〈死後九百年の、二年前〉


 さて、これからどうするか、と青年は碧眼を細めて考えた。
 端麗な顔立ちの美青年である。垂れ目がちの双眸は宝石のように輝かしい。吊り上がるような柳眉は凛々しく、きりっと引かれている。肩を流れ落ちるのは、三つ編みにまとめた銀糸の髪。すっと通った鼻筋から顎にかけて描かれる線はなだらかで、すらりとした長身とともに、どこか彫刻じみた美しさを映している。

「シリウスくん、今日は泊まっていく?」

 皿を洗いながら、セレネが訊いた。華やかな瓜実顔の美女である。長い栗色の髪の間から、人間のそれよりも長く伸びた耳が覗いていた。

「部屋ならあるわよ? 狭いけど、二階に客室があるの。シリウスくん、別にうるさくしないでしょうし、あの子たちも構わないわよ、きっと」

「うーん……」

 シリウスと呼ばれた青年は苦笑いを浮かべ、ちょっと考えさせて、と答えた。



 彼がいるのは、王都街の路地裏にある一軒の薬屋だ。
 ひっそりと陰に埋もれるように佇むこの店は、二人の店主によって営業がなされている。いつ開いているのか分からぬためか、客数のなかなか増えない店である。
 通り過ぎる者に曰く、店の主は耳の長い美女であると。
 また曰く、売られている治癒薬を精製するのは――
 鬼の角を有する男である、と。



 薬屋に立ち寄ったのは、お目当ての少女がいるからだった。
 執務室で怒涛の書類仕事を捌き終えたシリウスは、朝起きてから一度も彼女の顔を見ていないことに気付いた。確か見回り当番の表にも、彼女の名前は記されていなかった。そして、修練場に行く予定も変更して、こちらにせっせと足を運んだのである。

(途中で『メルジェ』に寄って正解だったな。アリスのあの可愛い顔……)

 思いだすだけでにやけてしまう。洗った皿を布巾で拭いながら、シリウスは宝石のような顔に笑みをこぼした。
 薬屋に向かう前、中央通りの菓子屋『メルジェ』で手土産を買った。みんなで食べる用としてクッキーの詰め合わせを、それとは別に、彼女へカスタードのたっぷり詰めこまれたプリンを。甘いものが好きな少女は、ふっくらとした愛らしい耳まで桜色に染めて喜んでいた。

「はい、これで最後よぉ」

 セレネが水を止める。ぴっぴっと手の水気を払い、にっこり艶やかな笑みを向けた。

「手伝ってくれてありがと。休んでてよかったのよ?」

「構わんよ。俺こそ、夕食ご馳走になった」

 愛する後輩に手土産を渡したあと、何となく流れで夕飯までお邪魔することにした。彼女の育て親であるセレネの作る料理は美味い。以前からたびたびご馳走になっているが、ほっとする家庭料理の味である。
 ちなみに今日は、中に炒り卵や煮た乾瓢、ハムや人参の甘煮が包まれた「ノリマキ」とやらと、わかめたっぷりの野菜スープだった。東国のレシピにはまっているのだと、セレネは言っていた。

「それで、どうするか決めた?」

「ん……まぁ、そこまで暗くないから寮まで帰るよ。さすがに朝まで世話になるのは悪い」

 あらあら、と瓜実顔の美女は眉を下げて微笑む。
 台所の灯りを最小限にし、二人は居間へ行く。

「あら」

 居間へ入り、セレネが声を上げた。その肩越しに室内を見回すと、ソファの上にちょこんと座る少女に目が留まる。

「あらあら、おねむになったのねぇ」

 セレネが口元に手を当て、くすくすと静かに笑った。
 ソファに座っているのは、ふわふわとした淡い金髪をこくりこくりと揺らしている少女である。耳の下で切り揃えられた髪が、白い首筋に影を落とす。熊のぬいぐるみを脇に抱きかかえ、膝の上にはページの開かれた本。普段の生き生きと澄んだ青い双眸は、長い睫毛が縁どる瞼ですっかり閉じられている。
 シリウスがひどく執心している少女、アリスだ。

「もう……。アリスったら、風邪引くわよ。すっかりお疲れねえ」

「はは、可愛い」

「ええ、ほんとにね。……寝間着だから、お風呂は入ったんでしょうけど。まったくもう。あぁ、毛布、持ってきた方がいいかしら」

 言い終わるよりも早く、いそいそと瓜実顔の女性は居間を出て行く。
 その場に残された青年は苦笑を漏らし、そっと無防備に目を瞑るアリスのそばへ回った。

「仔猫ちゃん、眠いの?」

 エメラルドの宿るような双眸をきらきらと輝かせ、シリウスはソファに腰かけた。ふかふかとしたソファの座面が一瞬深く沈みこむ。少女の小柄な体に腕を回し、ぎゅっと抱き寄せた。

「眠いのか~そうかそうか~ほらほら俺のところにおいで添い寝してあげる。肘枕? 膝枕? どれでもお望みの――」

「や」

 ぐいぐいと頬ずりしてくるシリウスを押しのけ、不機嫌そうに短く応える。それでも彼には天上の調べに聴こえるらしく、さらに頬を緩ませて笑む。

「不機嫌ちゃん可愛いね。ふくれっつらしちゃって」

「やー」

 シリウスはさらに体を密着させる。アリスがやんわりと押しのけようとするが、鍛えられた上官の体はびくとも動かない。

(あー持って帰りたい)

 愛し子の白くなめらかな首元に顔を埋める。石鹸のいい匂いがした。

「……」

「……」

「……………」

「……………何だよ」

 突き刺さってくる視線に、シリウスは苛々と顔を上げた。大方、予想はついていた。

「何でもない」

 居間の入り口に、緩い癖のある黒髪を無造作にくくった男が立っていた。端正な美貌の男で、左右で色の異なる眸が妖しげに光る。華奢な細身を灰色の紬に包んでいる。額から生えた青白い双角は左右非対称で、彼が鬼族の出であることを示していた。

「あ? それなら邪魔しないでくれるか、アル」

「邪魔するつもりもない」

 黒髪の男――アルは淡々と言い、足音を立てずに向かってくる。アリスの膝に乗っていた本を取り上げ、ぱたんと閉じた。

(本取りに来ただけかよ)

 銀髪碧眼の青年はげんなりした顔をした。無表情でマイペースなこの男は、アリスの義兄であり、彼女からの敬愛を一身に受けている。こんな愛想のない男のどこがいいんだか。

「君、今夜は泊まるのか」

「泊まらねえよ。この後、帰るわ」

 愛する子には決して向けない、ぞんざいな口調でシリウスは答えた。ついでに、しっしっと犬でも追い払うように手を振る。

「そうか。……じゃ、それ、邪魔だろう」

「は?」

 黒髪の男は膝を折り曲げ、義妹にすっと身を近づけた。

「アリス」

 するりと絡みついているシリウスの腕を解き、アルは少女と熊のぬいぐるみを自分の方に引き寄せた。器用に片手で抱きかかえ、反対側の手に本を持つ。

「直に暗くなる。気を付けて帰れ」

「なっ……おま……!」

 今まで抱いていた温もりを奪われ、青年がわなわなと身を震わせる。
 アルは彼の反応に首を傾げながらも、「おやすみ」と言を追加した。

「お前な‼ 馬鹿アル‼」

 直後、大声に驚いたアリスが、睫毛を震わせて飛び起きる。
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