7章
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その時の感情がどうであっても、世界は変わらずに動いていくものだ。
どんなに辛くても雲一つない青空は広がるし、楽しい気分も憂鬱な雨に流されてしまう。
教室から見える景色に咲季は誰にも聞こえないように溜息をついた。
遊園地での一件のあと、千秋さんからお礼の手紙と新作の手帳をもらった。
メリーゴーランドの前で言ってくれた一言に勇気をもらいました、という千秋さんからの手紙は、もらった手帳にそのまま挟んである。
千秋さんの審美眼はさすがで,フライングで頂いたその手帳は瞬く間にヒットした。
手帳を見るたび複雑な気持ちになるが,その使いやすさとデザインの良さから,私はその手帳を使っている。
あの日、清四郎を振り切って帰ってから1週間。
もしかしたら何か連絡が来るんじゃないかと考えていたがそれは全くの期待外れに終わっていた。携帯を何度か眺めたけれど特に連絡もなく、自分だけが気にしているようにも思えてきて、そのうち携帯を眺めることをやめた。
「聞いた?魅録さん今日もお車で来られたんですって。」
休み時間に手洗いに行き手を洗っていると、隣にいた女子生徒たちが何やら話をしていた。魅録はいつも自慢のバイクで登校してくるのが定番なのだが、ここ最近は家の車で送迎してもらっているらしい。
魅録と話をしたのは千秋さんとの一件があった遊園地が最後で、あれ以来校舎の中でも顔を見ていない。
「なんだか体調も悪そうだったらしいわよ。」
そんな女子生徒たちの会話になんとなく居づらい気持ちになって足早に教室に戻る。あの時の魅録の表情はよく見えなかったしよく覚えていない。
ただ魅録の声だけはとても重たく自分の心に響いていた。
自分がおそれていたことを突き付けられた気がして、さっと自分の立っている地面が抜けたように感じたのだ。
底が抜けて、どこか遠くまで落ちていきそうな感覚で、その場にいられなくなって走り去った。
今になって思うと、魅録に元気がないのはこの出来事のせいなのだろうか。
その後偶然とは思えないタイミングで清四郎に会い、腕をつかまれた時には胸がいっぱいになっていた。
正直言ってわからなかったのだ。清四郎の気持ちや行動や何もかもが分からなくなって、自分の気持ちも見えなくなっていた。
思えばいつからこんなことになったんだろう。
清四郎のことが好きだと気づいてから自分が自分じゃなくなってしまったようだ。
でも気づいたからこそ、その気持ちはずっと昔から抱いているものだと理解することもできた。自分でも気づかないくらいに清四郎が自分の隣にいるのが当たり前だと思っていた分、距離が離れることに敏感になっていた。自分の手から離れるときにやっとそのことに気づくなんて。
「大切なものは失ってから大切だと気づく」なんて昔の人がどこかで言っていたかもしれない。私も同じ轍を踏んだということだろうか。
『大嫌い』なんて言ってしまったことを咲季は今更になって後悔した。
こちらに帰ってきて危ない目にあった時に助けてくれたお礼だって言えていないのに、それでも手を差し伸べてくれた清四郎に対して正反対のことを言ってしまった。これで本当に元に戻れなくなったらどうしようか。
「いつまで私の話を無視しているんだ?」
「え?…あっ、緑川先生。」
「…まぁいい。放課後、私のところに来なさい。」
ノートに目を落としながら考えていたら、頭上から声が降ってきた。はっとして見上げると、そこには数学教師で学年主任の緑川先生がいた。
彼は今年から3年生の学年主任になったのだが、生徒指導に厳しい先生であるともっぱらの評判だ。
数か月前に手渡された有閑倶楽部対策マニュアルを作成したのも緑川先生の声掛けがきっかけだというのを理事長先生から聞いた気がする。
そんな先生の話を全く聞かずにうつむいていた咲季は先生の声掛けをずっと無視していたらしい。
運がいいのか悪いのか、その場で叱られることは免れたが放課後に呼び出しを食らってしまった。
クラスメイトが心配そうに視線を向けていたが咲季はただ一言「はい」と返事をする。その場はそこでおさまり、また緑川先生の講義の声が教室に響いた。
***
一方の有閑倶楽部の部室。こちらにはなんとなくどんよりした雰囲気が流れており、その発生源とも言える二人の男を交互に見ながら悠理が険しい顔をしていた。
その片方である魅録は奥のソファの部屋でだらしなく座り込み、窓に映る空を見ながらぼんやりとしていた。ほとんど昼に近い時間帯にのっそりとやってきたかと思えば、そこから今までずっとそんな様子である。
あまりにも気力のない魅録の様子にさすがの悠理もなんと声をかけて良いかわからず、かといって雰囲気も悪いため彼女なりに葛藤を感じているようだ。
しかしこの雰囲気を醸し出しているのは魅録だけではない。
中心にある円卓で、自分のポジションに座った清四郎は朝から山のように本を積み上げたかと思えば、読書はなかなか進まず時折溜息をついては隣に座る幼馴染を心配させていた。
「何なんだよこの空気…。」
「なんかこの前から変よね。」
ひそひそと声を忍ばせて悠理と可憐が顔を見合わせる。
野梨子もそっと目配せをして二人に相槌を打った。理由は誰にもわからないのだ。
最初は二人が喧嘩でもしたのかと思い、勇気を出して尋ねてみたのだが、全くそういうわけではないと清四郎が答え、「個人的なことです」と一蹴した。
魅録の方はなんだか複雑な表情をしていたが、そこから特に何も進展がないまま1週間が過ぎてしまった。
妙な雰囲気の室内はいつも以上に静かで悠理には少し居心地が悪い。
「なぁ。」
魅録が発した声にびくりと肩を震わせたのは野梨子だ。しかし魅録の視線はその隣にいる清四郎に注がれている。
清四郎は、魅録が自分に声をかけたということに気づくまで少し時間がかかったようで、「え?僕ですか?」と目を丸くしていた。
魅録はそのまままた自分がいたソファのところに行き、清四郎はその視線に促されるまま向かい側のソファに腰を掛けた。
女性陣は二人のただならぬ雰囲気に圧倒されつつもそれぞれが自分の作業をするふりをして聞き耳を立てていた。
「あのさ、」
「はい、なんですか?」
魅録はぐっと前に身体を起こして自分の膝に肘を立て、顔の前で手を組んだ。親指で額を支えるようにうつむいたため、清四郎からは魅録の表情がよく見えなくなる。
魅録のなんとなく苦しそうな声に清四郎は少し身構えながら魅録の次の言葉を待った。
「なんか、あった?」
「え?」
「清四郎元気ないじゃん。なんか、さ…あったの?」
「いや、…なぜそんなことを聴くんですか?魅録も元気なさそうですけど。」
「…。」
清四郎が逆に尋ねると、魅録はぐっと押し黙り顔を上げた。そのあと魅録は何かを考えるように二人の間にある机をじっと見つめたかと思えば、顔を上げて、今度は真正面から清四郎を見て口を開いた。
「咲季と、なんかあった?」
「…。」
今度は清四郎が押し黙る。その表情に変化がみられないのは流石といったところだが、魅録は清四郎の目が一瞬揺らいだのを捉えた。
聞き耳を立てていた女性陣も静かに目を合わせて、今度は二人の方に視線を送った。
清四郎の表情に変化は見られないが、何かを感じ取った魅録はそのまま言葉をつづけた。
「遊園地、で、」
「…何か知ってるんですか?」
「え?」
魅録の言葉を聴いて清四郎は遮るように口を開いた。魅録は話すのをやめ、清四郎を見る。
清四郎の表情はさっきとは打って変わって悲しげで、魅録はあの日の咲季の表情を思い出す。あまりにも二人が同じ寂しげな表情を浮かべていたので何も言えなくなってしまった。
そのまま魅録が黙っていると、清四郎はふっと笑みをこぼした。その笑いはとても楽しそうなものではなく、彼の自嘲であることは誰が見ても分かるほどだ。
「どうにも、うまくいきませんね。」
「……。」
「また傷つけてしまったんでしょうか。…魅録、何か知っていますか?」
魅録は衝撃を受けた。あのプライドの塊のような男が、今は自信のない表情を浮かべたまま自分に疑問を投げかけている。
清四郎にここまで思わせる咲季という存在もそうだが、彼の言葉とその様子は魅録にとっては大きなショックであり、彼は改めてあの時の自分の発言と行動が彼らを傷つけていると突きつけられていた。
「いや、…大丈夫だよ。」
「え…?」
「ごめんな。」
「なんで魅録が謝るんですか。」
この謝罪の言葉を清四郎は「何も力になれなくてごめんな」と受け取ったのだろう。今度は自嘲ではない友人に見せる笑顔を見せた。
魅録にはその笑顔が心に刺さり、乾いた笑いを返すしかできなかった。
違うんだ。あの時咲季を傷つけたのは自分で、清四郎は何も悪くない。何があったかは知らないが、清四郎の様子からあの後咲季と何かあったのだろう。
あの夜に咲季が居たことは俺しか知らないはずなのに、さっきの清四郎の反応だと清四郎も知っていたようだ。
自分の知らない二人のつながりに嫉妬するよりも先に、自分のやってしまったことの大きさにただただ後悔するばかりだった。
それでも清四郎はふっと笑って「今日は何か食べに行きますか」と言いながら立ち上がり、元の自分のいた席に戻っていった。
***
「浮かない顔をしていたが、なにかあったのか?」
「いえ…。」
咲季は放課後、主任室に呼び出され、緑川の課した仕事をしながらそう答えた。
緑川は厳しいと有名だが、品行方正、成績優秀な者に対しては例外である。
咲季の様子がおかしいとあって、緑川も何かを心配しているようだった。
相変わらず仏頂面であるのは変わらないが、自分の様子が普段とあまりにも違っていたのだろうか。
緑川は咲季の作業の手が止まっても、さして叱る様子もなく、黙々と自らの仕事をこなしていた。
「…。」
緑川はどうやら明日行われる小テストを作成しているようで、生徒たちが普段参考書として使用しているテキストを片手に何かを考えている様子だった。
咲季はそれを見ながら、今日の授業で回収したホームワークのデータ入力を行っていた。
手にしていた分が終了し、次の生徒の分を手に取ると、”菊正宗”の文字があった。
名前を見ただけでも胸が少し苦しくなり、ごく、とのどを鳴らしてつばを飲み込む。
平静を装って提出の欄に入力を行った。
「おっと。」
不意に緑川が声を上げたため、咲季は少し驚いてそちらを見た。どうやら緑川の携帯が着信したらしく、緑川はその画面を見て一瞬目を見開くと、少し嬉しそうな様子で目を細め、携帯を手に奥の部屋に入っていった。
「先生の嬉しそうな顔は初めて見たかも…。」
緑川の普段見せない様子に驚きつつも、咲季はそのまま入力を続け、最後の一人を入力して、ファイルを保存した。
んー、と背伸びをして壁にかかった時計を見ると18時前になっており、窓の外の暗さに納得する。
木枯らしの音が聞こえ、外が寒そうな様子がうかがえた。
早く帰りたい、と思った咲季は緑川の居るであろう別室の様子をうかがおうと席を立った。
「あれ?…なにこれ。」
緑川のデスクの上には先ほどのテキストが置かれていたが、その下に妙なものを見つけた咲季は、デスクに近づいた。
そこにはギラギラとしたチラシが書類の間に挟まっており、黒字に金の筆記体で何かが書かれていた。
チラシの端の方しか見えなかったが、いかにも高級そうで、妖しげな雰囲気を醸し出すそのチラシは、緑川が持っているとは思いにくい代物だった。
「没収でもしたのかな…。」
あまりにも似つかわしくない代物に、咲季は誰かから没収したものだと思い、そのままにしておいた。
緑川はまだ電話の途中らしく、奥の部屋の扉のわずかな隙間から話し声が聞こえる。
曲がりなりにも今日の手伝いは自分の過失からくるもので、咲季は何も言わずに帰ることに後ろめたさを感じ、緑川の電話が終わるのを待つことにした。
緑川の口調は授業の時よりも優しく、普段とのギャップに不気味さを覚えるほどだった。
咲季はその様子に、これまでに培われた好奇心を煽られたのか、ドアの向こうの緑川の話声に、控えめに聞き耳をたてていた。
「そうですねぇ………で、…ということになりますが…。」
「…。」
「学校生活は…ですから、……そうですね…万が一ということもありますし…。」
「?」
仕事の内容だろうか、学校の話となれば、咲季も会話の内容に興味のすべてが注がれる。
最初は緑川のデスクのそばに立ってそれとなく話を聴いていた咲季だったが、会話の内容が気になりドアに近づいた。
「そうですねぇ、300でどうです?」
「…?」
「ご参考までに、昨年度は平均で500くらいの相場でした。もちろん、金額と点数は比例いたしますから…そうです、はい、優秀な成績をお求めであれば…はい。」
「金額と、点数…」
「そうですね。それだけ頂ければまず間違いなく優秀生徒としての入学も可能です」
「え……!」
緑川の言葉に咲季は一瞬耳を疑った。金額、点数、入学、これらのワードから連想されるのは、たった一つしかない。
「はい、ではそのお約束で。はい、はい。」
緑川は話が付いたのか、嬉しそうな声色で返事をしている。そう言えば、この学園の入試委員長も緑川だ。
電話がかかってきたときの不気味な笑みは、このことを指していたのか、と納得がいく。
咲季はとんでもないものを聞いてしまったことの衝撃に、ドアから少しずつ後ずさりする。
瞬間、ドアが開き、緑川はそこに居ないはずの咲季を見て目を丸くした。
「高天原…お前、なんで…」
「……あ、いや、あの……その、」
「…何を聴いた?」
緑川の表情が一変し、険しい表情と気迫に咲季はそのまま後ずさりする。
必死で頭を回転させ、緑川の問いかけに何と答えればいいかを考えた。
「な、なにも聴いてませ、」
「そうか。」
咲季の答えに微塵も納得していない様子で、咲季の言葉を遮り、早々に相槌をうつ緑川に咲季は恐怖を感じつつも目をそらさなかった。
緑川は険しい表情はそのままにデスクに戻ると、何かのファイルを開き、入力し始める。
咲季が緑川の手の位置を横目で観察すると、何かを素早く入力した後、緑川の手は数字入力用のミニキーボードに伸び、「5」「0」「0」と入力したのが見えた。
「っ…!」
「…なんだ?」
緑川は咲季が息をのんだ声が聞こえたのか、手を止めて咲季の方を見た。咲季はぶんぶんと首を振って、すぐさま口を開く。
「あ、いや、言われていた仕事は終わったので、そろそろ帰りたいんですが…。」
「……ああ、わかった。流石、仕事が早いな。」
「いえ…」
「…せっかくだ、明日も私の仕事を手伝いなさい。」
メガネの向こうの緑川の目がギラリと光り、咲季は有無を言わさない緑川の口調に言い返す術もなかった。
「はい」と素直に返事をし、脇に置いてあった自分のコートを取って逃げるように主任室を出た。
バタン、と音を立てて締まるドアを見て、緑川は咲季の様子を思い返していた。
先ほどの電話の内容を聴かれていたとしたら?そう考えると一抹の不安が浮かび上がる。
彼女は生徒会役員の一人だが、あの厄介な有閑倶楽部の連中とはつるまない特殊で貴重な存在だ。
しかしながらその聡明さは、菊正宗清四郎、白鹿野梨子にも並び、いくら本人が「聴いてない」と言っていても、何かを勘ぐった可能性は高い。
「…このままにはしておけない、か」
緑川は小さくつぶやくと、背もたれに深く背中を預けて大きな息を吐いた。
今後も彼女を監視する必要があるだろう。賢い彼女は幸いにも有閑倶楽部の面々とはあまり関わりがないようだった。
聡明な彼女がこちらの思惑に確信を持つ前に、こちらで対応しておかなければならないと判断した緑川は、また一つ大きな息を吐いて、書類の山から黒いチラシを引き抜いて、その内容を読むわけでもなく目をやった。
***
翌日、咲季は昨日のことを誰にも言わずに黙っていた。
昼休みはあたたかな日差しもあり、何人もの生徒が手入れされた中庭で思い思いに過ごしている。
昨日のことについて、本当は帰宅途中に何度も野梨子か清四郎に相談しようかと考えていたが、確信が持てない内容であることに加え、そもそもこのことを彼らに告げたところで結果は目に見えている。
学園で起こったどんな問題も、解決するという口実で暇つぶしに使われてしまうことを実際に体験してきた咲季は、今回の事件に対して首を突っ込んでほしくないと直感的に感じていた。
「先生は絶対気が付いてると思うんだよね…。」
そう呟いて中庭を歩いていると、遠くの方で何やら大きな声が聞こえる。
他の生徒たちもその様子に気が付いたようで、道行く生徒たちはその喧騒をよけるように歩いていた。
通り過ぎていく生徒たちは、口々に緑川の文句を言っているようだった。
「緑川先生って、有閑倶楽部の皆さんのことは特別お嫌いですよね」
「本当に。どうして気に入らないのかしら?」
そう口々にささやく生徒たちとは反対方向に歩を進め、咲季は喧騒に近づいていった。
徐々に話し声は大きくなり、その内容が聞こえてくる。
「有閑倶楽部だ?馬鹿馬鹿しい。」
緑川がそう吐き捨てる声が聞こえ、咲季はわかっていたことだが足がすくんでしまう。
彼らには―特に清四郎には―会いたくないと直感的に感じた咲季は、その場で立ち止まってしまった。
「咲季、」
こちらに気が付いたのは一番後ろにいた美童だった。
その声に全員がこちらを向く。咲季の身体は一気に緊張が走り、こわばった。
それでも平然としなければ、そう思いぐっと力を込めて、一歩足を踏み出す。
「高天原。ちょうどいいところに。」
「はい…?」
予想に反して自分に声をかけてきたのは緑川だった。昨日のことを考えていたということもあり、内心複雑な気持ちになったが、そこは気をしっかりもち、返事をした。
自分の様子がおかしいことに、そこにいたどれだけの人間が気づいたか分からないが、一人は間違いなく、そんな彼女の様子の違いに気が付いたようだった。
緑川は先ほどまでの不機嫌そうな表情を少し和らげ、昨日のような不気味な笑みを浮かべて咲季を手招きした。
咲季はそんな緑川の様子を訝しく思いながら近づく。
「昨日はご苦労だった。おかげで助かったよ。」
「いえ。」
「腐りきった生徒会にも、お前のような人間がいてくれて助かる。」
「…。」
「なんだと?!」
咲季は何も答えなかったが、後ろから悠理がものすごい剣幕で緑川に怒鳴る声が聞こえた。その声の大きさに驚きながらも、表情を崩さないようにと神経を張った。
緑川は悠理を一目みると、はあ、とあきれた様子で溜息をつき、また咲季に視線を戻した。
「今日も頼みたい仕事があるんだ。」
「今日、ですか?」
「どっかの馬鹿が赤点を取ったからな。補講の資料を作らねばならなくてね。」
馬鹿、の部分で悠理を顎で指す仕草をしたことから、その馬鹿が誰を指すのか容易に理解できた。その証拠に、悠理は緑川の言葉にどう返したらいいのかわからなくなっているようで、ぐぬぬ、という唸り声が聞こえた。
しかし、緑川のその要求は、単に咲季に仕事を頼みたいという動機だけには思えない怪しさを秘めていた。
咲季自身もそのことは感じていたが、この場を収めるにはどう返答したらいいか、そう考えると答えはおのずと限られていた。
「わざわざ彼女に頼む必要があるのですか?」
もやもやと考えていると、後ろから声がし、足音が聞こえた。ふっ、と右側から見慣れた背中が現れる。
咲季は少し上に見える整えられた襟足を見て胸が苦しくなるのを感じた。
清四郎は一言そういうと、咲季を隠すように立ちはだかり、何も言わずに緑川を見つめ続ける。
そのただならぬ雰囲気に誰もが動けないままであったが、緑川がその様子にふっと笑みをこぼした。
「菊正宗、お前の頭脳は私も認めている。しかしな、お前たちが妙な活動をしている以上、私はお前たちを哀れに思うんだよ。」
「へえ」
「そこにいる高天原はな、腐りきった生徒会の中で唯一まともな存在なんだ。お前たちに汚されるわけにはいかない。…高天原も分かるだろう?」
「……。」
清四郎の背中をよけるようにしてこちらに視線を送る緑川と目が合い、その視線の鋭さに思わず背筋が凍った。
緑川の言葉は本当のようで本心ではない。この目は明らかに昨日の自分を怪しんでいる目であると即座に判断できた。
咄嗟に咲季は清四郎の背中を通り過ぎるように一歩踏み出し、緑川に近づく。
その様子に清四郎が目を丸くし、後ろにいる他の面々も小さく声をあげて驚いた。
「お仕事ってなんですか?私でよければ、お手伝いします。」
「……やはり、お前はこの馬鹿どもとは違う、本当に聡明な子だ。」
「……。」
緑川の言葉には極力反応を示さないように配慮し、咲季は緑川の促すままに有閑倶楽部の面々から背を向け続けた。
後ろでみんながどんな表情をしているかはわからないが、緑川の鋭い眼光は少しだけ柔らかくなり、咲季はそちらのほうに安堵する。
このまま主任室に来るように言われ、咲季は去っていく緑川の後ろについて歩いた。
その間も振り返ることなく、そのまま歩を進めていく。後姿を見ながら、清四郎は勇気を出して行った自分の行動が彼女に響いていないことを感じていた。
「なんだあれ…。」
ぼそりとつぶやいた美童の言葉に誰もが共感したが、魅録、清四郎、野梨子はそれぞれ違った感情を抱いていた。
以前よりも脆く感じる彼女の背中に罪悪感を感じていた魅録は、覇気をなくして寂しげに彼女の背中を見送る清四郎を横目で見てため息をつきそうになるのをこらえた。
野梨子はというと、彼女が一瞬見せた戸惑いを見逃していなかった。そして、おそらく咲季にだけ向けられたであろう緑川の眼光に違和感を感じていた。
咲季のことだ、自分たちに迷惑をかけまいと何かを考えたのだろうが、その行動はかえって野梨子に不信感を抱かせる結果となってしまった。
目の前で立ちすくんでいるもう一人の幼馴染もそうだが、彼女のことになると二人は途端に重い空気を醸し出す。
どうにかしてこの空気を解消するのが咲季の計らいのせめてもの助けになるだろうと、野梨子は「行きましょう」と一言声をかけて歩き出すしかなった。