〈死後九百年の、二年前〉


 またあの夢を見た。
 本と紙の束、実験器具に埋もれた布団の中で瞼を開けた。頭を動かすと、左角にゴツンと何かが当たった。三角フラスコだった。やはり片付けた方がいいのだろうか、と茫然と考えた。
 体を起こして、のそのそ着替える。寝汗はかいていないが、そろそろ洗うべきだ。階下の洗濯籠に入れるため、脇に抱えて部屋を出た。
 廊下を歩いていると、香ばしい匂いがした。この匂いはパンである。定めしオーブンで焼いている最中だろう。なら、台所に行った方が早いか。
 洗濯籠に寝間着を投げ入れ、台所の戸口から顔を覗かせた。

「あらぁおはよう、アルス。もしかしてパンの匂いがしたから来たの?」

 深緑色のセーターの上にエプロンを着けた女性が振り向いた。端麗な瓜実顔に長い耳が特徴的であり、豊かな体を素朴な服に詰め込んでいる。彼女は僕が住んでいる家の所有者、セレネである。二階の一室を研究室として僕が使い、一階は彼女の経営する薬屋となっている。

「おはよう」

 御名答、と僕は頷いてみせた。くすくすとセレネは忍び笑う。

「アリスは」

「もう出たわよ。今日は早番なんですって」

「そう」

 アリスが所属する騎士警備団は、朝と夜に王都の巡回をするそうだ。今日はその朝の当番というわけか。

「もうすぐ焼きあがるから、座ってたら? あ、飲み物は温かいのと冷たいの、どっちがいいかしら」

「いい。ここで待ってる」

 そう答え、オーブンの前に陣取るようにしてしゃがんだ。古い、黒々とした大きな箱の中で丸い生地が熱を受けていた。ふと、「セレネ、」と呼び掛けた。
 彼女は目を丸くしたが、すぐに微笑んだ。

「なぁに?」

「頼まれてた魔法薬できたよ。後で見せる」

「あら、早いわね。頼んだの一昨日よ」

「前に作ったやつの応用だったから。――ねえ、」一瞬ためらった後に続ける。「母さんの話、してくれる? どんなことでもいいから」

「……いいわよ。また、あの夢見たんでしょ」

 時々思い出させるように見る夢は、母さんの夢だ。僕が鬼族の村にいた頃の記憶が混ざっているのだろう。鎖と錠でつながれた手足を眺めていると、母さんが助けに来る。大丈夫、や、安心して、というような言葉を言うのだが、母さんは背後で剣を振り下ろそうとする人物に気付かない。というところで途切れて終わる。母さんがどうなったのか、僕がどうなったのかは分からずじまいで、嫌な後味だけを残す。

「……アルテの黒髪は長くて綺麗だったなぁ。でも、いっつも不器用に結ぶものだから勿体なくてね。本人は邪魔みたいで、髪切りたいってアルテが言ったら、みんな一斉に反対したのよ」

 セレネは赤子をあやすように穏やかな声音で、母さんのことを語る。彼女の声音はどこまでも優しく、抱きしめられているような気持になる。
 アルテミシア、というのが母さんの名前で、長いからアルテと読んでいるのだそうだ。僕の名前――アルストロメリアも長いので、アリスやシリウスにはアルと呼ばせている。唯一、母さんを知るセレネだけが僕らを区別するためにアルテ、アルスと呼ぶ。片方はもうこの世にいないというのに。死してなお、僕らに愛される。

「アルスみたいに火炎魔法が得意だったけど、加減は下手で。燃やしすぎだーなんて怒られて。それでもケロッとしてて、……」

 セレネが急に話すのを止めた。隠しきれない僅かな嗚咽が耳に届いた。

「……ごめんね。今日はこれくらいでもいいかしら」

「うん。ありがとう」

 死してなお、愛という形で僕らを締め付ける。それは茨の如く傷つけるものではなくて、無害そうな顔をして絡みつく蔦の方が近いか。
 僕はしばらく死ねないから、いつまで悩ませられるのやら。
 パンを焼き上げたようで、オーブンの光が消えた。取っ手に指を掛けて開けると、小麦の甘い香りが台所中に広がった。
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