〈死後九百年の、二年前〉


 本と紙とフラスコの散乱した床の上で、彼は、はっと目を覚ました。喉奥から漏れた荒い息が無機質な部屋をうろつく。閉め切ったカーテンを突き刺す陽の当たり具合から察するに、もう昼近くになっている。数秒ほど、左右で色の違う眸を彷徨わせたのち、夢だったか、と呟いて溜め息を吐いた。
 実に生々しい夢だった。魚の腸を集めて一飲みしたような味の夢である。

(……さだめし、実際に言われたことだろう。いろいろ言われたものだから、もう覚えちゃいないが)

 緩く波打つ黒髪を無造作にまとめ、床に転がっていた髪紐で結う。やけに肌に髪が張りつくと思ったら、寝汗をかいていたらしかった。これまた無造作に手の甲で汗を拭いとる。
 不意に、夢の中で自分に向けられた言葉が脳内で再生される。
 青年は中性的で儚さのある顔をかすかに歪め、先の夢を振り払うように頭を振った。するりと髪紐が解け、床に落ちる。額にそびえたつ青白い角が――片方は折れている二本のそれらが項垂れる。

(いまだに苦しめられる)

 黒髪に色違いの双眸をもった美貌の男はシャツの胸元をぐっとかきよせた。長く息を吐き、呼吸を落ち着かせようとする。
 そのとき、部屋のドアを叩く音がした。

「アル兄、起きてますか」

 戸の向こう側から控えめな声がかかる。

「お昼ごはん、できましたよ。食べましょう」

(アリスか)

 青年はゆっくり立ち上がりながら、戸の方へ向かった。



――夢の中で自分の眼に映ったのは、艶々した黒髪をおかっぱにした童女だった。

「醜いのう」

 紅を引いた唇の隙間から、真珠のような歯が零れ出ていた。
 自分は動こうとした。逃げようとした。がちゃりと金属の擦れる音が頭に響いた。目を動かせば、生傷と痣がまだらになった手足は枷に繋がれている。
 これは幼い頃の自分なのだと、刹那の間に理解した。

「死にぞこないの鼠の方がまだ面白みがある。これがアルテミシアの子かえ」

 童女は目の前にしゃがみこみ、奥の見えない真っ黒な眸で自分を見つめた。上等な……集落の中でも選りすぐりの生地で、糸で、いちばん優れた技術者が織った着物を、幼い身に纏っている。垂れた裾が地面に触れ、豪奢な毬玉の刺繍が土に汚れている。

「まだ生きるのかえ。死ぬに死ねぬ身体とは、厄介なものじゃの。他人に受け入れられぬまま長々と生きるのは辛かろう。――なぁ、アルストロメリア」

 彼女の声は可愛らしいが重く、脳天から足の指先まで地面に這いつくばらせようとする。
 ころころと鈴を転がすような高い笑い声を上げ、童女は立ち上がりざまに自分の脚を蹴とばした。ぼぅん、と鈍い振動が伝わってきた。
 それらの言葉を受けて自分は、どんな顔をしていただろうか、ということだけが気になった。



 ドアの外で待ってくれていた義妹に手を引かれ、食堂へ。食卓には湯気の立つ皿がいくつも並んでいた。普段いる同居人は出張中で姿が見えず、その代わりに義妹の上官が席に着いている。

「シリウス、来ていたのか」

「偶々立ち寄ったんでな。邪魔している。それより何だお前、呑気に昼まで寝やがってアリスが心配してたぞ俺のアリスがお前なんぞを」

「すまない。聞き取れなかった。繰り返してくれるか」

「二度と言うか馬鹿」

 ふん、とシリウスがそっぽを向く。いつになく不格好に編まれた銀糸の長い髪は、おそらく義妹が三つ編みにしたのだろう。仲が良いようでほっこりする。小さい頃から自分について回っていた彼女には、友人と呼べる存在が見受けられない。五つほど年齢が離れていると聞くが、こうして昼食に呼べるほど親しい者ができてよかった、と兄は思う。欲を言えば自分も仲良くしたいのだが、何故かいつも野犬を相手にするかのように追い払われる。ほんのり寂しい。

「もー変な言い合いしてないで食べましょうよ」

 アリスが楚々とした仕草で三人分のグラスに水をそそいだ。それを見てシリウスは「はぁい」と大人しくなる。

「いただきます」

 三つの声が重なる。スプーンを取る音、グラスを持ち上げる音に続いて、アルはほかほかと湯気の立つシチューの皿へ手を伸ばした。小さなブロック状に刻んだベーコンと数粒のとうもろこしが、とろみのある温かなルゥとともに喉を通り過ぎていった。

「……夢を見た」

 思わず、ぼそりと言葉に出していた。
 ちぎったパンをもぐもぐしていたアリスがこちらを見る。向かい側の椅子に座るシリウスは、若鶏のトマト煮を丁寧に切り分けている。彼は見るともなしに眉毛だけちょっと上げてみせた。

「どんな夢でした?」

 にこにこと促され、アルはほんの少し逡巡してから、

「そうだな、……君が、とても綺麗で豪華なドレスを着ていた」

「へぇ」

 アリスの青い目が細められる。ほんのり頬と耳先が桜色になっている。

「どんなドレスだったかは覚えていないが……よく似合っていた。見ていたのが僕だけなのは勿体なかった」

「おい待て。その場に俺はいなかったのか」

「ああ」

 むっとシリウスが頬を膨らませた。存外、子どもっぽいところがある。

――他人に受け入れられぬまま、長々と生きるのは辛かろう。

 童女の言葉が、脳裏によみがえる。
 それがどうした。
 僕と食卓を囲み、僕の話を聞き、顔を綻ばせる少女がいる。片手の指で足りるほどであっても、同じ時間を共有できる友人たちがいる。自分は彼らに受け入れられていると、安心して言える。
 ささやかな嘘をつき終え、アルは一口分に切り分けられた若鶏の皿へフォークを伸ばした。
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