんですか。」
黙り込んでいると、清四郎は予想外の質問を野梨子に投げかけた。野梨子はおや、と少しだけ目を見開く。
清四郎は野梨子の言葉をただ待っている。
その質問の意図は読めないが、野梨子は咲季のこととなるとどうしても不器用になる彼に最近では苛立ちさえ感じていた。
いつものようにうまくやってみればいいのに、そう思いながら、そうできない幼馴染の限界に、野梨子はやきもきさせられている。
「どうしたい、って…何故そんなことを聞くのかしら。私が咲季を悪いようにしたいわけがないでしょう?」
「それは当たり前です。」
「それなら愚問ですわ。私は咲季のことを考えて行動しているつもりです。」
もちろん、咲季がこちらに帰ってきてからの変化は、私よりも情報量の少ない彼らには理解できないことも多いだろう。
野梨子自身も、咲季の感じている所がわからない部分も多い。しかし、彼女の様子がおかしいのはいつだってこの幼馴染の前だけだ。
それはある意味、とても分かりやすい。
「……どうしてこうも、不器用なのかしら。」
「え?」
「もういいです。これは私が持って帰って、また改めて咲季に連絡しますわ。…心配なら、ご自分で咲季に連絡すればいいと思いますわよ。」
「野梨子、」
煮え切らない幼馴染の態度に、野梨子は我慢の限界を感じた。
どうしてこうも自分のこととなると何もできなくなるのだろう。恋をする不安定さを知ったからこそ、別れを知ったからこそ、そして何より大切な彼女のことを考えると、野梨子は居てもたってもいられなくなった。
やや驚いた様子で野梨子を制そうとする清四郎の言葉を遮り、野梨子はさらに強く言い放つ。
鋭い視線と鋭い声色で、野梨子は苛立ちを清四郎にぶつけた。
「何を言われたか知りませんが、最近の清四郎ははっきりいってかっこよくありません。」
「な、」
「ずっと黙っていましたが、今の清四郎じゃ咲季を守るなんて到底無理です。出直していらっしゃいな。」
ぴしゃりと言い放ち、荷物をもってその場を去る。
ちらりと横目で清四郎を見ると、しばらくその場で立ちつくしていた。
野梨子は思いもよらぬ弱気な幼馴染に、そこまで傷ついていたのかと驚きつつも、言ってしまった勢いでそのまま教室を後にした。
そこで廊下に出た野梨子と、教室にいた清四郎、両方の携帯が鳴る。二人とも先ほどの話題のせいか少し緊張しながら携帯を開いた。
そこには可憐からのメール。「大変!」といつもの絵文字たっぷりの可憐のメールとは違う、緊迫感を感じさせるタイトルだった。
中身を開くと、「悠理、ご飯食べられなくなっちゃった!どうしよう!食べ物口に運べない!」と書いてあり、読んでいる間に美童からもメールが来る。
「幽霊見たって悠理は言ってるけど、何か関連あるかも。とにかく早く!」と、これまた普段のような絵文字のないメールに、ただ事ではない雰囲気を感じる。
するとすぐに清四郎が教室から出てきた。同じく携帯を手にしており、先ほど来たメールを読んだのだろう。
「野梨子。見ましたか?行きましょう!」
「ええ!」
野梨子の返事を聞き終わる前に清四郎は教室のドアの鍵を閉めて早足で歩き出した。
ずんずんと先を行く幼馴染の背中を見ながら、いつの間に彼は咲季にそんな背中を見せられなくなったのだろう頭の片隅で考えた。