〈死後九百年の、二年前〉


 青というのは不思議なものだ。
 晴れた空の色であり、波打つ海を映す色であり、はてはネモフィラやルリマツリといった可憐な花々をも彩る。
 目に入る自然の中には、たいてい青が含まれている。
 ゆえに魅了されるのだろう――

 ことに、彼女の青い双眸は、ひときわ特別であった。



 ***



「見合いですか」

 眼前の相手に悟られぬよう溜め息をつき、さっぱりと切り揃えた銀糸の襟足に手をやる。涼やかな二つの緑玉を伏せ、睫毛の影が頬に落ちている。すらりと長い脚を揃えて立ち、端正な顔はややうつむいていた。

「うん。まあ、悪い話じゃないだろう」

と、中年の男性が、にこやかに言った。
 話を持ち掛けた張本人、現スティーリア公爵である。

「シリウス、今いくつになった」

「……十七です」

「お前の兄に婚約者がついたのは、五歳のときだ」

「それがどうしました。兄と僕は違う人間でしょう」

「うん、一理ある」

 公爵は、小皺の目立ちつつある顔を和ませた。シリウスは僅かにむっとしたような表情を浮かべる。

「必要ありません。騎士警備団に所属し、いつ命を失うか分からない身です。それに、僕が配偶者を迎えても、特段この家に利益はないでしょう」

 大陸的組織である騎士警備団は、国の中枢から末端まで人々の暮らしを守っている。
 ここディラン王立国家でも、王都を中心に見回りや違法取引の取り締まり、貿易の手続き、魔獣討伐、魔石の回収、魔法研究や魔具開発などなど、団員たちの仕事は幅広い。シリウスが入団したのは十六歳のとき。ちょうど一年前だ。
 公爵家次男として生まれた彼には、家督を継ぐ責務がない。
 丈夫な肉体と秀でた魔力、研鑽を積み重ねた剣術をもてあますのも勿体ない、と騎士警備団に入っただけだった。ただ、意外と性に合ったようで、今はひたすら見回りと魔獣の駆除などをこなしている。

「まぁ、そう言わずに。お前への縁談は山のように来ている。断りきれなかった身にもなってくれ」

 断ってください、と喉元まで出かかった言葉を飲みこむ。

「それに、特段、損な話というわけでもない。一回会って御覧。これも経験だ」

 にこりと皺を深くして微笑み、父は一枚の紙を差し出した。表面がすべすべとなめらかで、やや厚みのある上質なものだった。
 さらりと流れるように黒いインクの文字列が連なっている。
 シリウスは渋々と受け取り、一礼して部屋を出た。



 ***


 あれは九歳のときだった。
 王宮の茶会に呼ばれ、両親と兄とともに出向いた。
 華やかな場だが、幼い自分には面倒で、気が詰まるだけのものだった。
 平生から交流のある家とは勿論、あまり商談も交易もしない相手でさえ挨拶しないといけない。
 貴族の世界は、人脈がものをいう。
 どれだけ富があれ、どれだけ優秀さを発揮しても、どれだけ資源とそれを活用する力を持ち合わせていようと、人の繋がりがなければ無駄になる。心の底を見せず、発言が本心であるように思わせ、好感を抱かせる。自分の利を追及するのに、自分一人の力で成そうとすることは大して重要でない。
 正直、面倒くさい。
 挨拶しても挨拶しても、スティーリア家という名前に群がる輩は絶えない。人にもまれ、だんだんと息苦しくなっていった。
 それで、こっそり抜け出したのだ。
 広い廊下を通って扉を開けた先には、色とりどりの花々が待ち構えていた。
 むせかえる芳香に小さく咳きこみ、顔を上げる。
 精霊と見紛うような、淡い女の子がいた。
 色の薄い金髪に花びらがいくつもいくつも付いていて、ふくふくとした短い指でそれを取ろうとしては取れずに髪の間をすり抜ける。ふとこちらを見た。自分と目が合い、驚いた顔も怯えた様子もなく、ふんわりと微笑んだ。
 よく晴れた空のような、澄んだ青い双眸で。



 ***



 そもそも今ここにいるのは、偶然、実家がある西区に依頼があったためだ。ついでに生まれ育った公爵邸へ顔を出しただけである。
 一晩明けたら、すぐに本拠地へ戻ろうと思っていたのだが。

(父さんめ……俺が帰るのを分かってたみたいだ)

 念のため、帰着予定を長めに申請しておいてよかった。
 父に見合い話をもたらされて二日後。
 シリウスは使用人たちの手をやんわりと断り、着替えを済ませた。普段は王都にある男子寮で寝起きしている。自分のことは自分でする生活に慣れてきたためか、使用人たちに囲まれると落ち着かない。白いシャツに、アイビーの葉に近い色のネクタイ。紫がかった暗い灰色の上着と同色のズボンを身につける。足元は革靴。髪を簡単に整え、最後に鏡で確認する。
 気が重い。
 今日会う予定になっているのは、ユリラ・フェイジョア嬢。
 侯爵家の次女である。

(フェイジョア家は確か、南区で蝋の交易をしている家だったか。……舞踏会で一度、挨拶したな)

 なまじ知っている名であるだけに、無下にあしらいにくい。
 父から渡された紙で相手の情報を確認していると、部屋の扉を叩く音がした。
 令嬢が到着したらしい。



 失礼いたします、と老年の執事が紅茶を淹れたカップを置いた。先代当主のころから仕えているという彼は静かに、けれど無駄のない洗練された所作で茶をそそいでいく。

「ありがとう」

「いえ。それでは坊ちゃん、ごゆっくり」

 坊ちゃんはやめてくれ、と思ったのは心に留めておく。
 老執事は茶器を載せたワゴンを連れ、部屋の隅に控える。シリウスは紅茶を一口含み、爽やかに微笑してみせた。

「ご足労いただき感謝します。御機嫌よう、ユリラ嬢」

「ひぇっ」

 ふ、とも、へ、ともつかない音を発し、令嬢が固まった。みるみる白い肌が紅潮していく。後ろに控えている、ユリラ付きのメイドまでもが頬を赤く染める。

「ユリラ嬢?」

 何度か呼びかけると我に返ったようで、ぽつりぽつりと会話が流れ始めた。
 見目は悪くない。赤みがかった鮮やかな金髪は腰元まで艶々と伸びている。薄く明るい青の目に、小さな唇。年のころは十六だったか。相応というよりは、やや大人びた方だろう。瑠璃色のドレスも、眸の色とよく似合っている。……似合っているが、肩と胸元、細い腕筋と露出が多いのはいただけない。女性たらしの屑長兄になら気に入られるかもしれないが。

「ご趣味は」

「楽器ですわ。幼いころからピアノとヴァイオリンを習っておりますの……マクリムの『民話』でしたら弾けましてよ」

「へえ。あれは指運びが難しいでしょう」

「たくさん練習しましたから」

 ユリラは桃色の紅を塗った唇を緩ませ、控えめに微笑んだ。水色に近い眸を潤ませ、しっとりとした視線をこちらに送ってくる。

 適当に相槌を打ちながら、ああ、違うな、と思った。

「シリウス様は、どんなお料理がお好みですの?」

 少し上ずっているものの、淑やかで落ち着いた声音。
 教養もそれなりに身についているようで、ソファに座る姿勢も悠然としたものである。
 縁を結ぶ相手としては、申し分ないだろう。
 一般的には。

「先日のことなんですけれど、うちに新しい料理人が入りましてね。とっても美味しいババロアを作るんですよ。……その、甘いものがお嫌いでなければ、シリウス様もぜひ」

 桜色に染められた、品の良い爪。
 柔らかな頬。
 くるんっと上を向いた睫毛。
 はにかんだ顔。
 まっすぐ垂れた髪は、きっと後ろのメイドをはじめとした使用人たちに毎日櫛で梳かれているのだろう。
 いずれもがキラキラとした乙女のものでありながら、心を奪われるほどには輝いて見えない。
 とりわけ、ユリラの青――セレストブルーは、彼女・・の青とまったく違う。

 九歳のときに王宮の庭園で出会った少女を、忘れられずにいる。
 ふわふわと柔らかく長い髪に花弁をくっつけた彼女は、アリスと名乗った。アリスに笑いかけられると温かい陽だまりに包みこまれたようで、うだうだと考えていたことがすべてどうでもよくなってしまって、とにかくそばにいたくなる。
 白い肌を彩る双眸は浅くも深くもない青で、空に浮かべば溶けていきそうな。
 心の底から自分を魅きつけて離さない。

 彼女も、いま目の前にいる令嬢も、言ってみれば、金髪青眼の少女という同じ生きものだ。
 それなのに違う。
 違うといえる。
 なにが違う、と問われても、はっきりと答えられる気がしない。しかし、確かに違うのだ。
 どちらかが劣っている、優れている、という次元ではない。
 アリスの眸はもっと炭酸水を含んだような瑞々しい青で、ユリラのものは水色に近い甘さのある青だ。
 そして自分は、炭酸水のもつ苦さと爽やかさに惹かれている。

 一時間ほど話したのち、老執事がシリウスに耳打ちした。
 公爵が呼んでいる、という。
 失礼、と令嬢に断りを入れて席を外す。

「……見合いは三時間の予定と聞いていたんだが」

「ええ」

 執事が眼鏡を指で直し、相槌を打つ。優秀で寡黙な節のある彼は、余計なことは言わない。

「……なぁ」

 長い廊下を歩きながら、シリウスは老執事の名前を呟くように呼んだ。

「縁談、断っておいてくれ」

「わたくしが決めることではございませんゆえ」

 苦笑する彼に、拗ねたような視線だけ向けておいた。

「俺に婚約者は要らん」

 坊ちゃん、と息を吐きだしながら執事は言う。

「……それほど悪いものでもありませんよ」

 ぴしりと後ろに組まれた、老人の両手。内、左の薬指は白い手袋の上からでも分かるように中身がない。
 ふん、と子どもっぽく、公爵家の子息は小さく鼻を鳴らしてみせた。



 ***



 ユリラ嬢との縁談は父を通して断った。相手方から、娘はそちらの御子息をかなり気に入ったようだが、という慌てふためいた手紙が来ていたらしい。考え直していただけないか、とも。
 それでいい、とシリウスは思う。
 二年経っても考えは同じで、いまだに婚約者をとっていない。
 貴族の間では幼いころに婚約を結ぶのが一般的で、十五歳を超えてもいない者は売れ残りとみなされる場合が多い。
 めんどくせえ、というのが正直なところだ。
 ただ、あの少女――アリスにいくら恋焦がれたところで、十年想いつづけたところで、何になるだろう、というのも本心の内ではある。
 あれからどの舞踏会や茶会に顔を出しても、姿を見たことがない。
 もう会うことはないかもしれない。

(家名を訊いておくべきだったな)

 シリウスは上官から渡された黒い手帳を開いた。
 新入団員の中で、研修についていけなくなった者がいるらしく、特別に訓練を組むことにした。数少ない女性団員だそうで、男性に免疫のない子だったらどうしようと本気で思っている。
 手帳に記された名前が飛びこんできた。

「――アリス……?」

 まさか。
 ありふれた名前だ。
 いや、でも。
 もしかしたら。

「あの、」

 声をかけられ、そちらに顔を向ける。
 彼女だ、と分かった。
 髪は随分と短くなっているものの、澄んだ青と透き通るような肌、炭酸水を思わせる涼やかな声は紛れもなく、自分が求めていた彼女であることを示していた。
 ようやく会えた。
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