〈死後九百年の、二年前〉
あ、と間抜けな声が喉から漏れた。
油断した、と思った。
「……また魔獣討伐ですか?」
すっと細めた青い眸に不満を乗せ、少女は一枚の紙を押し返した。
「先週も行きましたよ」
「そうなんだけどさ、今度は違う奴らしぃんだわ。アリスちゃんでも一日で終わると思うし、実践積むと思って、ほら、ね?」
ギルドのオーナーが明け透けな口調で再び紙を手渡してくる。分厚い布で覆われているが、その下は笑っていることだろう。
アリスと呼ばれた金髪青眼の少女は、唇をとがらせ、しぶしぶ紙を受け取った。
アリスは大陸的組織、騎士警備団に所属している。そこでは、普段の業務以外での小遣い稼ぎが認められており、王都街のギルドに寄せられた依頼を引き受けることができる。
今回受けたのは、王都より東の地区にある森の結界確認と魔獣討伐。
魔獣――その血に瘴気を宿す魔物は、土地や農作物を汚染することがある。生態系を乱さないために、結界が張られている森は少なくない。その期限が切れていないかの確認と、もし魔獣が出た際には討伐しろ、ということらしい。
少女一人で引き受けられるものだから、危険度はかなり低いのだろう。ほぼ雑用扱いだ。
「……よし。切れてないね」
結界灯の灯りが消えていないことを確かめる。あとどれくらいもつか見て、制服のポケットに入れていた手帳に書き留めた。まだひと月はもつ――
「……?」
ぱ、と視界が暗くなった。まだ昼間なのに。
後ろで息づかいが聞こえていた。
「『ヘルバ・スティルプス』」
振り返ると同時に草魔法を詠唱する。ギャッと短い悲鳴が上がったと思えば、そこには野犬がいた。額に赤黒い角が一本生えている。魔獣の一種だ。唱えたとおりに蔓草が出現し、それの体に巻きついていた。
「魔獣……どうして? 結界の効果は残ってるはずなのに」
犬の魔獣を拘束したまま、結界灯を顧みた。灯りが消えている。
「え? ……え、なんで――」
ぐるるるるるる、と低い呻き声が地を這う。つい気を緩めたからか、野犬の体を締めつけていた蔓が外れていた。
それは一瞬身を低め、助走をつけて飛びかかってきた。
あ、とアリスは間抜けな悲鳴を漏らす。
油断した。
犬型魔獣が少女の右肩に食らいつき、鋭い歯が柔らかい肌に刺さりこんでいく。反対側の肩を激しく叩きつけるように前足をばたばたさせ、後ろ足はアリスの膝の上にめりこむ。身の焦げるような熱さと鈍い痛み。ぐ、と耐えるためにアリスは唇を強く嚙んだ。花びらのような唇から血が滲み、微かな鉄の臭いが鼻をついた。
痛い。熱い。
反撃できないわけじゃない。そうするだけの方法はある。ただ、魔獣の最大の脅威はその血だ。瘴気――毒の気を帯びた血だ。触れた人間は呪いを負うか、命を失うか。この距離で魔獣に攻撃すれば、どうやっても血が降りかかってくる。
痛い。
痛い。
頭が朦朧とする。
これじゃ犬死にだ。
――そういうときは、吹っ飛ばせばいい。
咄嗟に脳裏をよぎったのは誰の助言だったか。
「……っう、『ヴェントゥス』」
そろそろと左手を野犬にかざす。体の中心から末端へと魔力が流れていき、それは風となって具象化する。眼球に空気がぶつかり、ギャン、と一声上げて肩から歯が離れた。唾液と血液で湿った肩を庇い、アリスは立ち上がった。
魔獣に手の先を向け、再度唱える。
「『ヘルバ・スティルプス』」
蔓草で縛る。指先をぴっと横に振り払うと、蔓が強く締めつけ、犬は動かなくなった。
討伐完了。
最寄りの教会から神父様を呼んで、死骸を浄化してもらうとしよう。ついでに肩の手当てもしてほしい。
痛いものは痛い。痛いとしか言えない。
少女は顔の右にかかる金髪を耳にかけ、深々と息を吐いた。
深い、苦い草の匂いがした。