〈死後九百年の、二年前〉
王都街、中央通りは夜でも賑やかである。
光魔法や蝋燭を駆使した行燈の灯りは尽きることがなく、通りを行き交う人々の顔を照らしている。立ち並ぶ屋台からは揚げ物や炒め物の匂い。実に食欲をくすぐられる。
三つ編みにした銀髪をなびかせ、端正な青年が往来の真ん中を闊歩していた。
前をまっすぐ見据える眸は緑玉のように輝かしい。長身を騎士警備団の紺色の制服で覆い、長い脚をもてあそぶように歩いている。
……が、その足どりにブレーキがかかる。
「げっ」
「?」
青年は心底嫌そうな表情で呻いた。顔をしかめ、引き返そうかと迷う。
視線の先にいるのは、黒いローブを羽織った男性だった。緩く癖のついた黒髪を無造作に縛り、中性的で儚い雰囲気をまとっている。怪しげな瓶を並べた屋台の前にしゃがみこみ、一つひとつ手に取って吟味しているところらしい。
「シリウスじゃないか」
男性は白いラベルの貼られた瓶を戻し、声を掛けてきた。水瓶に水をそそぐのに似た、静かで低い声だ。無口な彼にしては珍しい。そもそも薬屋の二階に引きこもりがちな彼が、人の多い中央通りにいることが希少だ。
ゆらりと立ち上がり、腕を組む。ローブの下は藤色の紬を身につけているようで、それがまた美麗な彼にひどく似合う。ルビーのような赤い右目と、黒曜石のような左眸。無駄のない小さな顔に、全てのパーツがバランスよく配置されている。しかし、最も目を引くのは、その額だ。青白い片角がまっすぐ伸びていて、彼が純粋な人間ではないことを示していた。
「何でこんなところにいるんだよ、アル」
シリウスと呼ばれた青年は苦々しげに、ローブの男性のそばへ歩み寄った。
「買い出しだ。材料が足りなくなった」
男性――アルストロメリアは素っ気なく答えた。その上、自分から話しかけたくせに再び別の瓶を手にして、じっと眺め始める。シリウスはむっと眉頭を寄せ、唇を尖らせた。先ほどまでの凛とした顔とは正反対の、ずいぶんと子どもっぽい表情である。
「……そうかよ。なに、買いに来たんだ?」
「イヌサフランと、マンドラゴラの粉末」
「毒かよ」
アルは赤い半液体の入った瓶を一つ、屋台の主人に渡した。ラベルにはクランベリーの絵が描かれている。
「貰おう。いくらだ」
「いいのかよ、それ普通のジャムだけど」
「明日の朝食にする」
聞いて損した。
アルは購入したジャム瓶を懐にしまい、シリウスの方へ顔を向けた。
「ところで、君は何をしている。一人でいるということは、見回りではないんだろう」
「仕事が終わったんでな。適当に歩いてるだけだわ」
「そうか」
会話続けるのかよ、とシリウスはうんざりしながらも意外に思う。珍しく、いつもの倍は喋っている。
顔周りの癖毛をゆるゆると揺らし、アルは無表情で言った。
「夕飯は済ませたか」
「まだだが?」
「そうか。――せっかくだから、どこか店に入らないか」
これまた珍しい提案に、銀髪の青年は目を丸くした。
***
アルストロメリアは、いわばシリウスの恋敵のようなものである。
人の通りがやや落ち着いてきた辺りで、一軒の酒場に入った。いくつかの席が埋まり、客がそれぞれの卓で談笑している。二人は隅のテーブルにつき、何品か料理を注文した。
「ローブ取らんのか。食べるのに邪魔だろ」
「認識阻害の術をかけている。軽率に外すわけにはいかない。……君、酒は飲むか」
「飲んでもいいが、お前、強くないだろ。やめておく」
シリウスは冷たい水を口に含む。喉を潤し、アルの頬に長い睫毛が影を落としているのを眺めた。当人はたるむ袖を少しだけまくり、細い手首を外気にさらす。透き通るような肌には血管がぼこぼこと浮き出ていた。
アルは鬼だ。額の双角――片方は折れているが――が、鬼であることを証明している。
東国の果てにある鬼族の集落で生まれたらしい。詳しいことは知らないが、忌み子として蔑まれてきた、ということだけ聞いている。彼が現在、ディラン王立国家の王都にいるのは、彼の生みの母親と育ての母親のおかげだそうだ。
鬼族。羽人族。半獣人族。長命種であるエルフ族。
世界人口の半数以上を占める人間族に対して、それらをはじめとした、規模の小さい種族は無数に存在する。中には、見た目や能力への迫害が長く続いてきた種族もある。
特殊な魔術をかけて、周囲の人間からの認識を阻害する方法は、そのような希少価値の高いとされる種族にとって有効なものだ。人攫いや奴隷商船、民衆の目をかいくぐることができる。本人を知っている者、つまり元々彼が彼であると認識している者を除き、すべての者に効果がある。
注文していた料理が届き、卓に並んでいく。シリウスは取り皿に同じ分量ずつ取り分けて、アルに渡した。空になった皿は重ねておく。
いただきます、と手を合わせてスープから口に入れる。卵の風味が優しい。透明な汁に細かく刻まれた人参と玉葱が入っていて、ちゅるんと喉を通り過ぎていった。
次いで、炊いた米の上にスライスした豚の角煮を乗せたものに手を伸ばす。湯気が立ち昇るそれを大きめのスプーンですくい、口元へ。じっくりと時間をかけて煮込んだのか、豚肉がほろほろと舌の上で崩れた。煮汁が染みこんだご飯との相性も抜群で、シリウスは一気にかきこんだ。
(肉が柔らかくて美味かった……。また追加で頼むか)
満足げにスプーンを置き、今度はきのこの卵とじを――と皿を替えながら、正面の男が料理に手をつけていないことに気付いた。
「あ? お前、食べないのか」
「……食べる。食べるが、その前に聞いていいだろうか」
指を組み替えては組み直し、アルは伏せていた目を上げた。左右で色の異なる眸が神秘的な美しさを放っていた。
「何だ。頼みごとなら聞かんぞ」
「……アリスのことだ」
その名を耳にしただけで、胸が跳ね上がった。
アリス、というのは青年が何よりも気にかけている少女の名前だ。シリウスが所属する、騎士警備団の部下の一人でもある。耳の下までの長さの金髪に青い眸、抜けるように白い肌の可愛らしい子。純朴で鈍く、守ってやりたくなるような子だ。
彼女は幼いころに家族を亡くしている。両親と兄姉を盗賊に殺されたとき、幼いアリスを救い上げたのは目の前の鬼だった。それから彼らはともに日々を重ね、アルは彼女を妹同然に思っている。少女の方も尊敬と感謝以上の思いから、彼を兄と慕っている。
ゆえに、アリスを陥落するには、アルという壁が立ちはだかっていた。
「アリスは……あの子は、団で、どうだろうか」
鬼の角を有した男は、所在なさげに目を回した。
「世間を知らない子だ。人の醜いところを知らない子だ。人並み以上に丈夫な体でもない。魔力の扱いも未熟だ。……君たちの団はどうやっても力の強い奴が優位だ。いじめられてやしないか。仕事以外のところで、辛い目に遭ってやしないだろうか。僕が訊いても笑うだけだ。話しづらいんだろう」
「…………親の悩みだな、まったく」
シリウスは深く溜め息をついた。
それを訊きだすために食事に誘ったのか。回りくどい男だ。
「そりゃ、あれだけ可愛いんだから、どうやったって浮くだろ」
「……」
そういうことじゃない、と言いたげにアルは視線をよこした。
「お前が心配するまでもねぇよ。俺がいるんだもん、アリスを守るのもアリスが泣くのも俺の胸って決まってんの。お前に言われなくても、こっちは命かけて守ってんだよ」
顔にかかる横髪を耳にかけ、シリウスはきのこの卵とじを一口分すくった。むにむにとしたキノコの食感を味わう。
はぁ、と拍子抜けたように、アルが小さく息を吐いた。
「そうか。……それならいい」
何がいいんだ。よく分からないが、納得したらしい。アルは控えめに合掌し、豚角煮飯の皿を寄せた。
「ん、美味い」
「だよな。追加で同じの頼もうぜ」
無表情な彼の目が、微かにきらめいた。シリウスはそれを見逃さず、にっと微笑む。
「だいたい、何で俺に訊くんだよ。同期の奴に訊いた方が、もっと分かるんじゃないか」
「定めし、君がいちばんあの子に近いんだろう? よく君の名前を話している」
「えっ」
一瞬、サラダを取り分ける手を止めた。
「そうなの? え、アリス、俺のこと何て言ってんの」
口角を緩ませて若干だらしない顔になるシリウスに、アルはちょっと面食らったように目を大きくする。ちょうどそのとき、追加で注文した豚角煮飯が、湯気を立てて運ばれてきた。
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