〈死後九百年の、二年前〉
貴方が、別のひとと結婚する夢を見た。
木刀の叩きあう鋭い音と、団員たちの声とがざわざわと目の前を飛び交う。
騎士警備団の第一修練場では、団員たちが走りこみや組手、対人訓練が行われている。彼らは、街の見回りや書類仕事などといった業務をこなしつつ、こうして日々鍛錬を繰り返す。自分たちよりもはるかに大きな体躯をもつ魔獣に対抗するためや、無害な住民たちを守るために力を磨くのだ。
その隅に、ぽつんと座りこむ少女が一人。
男性の割合が多い騎士警備団には珍しく、小柄でまだ幼さの残る顔立ちをした少女だ。淡い色の金髪は耳の下で切り揃えており、さっぱりとした印象を受ける。透き通るような肌は白く、膝の上に組んだ両手はふくふくとしている。可愛らしい青い眸は、ぼんやりと団員たちが木刀を打ち合う様子を眺めていた。
不意に、そのなめらかな肌すじへ影が落ちた。
「やぁ仔猫ちゃん。隣、いいかい?」
そばに立っていたのは、背の高い青年だった。腰元に木刀を携えている。端整な甘い顔立ちを緩ませ、エメラルドの宿る双眸でこちらを見つめていた。後ろで一つに結った銀髪が肩にかかるのを払う。彼は上官で、名前をシリウスという。
どうぞ、と促すと青年は、すとんと腰を下ろした。
「偶然だな。今日はアリスに会えると思わなかったから嬉しいよ」
「お互いに非番でしたからね」
金髪青眼の少女……アリスは柔らかく微笑んだ。
王都にいる団員たちの業務の一つに、王都街の巡回がある。早朝、昼、夜に分け、三人から五人ほどの小さなグループで街を見回る。これは当番制で行われ、おおよそ二週間に一度順番が回ってくるくらいの頻度だ。
上官で位階の高いシリウスはともかく、アリスのような端っこ団員にはあまり仕事が回ってこない。しいて挙げるなら、修練がいちばんの仕事か。今日は当番がないので家にいてもよかったのだが、夢見の悪さに悶々とするだけだろうと、修練場まで来たのである。
ふとシリウスが、アリスの顔を覗きこんだ。
「どうした?」
「え」
「なんだ、誰かに嫌なこと言われたか。手を上げられたか。誰だ教えなさい始末するから」
「えええ」
ずいずいと体を寄せる上官に気圧されつつ、アリスはぶんぶん首を横に振った。
「違います、えっと……そんなんじゃなくて」
「落ちこんでるように見えたんだが、違うか?」
よく見ている、とアリスは苦笑いを浮かべる。しょげていたのが顔に出ていたのだろうか。
「……ちょっと、いやな夢を見たもので」
微かに眉をひそめ、シリウスが「夢」と繰り返した。やんわりと彼の胸板を押し返し、元の位置に戻す。
「どんな夢だったか訊いても?」
「やです。言いません」
平然とした顔で話せそうになかった。だから今は言わない。言えない。
シリウスは部下の肩に顎を乗せ、そっか、とささやいた。彼女に近い方の手で、ひと回り小さい少女のそれを握った。長く骨ばった指を絡ませながら自らの頬に近づける。
「じゃあ今夜は悪い夢を見ないように俺がまじないを」
「シリウス先輩」
睫毛を伏せたまま、アリスは小さく呼んだ。控えめに顎を引き、躊躇いがちに言葉を続ける。
「もし話したくなったら、そのときは話してもいいですか」
あんな夢を見たことも、もやもやしたことも、笑い飛ばしながら話せる日がくるかもしれない。きてほしい。
「うん、構わんよ。それよりアリス、悪夢が続かないようにするまじないを俺がかけてあげるから今夜は寮の客室に泊まっていかないか勿論俺の部屋でもいいぞ」
青年はでれでれと目尻をだらしなく下げ、柔らかい手の甲に頬ずりした。甘ったるい声も緩んだ笑顔も自分専用のもので、他の誰かに向けているのを見たことがない。
(夢は、夢……かな)
ひそかに胸の内で呟き、「では修練に戻りますので」とアリスは腰を上げる。上官がなかなか手を離してくれないので、振りほどくのに少し時間がかかった。