〈死後九百年の、二年前〉
部屋の時計は夜の十時半ほどを指し示す。
控えめに戸を叩く音がした。俺は書類に目を向けたまま立ち上がり、そちらへ向かう。外開きのドアは、昨日、蝶番に油を注したばかりだから音もなく滑らかに開いた。
外に立っていた人物へ視線を移し――口元が緩んだ。
「いらっしゃい、仔猫ちゃん」
騎士警備団での直属の部下、アリスである。雪のような白い肌に映える、淡い金色の短い髪。目鼻立ちの整った可憐な少女。今夜は、小柄な体をぶかぶかのシャツと細身のズボンで無造作に包んでいる。俺の最愛の子。
「変な呼び方やめてください、先輩。……えっと、お仕事中でしたか」
彼女の澄んだ青い双眸は、俺が左手に持っている書類に向けられている。
「あぁ、いいんだ、これは。昼に渡されたやつだし、明後日でも別に」
「……そうですか?」
確かに先輩が仕事終わらせられないとこ見たことないけど、と彼女は独りごちる。俺への信頼が垣間見えるね。見たかアル!
「いい、いい。それより入りなよ」
春とはいえ、まだ底冷えのする季節だ。風邪を引いたら俺が悲しむ。
アリスの肩を抱き、室内に入れる。書類を持った手でドアを閉め、簡単な防音魔法を詠唱。これでよし。
「さて、ご用件は何だっけ? 寝る前の逢瀬?」
「違います」即座に否定しながら、アリスはラグの上に腰を下ろした。「魔力の調整をお願いしたくて」
俺は書類を机に置き、彼女の正面に座った。
「遅くにすみません。でもこれだけは整えておきたくて」
真面目な子だ。
純粋で可愛くて、……こんな時間に男の部屋に来ることの意味も分かってない。
俺はその白い頬に片手をすべらすように、そっと触れた。
「いいよ」
空いている方の手でアリスの小さな手を取った。手の平を合わせ、意識を集中させる。
まだ年端もいかないこの少女は、結構いい魔力を持っている。量が多く、なかなか質も高い。しかし完全に制御できていないため、感情が昂りすぎると暴走する。だから俺が魔力量を調節してやる必要があるのだ。
手、まあ体の部分ならどこでもいいんだが、一部を繋げて余分な魔力をこちらに移動させる。それを俺が基礎魔法で放出する。簡単だ。
この簡単なことがアル――彼女が兄と慕っている男にはできないのだと、アリスは言うが、多分嘘だ。あの馬鹿強い鬼にできないわけがないのだ。
言いにくかったんだろうな。
騎士警備団に入るのにも渋い顔をされたらしいし、魔力を制御できないくらいで心配させたくないんだろう。
それで俺を頼ってくれたとか、嬉しすぎるけどな。
合わせた手の間から淡い光がぼんやりと漏れている。じわじわと伝わってくる熱に魔力の流れ動く様が感じられた。
「……はい、おしまい」
手を離すのは名残惜しいが、このままだとアリスが寝てしまう。
「あ、ありがとうございます」
魔力調整の後は、俺も余分な力が抜け落ちるので体内がぽかぽか温まるようだ。やはり書類仕事は明後日にして、今日はもう寝よう。
「明日も早いし、俺はそろそろ寝るよ。アリスもここで寝……」
「先輩は、」
声が重なった。一瞬目を真ん丸にした後、力が抜けたように笑う。可愛い。
「先輩は明日、休憩の時間ありますか?」
「休憩? あるはずだよ」
でも俺、優秀だからなぁ。王族の護衛で一日終わりそう。と思ったのは心に留めておく。
明日は、我が国の第三王子と第一王女の生誕祭である。華やかで人気のある双子の誕生日は花祭りと時期が被るため、それも併せて盛大に祝われる一大イベントだ。騎士警備団はその護衛や市場の警備を任命されている。俺は面倒なことに公爵家子息でもあるから、王族の護衛だ。年齢が近く、社交会で親交のある王子たちと話せるのは良いが、アリスやカミツレと担当が分かれたので面白くない。ちなみに彼女らは市場方面の警護だ。
「どうしたの?」
「えっと、よかったら屋台を一緒に回りたいなって。どう、でしょうか」
何それ嬉しい。
「アル兄、明日のお祭りも興味ないみたいで。行かないそうです。でも屋台のご飯って美味しいから、何か買って帰ろうかなぁなんて」
何それショック。
え~~~~結局アルなの? 無口で何考えてるか分かんないあいつ優先なの? 不満で頬を膨らませたくなったが、ぐっと抑えた。目の前でこんなにいじらしく微笑んでいる子に醜い嫉妬をぶつけたくない。
面倒くさい男にはなりたくないので。
「ん、いいよ。俺が休憩になったら迎えに行くね」
さすがに休憩くらい取れるでしょ。無理やりにでも取る。
俺が快諾すると、アリスはほっと息を吐いた。にこにこ花が綻ぶ。
「よかった」ありがとうございます、と愛らしく礼を述べて立ち上がる。俺も同様に立ち上がり、ドアまで向かった。
「それでは、失礼します。――おやすみなさい、シリウス様」
「ん、おやすみ」
愛してるよ。
心の中でだけ呟き、ゆっくり扉が閉まるのを見届けた。