5章
夢小説設定
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しばらく携帯電話を握り締めていたが、ふっと我に返り、ピアノの上に携帯を置いた。
グランドピアノは諒の部屋にあるものよりも安いが、そこそこのピアノだ。
蓋をあけて、白い鍵盤をひとつ、指で押す。
「ラ……」
ポーンポーンと何度も何度も同じ鍵盤を叩く。
窓の外は少しずつオレンジ色になって、私はオーストリアに来て久しぶりに夕焼けを見た。
黙って椅子に座り、日本でよく歌っていた歌を歌う。
泣いた後でうまく歌えないが、いつもの練習の時の「歌えない」とは違う。
何も考えずに、いや、ただ日本でいた時の楽しかった日々を思い出して、歌う。
その気持ちを声に、音にしただけの、叫びとも言える歌。
強弱も発音も何も気にせず、お腹の底から出てくる呼吸にのどを震わせる。
ああ、歌うって、こういうことか。
そう思うと、途端にあの頃に戻りたいという想いが募る。
「寂しい、よ…」
歌をやめて、背もたれに体を預ける。
日本の夕焼けとは違う、紫色の寂しそうな空。
「認められなくたっていい…皆に…会いたい………」
部屋の外で、咲季の歌を聞いた諒は、どこが調子が悪いのだろうと疑問を感じた。
彼女の声は、少し掠れてはいるが、何も変わってなどいない。
あの凛とした声。ビブラートにこもった想い。その表現力と技術。
「なんで…?」
何も、悪い所などないというのに。
そんなとき、歌が止んだ。
諒は扉の向こうの咲季の声に耳をすませる。
「!………」
その言葉に、自分が何をしたのか、一気にフラッシュバックした。
諒は黙って咲季の部屋を去ると、上着を片手に家を出る。
そのまま大学に向かい、咲季の先生を訪ねた。
***
「あら、諒」
「…こんにちは、シュミット先生」
咲季の講師であるレナ・シュミット先生は、研究室で一人、楽譜を眺めていた。
咲季に歌わせる歌をこれからどうしていこうか、そう悩んでいる時に、諒が部屋を訪れたのだ。
「あの、」
「諒」
「…はい」
こちらが話しかけるよりも先に、シュミットは口を開いた。
初老の彼女は楽譜を読むために掛けていた老眼鏡を少し下にずらし、入口に立ち尽くしている諒を見据える。
「どうしてあの子を無理矢理連れてきたの?」
「ッ…!」
シュミットの問いかけに、諒は息をのむ。
まさしく、今自分が悩んでいる核心に触れたのだ。
「…咲季は…」
「さっき…咲季の歌を、聞きました」
「そう…どうだった?」
諒は声を絞り出して、先ほどのことを話した。
シュミットは眼鏡をはずし、諒のほうを向く。期待と、諦め。
そんな表情を浮かべた彼女に、諒は正直な感想を伝えた。
「とても…素晴らしかったです…」
「!」
「でも、その後彼女は言いました…。皆に、会いたい、と…」
それを言った時、自分がやってしまったことに気がついたのだ。
彼女の最高の歌を支えるものを、自分が奪ってしまったのだと。
ただ、彼女と一緒に居たいがために。
「…だから言ったでしょう…?おかしいと思ったのよ…急に"明日そちらに向かいます"、なんて…」
「こうでもしないと…こうでもしないと、咲季はここには来てくれなかった…!」
本当はいつでもよかったのだ。
彼女の実力があれば、卒業してから別のコンクールに出てもよかったのに。
ただ自分が咲季と過ごしたい、それだけのために嘘をついて、彼女をここに連れてきた。
「…俺は…最低ですね…」
自分でそう呟いてから、どうしようもない感情が襲ってきた。
どうしたらいいのかわかっている。
でもしたくない。でも、やらなきゃ自分の望む音楽はできない。
「咲季をここに呼びなさい…」
「…え……」
「いいから」
「…はい」
シュミットはそう告げるとどこかに電話をかけ始めた。
諒は言われたとおりに咲季をここに連れてくるために一度家に戻る。
いまだに部屋から出てきていない咲季に、ドア越しに声をかけた。
「咲季…?」
「…何?」
中から遅れて帰ってきた声に少し安心して、諒は少し頬を緩ませる。
そしてもう一度名前を呼び、用件を伝えた。
「シュミット先生が、今すぐ研究室に来いって」
「え…」
「俺、先に行ってるから…きてな」
返事を聞く前に、部屋の前から去った。
二階にある咲季の部屋から、一気に一階の玄関まで行くと、二階からドアの開く音がした。
***
諒に言われて部屋を出て、私は玄関まで降りてきた。
もう諒の姿はなく、先に行ってしまったのだとわかる。
私もその後を追うように、家を出た。
もう日が暮れてしまった大学の中を早歩きで進み、一週間で通いなれた音楽棟へ急ぐ。
シュミット先生の研究室に入ると、中には先生と諒がいた。
「あ、あの…」
「咲季」
「は、はい!」
シュミット先生が名前を呼び、手招きするので、私は黙ってそれに従う。
楽譜や書類でいっぱいの机の上に、一枚の封筒。
「はい、これ」
「…え?」
「これで、日本に帰りなさい」
「……え…?」
一気に頭の中が真っ白になった。
先生の表情はいたって真面目で、私は訳がわからなくなって諒の顔を見た。
諒は悲しそうな、でも諦めたような笑顔で、私にほほ笑む。
「どういう、ことですか…!?私はここで頑張る価値もないということですか…!」
「貴方ね、大切なものが欠けてるの」
「えっ…?」
「昔は持っていたのに、ね」
先生はふぅ、とため息をつくと、ほら、と封筒を手渡した。
私は受けとったそれの中身を見る。
中には日本行きのチケット。
今夜7時のものだった。
「え…今日…!?」
「早く戻って、置いてきちゃったものを取り戻してきなさい。それができるまではこっちには来なくていいわ」
「せ…先生…」
私が泣きそうな声で先生を呼ぶと、先生はふっと笑った。
「貴方の本当の歌が聞けるまで、私は待つわ」と言って、体を机に戻す。
諒のほうを向くと、時間がないから行こうか、と言って私の手を引いた。
引っ張られるがままについていく。
家に戻って支度しよう、と言われて、私は言うとおりにした。
「とりあえず、手荷物だけ用意したら後は送るから」
「う、うん」
「空港まで、送っていく」
車を用意して、諒と一緒に車の後部座席に座る。
展開が急すぎるというか、何もかもが私の頭の処理能力の上をいっている。
頭の中を整理するのに必死で、何かを喋る余裕もない。
しばらく二人とも無言だったが、もう少しで着く、というころに諒が口を開いた。
「あんな、咲季…、無理矢理連れてきて、ごめんな」
「え…?」
諒は泣きそうな声でそういうと、今まで前を向いていた顔をこちらに向ける。
この状況を飲み込むことに精一杯の咲季だったが、彼の悲し気な表情に思考が落ち着いていくのを感じた。
「俺な…咲季がどこかに行ってしまう前に、連れて行きたかった。…でも、俺が間違ってたわ。…日本に、戻り。そんで、また一緒に音楽やろうや。」
「……うん…!」
最初は力のない声色だったが、最後の一言にはしっかりと思いが込められていた。
私が返事をした直後、車は空港の玄関の前で止まった。
諒と共に車を降り、中に向かう。
諒はここまでで、堪忍なと言って、空港の中には入らなかった。
こうして私は、日本に戻ることとなった。
***
「ふわぁ~…」
「大きな欠伸ですね」
「寝不足」
悠理の念願かなって、6人が生徒会室に集まっていた。
一週間という時間が、少し彼らの心に余裕を持たせたのだろう。
少しずつ以前のような日常が戻っていた。
可憐が黙々とラブレターを読んでいる。
数は野梨子に負けたが内容は!と意気込んでいるのだ。
「…私、そろそろ帰りますわ。」
「?…どうかしたんですか?」
お茶をたて終わった野梨子は、不機嫌そうに立ち上がった。
先ほど皆に恋愛のことでからかわれたから、というのもあるが、純粋に終業のベルが聞こえたからである。
皆は久しぶりに集まって話したいことがたくさんあるらしく、野梨子は一人で帰ることにした。
銀杏の並木の道を歩く。
部活動に参加していない生徒や、3年生がまばらに見える帰り道。
「ねぇねぇ、俺たちと遊ばない?」
運悪く、ガラの悪い男たちに絡まれてしまった。
ここには清四郎も魅録もいない。
助けを呼びたくても呼べない中、一人の男の声が響いた。
***
「…日本だ……。」
日本に戻ってきた咲季は、車を呼び、そのまま家に戻る。
時差の関係で、日本は太陽が少しだけ傾き始めた夕方だった。
本当ならすぐにでも眠りにつきたいところだが、少しでも日本の空気を味わいたくなって、執事に携帯の契約を頼んでおいて、家を出て散歩をすることにした。
足は自然と聖プレジデント学園のほうに向かう。
学校近くの銀杏の木の道の先には、大きな噴水がシンボルの公園。
たった一週間しかここを離れていないのに、とても懐かしく感じる。
「…あれ?」
ふと眼を凝らして見ると、噴水のところに見慣れた人影がある。
咲季はもしや…と思いながら足を進めた。
やはり、予想通り、その姿は野梨子だった。
野梨子の正面には男の人が立っている。
「男…?」
あの男嫌いの野梨子が男と喋っている…?
告白でもされたのかと思ったが、振り返ってこちらに歩きだす男の口元には傷がちらりと見えた。
野梨子に殴られた紅葉の後はない。
「??」
野梨子の様子もおかしい。
自分の肩を押さえて、遠い目をしてこちらを見ている。
私に気付いていないのは、きっと今私の横を通り過ぎようとしている男の背中を見ているからだろう。
「…」
私はすれ違いざまにその男の横顔を見る。
なるほど、野梨子の周りには全く寄ってこないタイプだ。
「…ふむ……」
この展開に何も分からないが、少し頬が緩んでしまう。
私はそのまま歩みを止めず、噴水の前で呆然としている野梨子の名前を呼んだ。
「野梨子!」
「…はいっ………え…?………ど、…どうして…!」
野梨子は間の抜けた返事をした後、何も言えなくなっていた。
私の姿に心底驚いているようで、おろおろしている。
その様子がおかしくて、私は笑った。
「い、いつ…!!」
「ついさっき。…なんかあった?」
「え?ええ…って!!そんなことよりっ…!」
一気に大きな瞳に涙がたまる。
私は訳がわからなくて、両腕をつかんで前後に揺さぶる野梨子にされるがままだ。
だがすぐに野梨子の呟きに、彼女の涙の理由を悟る。
私は力を入れて彼女の力に抵抗し、野梨子の力を受け止める。
「ごめ…っ…なさ……っ!わ、わた…くしっ…」
「いいんだよ、野梨子」
「でもっ………!!!」
野梨子にほほ笑みかけると、眉間にしわを寄せて、泣きながら謝ろうとする。
私はそんな野梨子を静かに制した。
「…野梨子」
「は、はいっ……!」
私は野梨子の顔を覗きこんで笑った。
「…ただいま」