5章
夢小説設定
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騒々しかった部屋の中は一気に静まり返った。
さっきまで野梨子を追いかけまわしていた校長と教頭はその場で目を丸くし、口をパクパクさせながら咲季を見ている。
彼女はそんな二人に動じず、同じようにそこに立っていた。
「な、なぜここに…!」
「すみません。連絡が遅れてしまって…」
「咲季!」
慌てる校長に、以前のような冷静で凛とした表情をした咲季が少しだけ申し訳なさそうに校長を見た。
大きな声で悠理が咲季を呼ぶ。その声に弾けるように皆が我に返った。
昨日何も言わずにいなくなった咲季を、夜ぶりに見た清四郎はその場を動けない。
魅録は彼女の雰囲気に違和感を感じながらも、素直にこの場所に彼女がいることに喜びを感じていた。
そして。
「咲季、どうして…」
野梨子は喜びよりも驚きの方が大きかった。なぜなら彼女自身が彼女の帰国を黙っていてと言っていたからだ。
自分の所為で危険な目に遭って、あれはつい昨日のことだったはず。
なぜ今ここに、平然としてここに立っているのだろうか。
「とりあえず!」
「?」
「校長室まで来てください、話はそれからです!」
校長先生の声に、咲季に話しかけていた悠理や可憐は邪魔をするなとばかりに校長たちを見た。
睨み合う4人を押しのけ、美童が咲季の前にやってくる。
「久しぶり…、だね!あ、咲季、腕の怪我は大丈夫?」
美童がいつもの爽やかな笑顔で話しかけると、咲季は想像していたのとは違う反応をした。
一瞬動揺したような目に、美童は違和感を覚えるがそのまま続ける。
いろいろ大変だったね、だとか、今日はこの後どうするの、だとか。
あの日がそのまま戻ってきた、そんな風に。
しかし、咲季は美童の言葉に対して、口元に笑みを浮かべただけで何も返さなかった。
何かおかしいと思ったのは、もちろん美童だけではない。
いつものように笑っているはずなのに。魅録は何も言えずに咲季を見た。
目があった、がすぐに逸らされる。それも自然に。
「はぁ…とにかく!高天原君は私たちと一緒に行きましょうか!」
「ちょっとー!!」
「咲季!いかなくていいからさ!一緒に皆で遊ぼうぜ!」
満面の笑みで咲季の手を取る悠理に、咲季は少しだけ体をびくつかせる。
その挙動を清四郎は見逃していなかった。腕が痛んだのか?それも考えたがどうやら怪我をしたのとは別の腕のようだ。
悠理を止めに入ろうと、口を開こうとした時だった。
それはとても静かだった。おそらく本人も、それを認識するのに少しの時間がかかっただろう。
咲季を除いては。
「え…咲季………?」
悠理の声がその静寂の中で聞こえる。咲季は静かに悠理の手から自分の手を振りほどいていた。
恐ろしいほどゆっくりと、落ち着いた様子で行われたその行為に、悠理はされるがままにその腕を諦める。
それに驚いたのは悠理だけではない。その場にいた全員が想像できなかった行為だった。
「校長先生、教頭先生。申し訳ありませんが、先に校長室で待っていていただけませんか?」
「…あ、あぁ~…わ、わかりました!待っていますよ!」
「ありがとうございます」
そそくさと撤退する彼らを視線で見送り、ぱたんと音を立てて閉まった扉を見終えると、咲季はふぅと息をついて顔を上げた。
その姿に先ほどの出来事で動揺していた悠理たちもほっとする。
この間まで一緒に笑いあった咲季が戻ってきたんだ。魅録はかける言葉に悩みながらおずおずと咲季に近づいた。
「おかえり、咲季」
「魅録…」
「…」
少しだけ棘の無くなった咲季の声に、心を乱されたのは清四郎だった。いつの間にここまで距離を縮めていたのだろうか。
眉間に皺がよる。険しい顔をしていることは自分でもわかっていた。気づいた野梨子が小さな声で「清四郎、」と宥める。
それをありがたく思いながら一言ぽつりとお礼を言って咲季に視線を戻すと、咲季は清四郎を見ていた。
思わず目を見開く。
「清四郎、昨日はごめんね」
「いや…」
「皆も、ごめんなさい」
深く頭を下げる咲季に、悠理が慌てて声をかける。それに同調するように、可憐や美童も咲季の顔を上げさせた。
咲季はそんな3人に促されるようにして顔を上げる。浮かない表情が気になるのか、魅録は笑っていなかった。
途端に咲季は表情を明るくして、皆の方を向いた。
「今日からまたここに通うことになったの」
「今度は、卒業まで?」
「うん」
魅録が恐る恐る尋ねると、咲季はすぐに返事をした。その言葉に皆が安堵する。
野梨子だけが、心配そうに咲季を見ていた。
「だけど、ここはもうこれで最後」
「………え?」
先ほどよりも大きな声で、咲季はそう言った。
一瞬で部屋の空気が止まった気がした。明るい外、柔らかな日差しが差し込むこの部屋で、咲季の表情はそれにとても似合っていた。
優しい、柔らかな笑顔。目を細めて、魅録を見ている。
みんなを、見ている。
「咲季…どういう…」
「そのままの意味だよ」
何言ってるの、そうやって今にも笑い出しそうな表情で答える彼女は、この部屋の空気には似つかわしくない。
プルプルと拳を震わせているのは悠理だ。首を横に振って事実を否定するのは可憐だ。
目を伏せて何も言えなくなっているのは美童だ。魅録は彼女の美しい笑顔に目が離せなかった。
なんで?という言葉とその表情がぐるぐる回る。
「ここに来るのはもう最後。別に皆と友達をやめるっていうわけでもなんでもない」
「咲季…」
「ここに来る前の、いつもの自分に戻るだけ」
息を静かに飲んだのはそれまで何も反応を示さなかった清四郎だった。
彼は心のどこかでこうなることを予期していた。無理矢理この場所に連れてきて、済し崩しで彼女をこのコミュニティに参加させた。
自分勝手な自分の行動に、彼女がこのままついてきてくれるわけがない。昨日の朝、そこにいてほしいと思っていた彼女がいなくなったベッドを見てそう思った。
微塵にでもついてきてくれると思ったなら、それは彼のエゴだ。
「それじゃ…」
咲季は皆の返答を待たずに踵を返して部屋を出て行った。誰も止めなかった。止めたいと思う気持ちはあるが、動けなかった。
出ていく彼女の背中を見て、静かに閉まったドアを見つめた。ぱたっとその場に座り込んだのは可憐で、大きな音を立てて机を殴ったのは悠理だった。
「んで…!なん、で……!?」
悠理はボロボロと涙をこぼしながら言葉を吐いた。
初めての拒絶に怒りと悲しみが混同する。
静かな部屋には悠理の苦しそうな声が響いた。
ほかには誰も、口を開かない。
そんな部屋の中にチャイムが鳴り響いて、窓の外が騒がしくなる。野梨子は瞬きを数度して、外に目をやった。
噴水の広場で彼女と抱き合った時、もう一度戻ってきてくれると思っていた。
誰もが今日、またあの日の時間が動き出すと確信したはずだろう。
だけど彼女にこの選択をさせたのは誰だろう。誰が悪いわけでもない。でもこの選択は間違ってなんかいない。
私が引き留める資格も、おそらくはないのだ。
だから誰も何もいなかったのだ。彼女がつらい思いをしたことを、みんなわかっているのだから。
***
ドアの閉まる音とともに、私の緊張の糸は切れた。
「………」
数分前のあの時のように、鼻がつんとして上を向く。息を吐くと震えて声が出そうだった。
それでもあと少しだと言い聞かせて、歩いていく。誰もいない空き教室に入って、ドアを閉めると私はその場に崩れる。
緊張の糸が完全に切れると、決壊しかけていた私の心はあふれた。
「ごめん…皆…ごめんね……」
口にすると心は思っていたよりもずっと素直になって、ぽたぽたと頬を伝った。
座り込んだ床の冷たさと、頬を流れる涙の冷たさが沁みた。
途端に皆と過ごした日々がまた頭に流れていく。
それでも最後は同じ人だ。自信過剰な笑み。私を守る背中。
包んだ匂い、声、手、腕…どうしてもう手に入らなくなると、記憶は鮮明になるのだろうか。
「せい、しろ……っ…」
愛しいと気づいたころには遅くて、そしてもう忘れようと思っていた。
昨日目が覚めた時も、夢なのではないかと思った。懐かしい香りで思い出したのは小さなころのことで、それと同時に、もうどれくらいあの時のように笑い合ってないのかな、と考えていた。
いつから「好き」なのかもよくわからない。本当はもっとずっと前から彼のことばかり考えていたのかもしれない。
気づいたときには遅くて、臆病で、もう踏み出せないし踏み出しても遅いのだとわかっている。
さっき清四郎は何を見ていた?私の何を見つめていた?
強くならなきゃと暗示をかけることでしか、私はあの場で立っていられない。
そうよ、強くなる。
「…行こう…先生たち待ってるよね…」
ぐっと足に力を入れて立ち上がる。乱暴に涙を拭ってふぅと長く息を吐いた。
二度目の決心は決して揺らがないと心に決めた。
がらりとドアを開けて、また歩き出す。さっきよりも世界が広く見えた。
すっきりしたわけじではないが、余裕ができたように思う。
割り切ろうというこの気持ちを清四郎は怒るかもしれない。野梨子は心配するかもしれない。
あの後みんながどうなったかもわからない。
でも自分が手放したんだ、もう考えるのはやめよう。
***
机に向かってみんなで座っているところに、扉を開けて入ってきたのは可憐だった。
化粧はきれいに直っていて、ぱちぱちと瞬きをするために長いまつげが踊る。
野梨子が紅茶を入れて、美童が茶菓子を可憐の前に置いた。
「ありがと」
「可憐、元気出せって」
うん、と小さく頷いて、可憐は席に着いた。隣から野梨子が紅茶を差し出し、可憐はそれを受け取る。
泣いた後だろうか、化粧は直ったが少しだけ目が赤い。
ほかの皆もあまりうかない顔だったが、可憐は紅茶を一口飲むと「うん」ともう一度言った。
「あたしね、思うの」
「可憐?」
「咲季は…別にあたしたちと離れ離れになったわけじゃない」
その言葉に魅録がぴくりと反応する。ほかの皆も、可憐の言葉に驚きながら手を止める。
可憐は皆を見回しながら言った。
まるで自分に言い聞かせるようにも見えたが、彼女は言葉をかみしめるように続ける。
「ここにこないだけ、って言ってた…。それって話しかけるなとか、もう遊ばないとか、そういうわけじゃないわよね?」
「……でも、」
「あたしは、信じる」
「!」
遮ろうとした美童の言葉を目で制止し、可憐はそう答えた。言ってすぐに目を伏せたが、すぐに顔を上げ、皆の方を向き直った。
自信に満ちた目だ。いつかの魅録のような、いつかの、清四郎のような。
「咲季ね…悠理を振り払った時、辛そうだったの…一瞬だけだから、勘違いかもしれないんだけど」
ぽつりと言った可憐の言葉に、美童は彼女に感じた違和感をもう一度思い出していた。
あれが悲しみを抑え込んだ結果だというのなら、その悲しみは僕たちとのしばしの別れから感じたものであってほしい。
「だからあたしは咲季が…あたしたちを嫌いになったりしてないって、信じるわ」
「可憐…!……そうだ、そうだよな!また咲季とおもしれーこといっぱいできるよな!」
「うん、あたしはそう思いたい。皆にも、同じように思ってほしい。そうすればまた同じように笑えるんじゃないかしら」
可憐と悠理は意気投合して顔を見合わせて笑う。皆に同意を求めるように笑顔で視線を向けてきた。
こらえきれず魅録が吹き出す。どんだけポジティブなんだよ、と。
野梨子も笑った。美童も。清四郎はそれを見て安心する。
咲季、君が戻ってくるところはちゃんとありますよ。そう思いながら笑う。
だから願わくば、もう一度ここに戻ってきてほしい。
ちゃんと謝ろうじゃないか。まだあの約束は保留だ。
どこかで泣いているのかもしれない。それとも割り切ったかもしれない。
どちらにせよ、清四郎は伝えたいことが見えた気がした。
もう一度ここに集えるように。
今ここに、何のシナリオも作戦もない、大きな有閑倶楽部の事件が小さく始まった。