〈死後九百年の、二年前〉
屑兄と喧嘩した。
「……あの馬鹿兄が」
不貞腐れたように呟き、青年はベッドの上に寝転がった。苛々と天井をにらむ碧眼は宝石のようで、彫刻のように端正な顔を彩っている。下ろした銀髪をいじりながら、大きく息を吐いた。だんだん落ち着いてきたかと思うと、シリウスのばぁか、と子どものように吐き捨てた兄の顔が浮かんできた。顔を顰めて寝返りをうつ。
銀髪碧眼の青年――シリウスは、いま実家にいる。
王都より西の地区に、彼の生家、スティーリア公爵邸はある。ギルドで引き受けた依頼を終え、本拠へ帰る前に立ち寄ったのだ。
正直帰りたくなかった。いろいろと面倒だからだ。
しかし乗っていた馬車が故障したのでしかたがない。馬を休めるにもちょうどいいタイミングだろう、と割り切って一晩だけ泊まることにした。
それで、まあ、……予想通り、面倒だった。
帰ったと声をかけた瞬間、満面の笑みで集まってくる使用人たち。両手を広げて飛びついてくる公爵夫妻。何故か後ろで知らん令嬢たちを両脇に侍らせている兄。思ったとおりのカオスだった。騎士警備団に入団する前は、毎日見ていた光景である。慣れていたあの頃が恐ろしい。
無事に夕食を終え、ソファで本を読んでいると、兄がやってきた。長い脚を自慢するように組み、どっかりと横に座る。
「何か用か。オリオン」
「いやぁ、別に。珍しいね~、お前が帰ってくるなんてさ」
父親に似た亜麻色の髪を爽やかにかきあげる。兄――オリオン・V・スティーリアは緑玉のような目を細め、人当たりの良い笑みを浮かべてみせた。
「ぶっちゃけ帰ってこなくていいんだけどなぁ。そりゃ父さんも母さんも喜ぶけどさ。お前が騎士警備団で何してるか、食事のときにわざわざ話してくれなくてもオレは知ってるわけだし」
どこで仕入れてるんだ、そんな情報。別に要らんだろ。
シリウスは無言でページをめくった。無視だ。無視に限る。
「なあ、ところで、アリスってどんな子?」
手が止まった。顔を上げず、視線だけ兄に向ける。
「……どこでそれを」
「んー? そんなのどうだっていいだろ。それより、なぁ、教えろよ。どんな子?」
無駄に華やかな顔面を緩ませているが、オリオンの緑玉の奥は笑っていない。
幼い頃から同じ表情をよくしていた。自分より優秀な弟の足をどうやって引っ張ろうか、と考えている顔だ。いつもなら、しょうもない、と一蹴するのだが、
「ただの部下だが。……おい、どこまで知ってる?」
「うん? そうだね~……お前がめちゃくちゃ気に入ってて、超可愛がってるってとこまでかな。なぁ、お前がそんなに執着するってことは、相当可愛いんだろ? 抱き心地よくって柔らかいんだろうなぁ。いいな~オレもほしいな~。そういう可愛い部下ちゃんがいればさぁ、つらぁい日々でも乗り越えられちゃうよなぁ」
「お前のような屑にも、いくらでもいるだろうが」
間延びした口調に、シリウスはむっとする。まるで幼い子どものように、素直に顔を歪めて、本をぱたんと閉じた。
兄は屑である。特に女癖が悪く、婚約者がいるというのに治まらない。先ほど侍らせていた令嬢たちもそれである。しかも、会うたびに面子が変わるのだからタチが悪い。いったい何に惹かれるのか。
「あの子たちとは別だよ。所詮、遊び相手を求めてる関係なんだから長続きしないもん」
屑だ。まったくもって屑だ。
「だからさぁ」
オリオンが前髪を指でいじりながら、足を組み替えた。
「一晩でいいから、貸して? その、アリスちゃんって子」
唇が閉じ切らないうちに、シリウスは立ち上がった。兄の襟元を鷲掴み、顔をぐっと寄せる。
「ふざけてんのか」
いい加減、気付いてほしい。素っ気ない、不愛想な返事はシリウスなりの警告だった。
オリオンはにやけた笑顔でなおも言い募った。
「あ? なに、そぉんなに好い子なわけ? お前もやっぱ男だね~……婚約者決めずに全部はねのけてると思ったら、やっぱちゃんと捕まえてんだね?」
「黙れ屑」
急所を蹴ろうとしたら、足をぎゅっと組んでガードしていた。シリウスは舌打ちする。その瞬間、頭をぐいっと後ろに引っ張られた。低い位置で結わえていたのをそのままオリオンが掴んだようで、ぶちぶちと小さな音が聞こえた。
「いっ」
皮膚を揺るがす強い痛みに耐えかねて、襟元から手を離す。同時に兄の手も離れ、ぱらぱらと何本か銀色の髪がソファに落ちた。
痛ぇな、髪引っ張ることないだろ、と抗議しようとしたとき、使用人が入ってくるのが見えた。反射的に口をつぐみ、兄を睨みつけてから部屋を後にした。
シリウスのばぁか、とオリオンが拗ねたように小声で言った。
聞こえてるわ馬鹿。