〈死後九百年の、二年前〉
――焼き立ての匂いがする。
ふわり、と淡い金髪が揺れた。青い眸が匂いの元を捉え、瞬時に頬が緩んだ。
(うわぁバターたっぷり使ってるなぁこれは……あ、アンズ? アンズのジャムかな? 美味しそー‼ こんなところにパン屋さんがあるなんて……ふふ。夜もやってるんだ)
長い睫毛に縁どられた目の先は、『アプリケルム』と看板が立てかけられている煉瓦造りのこじんまりとした建物。点々と橙色のランプが灯っていて、開店中のようだ。ふっくらとした女性がパンの載った天板を抱えて端から端へと移動している。店の奥では、客だろうか、複数人の男性の背中が見えた。
「……職務中だが、アリス君」
甘く香ばしい匂いに惹きつけられていた小柄な少女は、前を歩く男性の咎める声に引き戻された。すみません、と小さく謝る。正直今すぐにでも店名を書き留めておきたいが、その余裕もなさそうだ。少女と同じく紺色の制服を身に着けた、二人の男性――騎士警備団の上官であるミルケ氏と同期のキリングが呆れた目で見ていた。
「お前、ほんとパン好きだな」
「くれぐれも、職務中に買い食いはしないでくれよ」
キリングがそばかすの散った顔に苦笑を浮かべ、ミルケは丁寧に髪を撫でつけた頭に手を当てた。
「さすがにしませんよ……。私もそれくらいは心得てますから」
心外だと言わんばかりに金髪青眼の少女――アリスは眉を下げた。
アリスらが所属している騎士警備団は、国の中枢から末端まで、人々の暮らしを守る組織である。彼らの仕事は多岐にわたり、王族の護衛、戦闘訓練、大陸研究、魔法研究、魔石の収集、魔法道具の開発、貿易関連その他の手続きなどなど。
その中には、日々の見回りが含まれている。早朝、昼間、夜間において、街の警備や違法取引の取り締まりを行うのだ。基本的に当番制で、だいたい三人か四人のグループで一つの区画を担当する。ミルケ、キリング、アリスは夕方から深夜にかけて王都街の外れを見回る当番だ。アリスが当番表を眺めていたとき、横にいた銀髪の男性が苦虫を嚙み潰したような表情をしていたのを不意に思い出した。
「それにしても、この辺は治安悪いって聞いたけど何もないなー。ぶっちゃけ暇っすねー」
「平和がいちばんなんだよ、キリング。あと言葉が乱れている。改めなさい」
はあい、とキリングは素直に返事した。ミルケ氏は言葉遣いや礼儀作法に厳しい。入団した直後の研修で、適切な敬語や立ち姿、歩くときの姿勢を叩きこんでくれたのは彼だった。
しかし、キリングの言い分ももっともであり、現に彼らはひたすら同じところをゆっくりと歩き回っているのだ。せいぜい途中で酔っ払いが寝ているのを起こした程度で、治安の悪い場所にありがちな違法物の取引だとか、チンピラの喧嘩だとかには出遭っていない。
(……でも)
何か、変な感じがする。小さな小さな骨が歯の間に挟まっているような違和感。
すると、ミルケが肩を叩いた。耳を寄せろ、と二人の部下に手招きする。
「気付いたか?」
と小声で言う。
「尾けられている」
小骨の正体はこれか。
「五、六人の気配だ。後ろ――いや、まだ振り向くな。先程曲がった角、パン屋があったところだ。そこからかと思うが……」
ミルケ氏は声を落とした。
「建物、壁には一切傷をつけるな。極力、人にもだ。いいか? ――やれるな」
はい、と空気を切るように短く応じる。
次の瞬間、背後から「おい、」としゃがれた声が呼んだ。三人が振り向くと、ミルケ氏の言ったとおり、六人の男たちが立っている。手に短剣や棍棒を持っている者もいた。いずれもなかなか体格がよく、腕が太い棒のようで、アリスは思わず顔を引きつらせた。
「何でしょう」
「お前ら、さっきパン屋の前を通ったよな」
と圧しつけるように訊ねるのは、頭を刈り上げた一人。
「巡回のルートなもので。それがどうしました」
ミルケが淡々とした口調で答える。
「そこの女をよこせ。店内を見ていただろう」
「わ、私?」
パンのいい匂いがしたから思わず目をやっただけで、恨まれるようなことだっただろうか。
「何か見たのか」
「何も見てませんよ」
怪訝な顔の上官に、ささやき返す。
「とにかくよこせ! あれを見られたら封じなきゃいけねえ」
一際背の高い男が、短剣の切っ先をアリスに向けた。じりじりと男たちがにじり寄ってくる。
「攻撃の意思が見られる」
ミルケが溜め息をついた。それを合図に、部下たちは身を低くして構える。
「『ラピス・マグナ』」
上官が詠唱とともに、指を打ち鳴らした。狭い範囲において地面を割る魔法だ。足場が急にぐらついたためか、ギャッと野太い悲鳴が背後で聞こえた。
「上官! 攻撃魔法どれ使っていい⁉」
「威力を抑えるなら、どれでも認める。あと、上官に許可を求めるときは?」
「敬語ですよね! 『アクア・ユンゲラート』!」
視界の隅でキリングが、頬に刺し傷のある男の首をぎりぎりと締め上げていた。器用にも、別の男の足元に向けて氷結魔法を発する。一方、ミルケは淡々と地面を割り続け、男たちの動きを鈍らせている。
「そこの女を捕らえろ! 女だけでいい!」
髪を刈り上げた一人が叫びながら走ってくる。やはり標的は自分らしい。
「てゅっ、『トゥテーラ』!」
「『ラピス』」
必死で防御魔法を発動させたが、即座に石の粒が飛んできて破られた。その隙に、刈り上げがアリスの腕を掴んで押し倒した。掠れた悲鳴が喉から漏れる前に、むくんだ太い指が少女の首を挟む。手足を動かして抵抗するも、あっけなく抑えられた。
(声、出せない……)
もう一人、比較的細身の男がこちらへ到着したようで、視界を二つの影が覆った。
「これで詠唱できん」
「どうする。連れて行くか?」
「いっそのこと、この場で口を封じて――」
刈り上げの声が途切れた。目の前を覆っていた黒が薄れていき、首を絞めつけていた指が離れた。見えたのは、
夜風に攫われる長い銀髪。
長身を包む紺色の制服。
右手に月光を反射する長剣を構え、左手で刈り上げ男の首根っこを掴んでいる男が。
「……し、」
「やあ、仔猫ちゃん。来ちゃった」
語尾にハートマークでもついていそうな甘ったるい声とは対照的に、憎悪でぎらぎらと染まった眸を刈り上げに向けている。太い首にひんやりと刃先をあて、今にも血が流れそうで怖い。
(シリウス先輩……? 今日は当番ないはず……なんでここに?)
銀髪の男性――シリウスは、アリスの直属の上司だ。体力面から通常訓練についていけない彼女に特別訓練を組んでくれた。騎士警備団の中でもかなり優秀なようで、若くして高い地位についている。
「お前ら、俺のアリスに何してくれてんの。――『アクア・スティーリア』」
傍から見ているだけで背筋が凍るほど不気味に微笑み、シリウスはよく響く低音で唱えた。彼の周囲に細い氷の柱がいくつも浮かぶ。先端は、こっそり逃げようとしていたらしい細男を狙う。
「ひっすいませんすいません!」
「シリウス、その辺でいいだろう。十分だ。それに、どうして君がいる?」
ミルケが男二人の首根っこを片手に握り、口元にもう片方の手を当てて言った。キリングも同様に男二人を引きずりながら、やってくる。
「シリウス大佐じゃないっすかー‼ 本物かっけー!」
そばかす顔全面を輝かせている。呑気すぎる、とアリスは少し引いた。
「可愛い後輩のこと心配しない奴がいるかよ。で、こいつらどうすんだ。斬っていい? それとも串刺し?」
「可愛い後輩を思うなら、残酷な場面を見せるな」
ミルケが憮然とした表情で、乱れた髪を撫でつけた。
「ひとまず事情を聴かねばなんともならん」
パン屋『アプリケルム』。昼は通常のパン屋として経営するが、日が暮れたら輸入魔石の高額な取引を行っていたらしい。魔石というのは、人間の身体でエネルギーとして使われる魔力が宿った鉱石一般を指す。火の魔力を宿した魔石、水の魔力を宿した魔石、雷の魔力を宿した魔石……と、含有される魔力によって色が変わる。魔法道具の材料にされることが多く、その管轄は騎士警備団だ。
「市場に出回ることがほぼないから、大抵の魔石はかなりの値段で売れる。手に入れんのも売り飛ばすのも、違法だがな。魔法道具を作って一儲けしようなんて下流貴族にゃ、高額で投資してもいいほどのブツだ。んで、ちょうど売買契約結んできたとこに、その女が店内をじっと見てたからよ」
「そいで、ばれて捕まるって思った訳ね」
「キリング、言葉遣い」
刈り上げの男がリーダーのようで、彼が代表して経緯を話している。他の男たちは、揃ってしおれた花のように項垂れた。
「あ、あの、私、ほんとに何も見てなくて……」
アリスはおろおろと口を挟むが、
「はぁー……俺らの勘違いかよ……」
「せっかくの儲けが……」
男たちの頭はどんどん下がっていくばかりだ。
「無駄に墓穴掘ったな、お前ら」
「襲われたのは災難だが、何も見ていないで済む話ではありません。まったくもう……」
ははっと笑い声を上げるが、その目は全く笑っていないシリウス。苦々しい顔のミルケは、おそらく始末書のことを考えている。
「こいつらは本拠に連れて行く。その後、件のパン屋を調査する。……始末書はまとめてでいいか、シリウス」
「いいだろ」
「では先に連れて行く。そうだな、キリング、お前も手伝ってくれ。シリウス、引き続き見回りを頼んでいいか。アリスは明日、本拠に赴くこと。分かったな」
「はい!」
「はい」
キリングが敬礼するのに一拍遅れて、アリスもぎこちなく敬礼した。
上官と同期は六人の男たちを立ち上がらせ、元来た方向を戻ろうと足を進める。そばをすれ違った刈り上げの男が、「悪かったな、嬢ちゃん」とアリスに小さく呟いた。ぶかぶかの制服に身を沈めた少女は、敬礼したまま見送る。彼らの後ろ姿が小さくなった頃、自分の背にのしかかるものがあることに気付いた。いつの間にか腰に手が回されている。
「あー疲れちゃったなあー、寮に帰ったら膝枕してほしいなー」
「まだ帰れませんよ。見回り続けましょう。……ところで先輩は、なんでここに?」
「そんなの気にしなくていいよ」
「今日、当番じゃないでしょう。それに、あんなにタイミングよく来てくれるなんて」
「そうだよねー。でも仕事はちゃんと終わらせてきたからさー」
のらりくらり質問を躱す彼に、ふう、と息をつく。薄暗い中で、骨ばった大きな手が浮き上がって見える。ささやかに風が吹いて、シリウスの石鹸の香りと、バターやアンズの甘い匂いとが、少女の鼻に届いた。