〈死後九百年の、二年前〉
ほぅ、と吐いた息が白く曇った。
「冷えますねえ。明日も積もるんでしょうか」
「だろうな」
ざくざくと音を立て、二人は雪の上に足跡をつけていく。
一人は、三つ編みにした銀髪を肩に流し、宝石のような碧眼で前方を見据える青年。鼻筋の通った横顔に夕陽があたる。均整の取れた長身を灰色の外套に包み、長い脚を引っこ抜くように緩々と歩いていた。
「……先輩は、好きですか?」
「好き。大好き。アリスのことなら俺が世界一愛してる」
「雪の話です」
食い気味に応える青年に、もう一人――アリスと呼ばれた少女は、青い眸を細めて苦笑した。淡い金髪を耳の下で切り揃えているからか、剥きだしの首元が寒々しい。もこもこと厚い生地のコートは彼女の体にやや大きいようで、袖の中に指先まで収められている。
彫刻のごとく端正な青年と、お人形のように可愛らしい小柄な少女。
彼らは国を護る組織、騎士警備団に所属している。青年――シリウスは、アリスの先輩だ。それも直属の上官と部下という間柄のためか、任務で一緒になることも多い。
今は、王都街の見回り当番を終えて本拠地へ戻るところだ。
「よく積もったな、これは」
「ほんとですねぇ。雪かきが大変そう」
日中降り続けていた雪は今でこそ止んでいるが、全くとける様子がない。
道の脇に寄せられた雪の山を見やる。拳大の雪玉に、ワンサイズ小さい雪玉が乗せられているのがいくつもあった。中には、石や木の実で目鼻が作られているものもある。
あら可愛い、とアリスは微笑む。
それにたまたま目を向けていたシリウスは、咄嗟に顔を片手で覆った。
「……なにしてるんですか?」
「気にしないで。笑顔が可愛くて目に刺さったのと、それが俺に向けられたものじゃないことを僻んでるだけだから」
「雪だるまに嫉妬されても。雪だるまちゃんだって困っちゃうでしょう」
すっと口をへの字に曲げ、アリスは小さく息をついた。そのまま上官の顔へ視線を移して……気付いた。
「先輩、」
「なぁに? 俺の顔、見惚れちゃうほど好みだった?」
「そうじゃなくて。えっと、唇が切れてます」
シリウスは自らの口元に手をやった。ほんとだ、と呟く。
少女が可愛らしく小首を傾け、コートのポケットを探った。小さいクリーム容器を取り出し、蓋を開ける。
「空気がずいぶん乾燥してますからね。……はい、ちょっとかがんでください」
「?」
怪訝そうな表情で、青年は言われた通りに膝を曲げる。顔の距離が近くなる。
アリスは白い指先でクリームをすくいとり、彼の唇を丁寧になぞった。柚子だろうか、柑橘のほろ苦い香りが鼻孔をついた。
押しつけられた指先が上、下へと移動する。
それも束の間で、あっさり指は離れる。
真剣な顔つきから一転、少女が綻ぶように笑った。
「はい、おしまい。もういいですよ」
清涼な水が喉を潤していくような声に、何度貫かれただろう、とシリウスは膝を伸ばしながら思う。
アリスは別の指でクリームをすくい、自分の唇にも塗りながら容器をポケットにしまった。
「……なあ、それって」
「リップクリームです。私のお気に入り」
「それって」
間接……とシリウスは蛙が潰れたような声で呻く。
当人は何とも思っていないらしく、にこにこと呑気な笑みを浮かべている。
「それ、俺以外にはしないでね……」
溜め息とともに、端麗な声は周囲の雪にとけこんでいく。