〈死後九百年の、二年前〉
頭がぼんやりする。
本拠地の廊下を歩きながら、金髪青眼の少女――アリスはくしゃみを一つ。ずず、と鼻をすする。ちょうど先日の報告書を提出してきたから、今日するべきことは終わりだ。見回りの当番もないし、帰って休もうか。
騎士警備団に所属する団員は、王都街にあるギルドで依頼を引き受けることができる。飼い犬を探すような個人で受けるものから、洞窟の探索や違法取引の取り締まりなど集団で向かう必要があるものまで。ギルドには様々な依頼が集まってくる。
今週の初めのことだ。
アリスは、魔獣駆除の依頼を引き受けていた。畑のキャベツが食い荒らされ、魔獣の発する瘴気によって育てている野菜がすべて駄目になったという。幸いにして魔獣は鼠サイズだったため、一人でも対応できたのだが、その帰りに雨が降り始めた。ぽつ、ぽつ、と控えめに降り出した雨はだんだんと勢いを増し、家に辿りつくころにはびしょ濡れになっていた。
あれが、よくなかったのだろう。
くしゅん、くしゅ、と繰り返しながら、ふらふらと階段を下りていく。制服の上着がまだ乾いていないから、代わりに普段着けないベストを着ている。
(なんか体がほかほかしてるから、かえってよかったのかも……)
一際大きなくしゃみを発して顔を上げると、視界がぐわんと歪んだ。
体が、熱い。
芯はそこまで熱くないのに、表面だけが燃えているような、そんな感じで、
「…………え?」
気付けば階段を一つ、踏み外していた。
***
瓜実顔の美女が、汗の浮かんだ額に手を当てた。
「うーん……結構、熱あるわね。連れてきてくれてありがと、シリウスくん」
傍らに立つ青年を顧みて、眉根を下げる。青年――シリウスは銀髪を団子に結い直しながら小さくうなずいた。
彼らの目線はともに、ベッドに寝かされた少女に向けられる。
長い睫毛に縁どられた瞼は閉じている。額と頬が赤い。花びらを二枚合わせたような唇から荒い息が漏れ聞こえていた。
「水持ってくるわ。待っててね、アリス」
淡い金髪を優しく撫で、瓜実顔の女性はいそいそと部屋を出る。
手伝おうか、と声をかけそびれたシリウスは苦笑して、ベッドのそばに腰を下ろした。
騎士警備団本拠地の執務室で書類をさばいていると、部屋の外でどしんと衝撃音がした。見れば、階段の踊り場で少女が横たわっていた。慌てて抱き上げ、医務室に運んだのだが、
「いや、普通に熱やそれ。傷無さそうやし、家ぇ帰らせたれ」
と、医務室の主に追い払われた。非情だ。
しかし、まあ、修練場での手合わせ中に火傷を負った団員たちの治療をしていたところだ。忙しいならしかたがない。
そういうわけでアリスを背負い、王都街にある彼女の家まで連れ帰ったのだ。
「……熱いな」
ふっくらとした頬に自分の手の甲を当てる。じわりと熱が伝わってきた。触れていると、小刻みに震えているのが分かった。当人は熱さを感じているのか、それとも寒いのか。
代わってあげたい、とシリウスは思う。
こういうときに何をしてあげたらいいか分からない。苦しいなら、せめてそれを代わりに引き受けたい。
彼女が苦しむのを見るくらいなら、自分が苦しむ方がいい。
それにしても、倒れていたときは驚いた。踊り場に向かったのが自分だったからいいものの、邪な思いをもつ団員だったら。
「頼むから、倒れるなら俺の腕の中で倒れてくれよ。……いや、そもそも倒れないでくれ。早めに休め」
反対側の頬にも手を当てる。ちょっとでも熱が逃げるだろうか。
そのとき、睫毛が静かに震えた。
思わず手を離す。
起きたときに自分がいたら嫌がられるだろうか、という考えが頭の中を駆けていった。
「…………で」
アリスは目を開けず、荒い呼吸の狭間に掠れた声で呟いた。
「いかないで。……ひとりにしないで」
弱弱しい音だった。目の端に涙が溜まり、筋を描いて流れ落ちた。
嫌な夢でも見ているんだろうか。一人でいて、寂しかったことを思い出したんだろうか。慮ることしかできない。勝手に想像して、勝手に心を痛めるだけだ、こちらは。それでも、
「そばにいるよ。アリス」
布団の上に手を置いた。幼い子どもをあやすように、ぽん、ぽん、と単調に優しく叩く。
いとおしい少女の熱が下がるように、祈りながら。