〈死後九百年の、二年前〉


「ああ、君、もうここに来なくていいから」

「…………え?」

 喉の奥から、乾いた笑いと一緒に息が漏れた。
 目の前の教官は五十代前半くらいだろうか、日焼けした四角い顔の中に小豆のような可愛い眸がちょこんと埋まっている。あまり笑っているところを見たことがないけど、たぶん笑うとすごく親しみやすくなりそうな顔。
 彼――ドラコニフ教官は眉尻を下げて、戸惑いがちに言った。

「いやね、君、うちの訓練についていけてないでしょ。いつも一番に来てるのはいいことだよ。魔力の使い方もそこそこ悪くない。だけどね、」

 体力が、ない。
 ……うん。知ってる。



 騎士警備団の入団試験を受けたのは、つい二週間前のことだ。
 私――アリスが今いるここ、王立国家ディランに限らず、この世は騎士警備団という団体が人々の暮らしを守っている。王族の護衛、魔法研究、植物研究、魔獣研究、貿易の手続き、住民の警護、見回り、その他こまごまとした依頼など、だいたいのことは騎士警備団が行う。ディランではその本拠地が王都にあり、敷地内に修練場という強化訓練用のスペースもある。
 入団自体は簡単だ。魔法の基礎的な知識に関する口頭試問、身体検査、個人面接をクリアすれば入団できる。その後は三か月ほど研修期間があり、中間試験に合格すれば一人前として認められる。
 だから今は研修――基礎体力向上訓練と魔法強化訓練を受けている、んだけど。

「こ、来なくていいって……どういうことですか? 私、退団ですか⁉」

「いや、そうじゃなくて」

 教官は、黒表紙の手帳の背を太い指でとんとんと叩いた。

「うちの研修じゃなくて、別の人の所に行くことになったから。シリウス大佐って分かる?」

「えっと……」

 ごめんなさい、聞いたことないです。
 というか同時期に入団した人たちと話したことすらないです。みんな体が大きくて、なんとなく話しかけづらいんです。

「まあとにかく、第三修練場まで行ってごらん。」

 第三修練場。ここが第二修練場だから……ええっと。

「……地図ってもらえたりしますか?」

 おそるおそる教官を見上げると、四角い顔は溜め息をついていた。
 だって広いんだもん、ここ。



 簡単に書いてもらった地図を見ながら、なんとか辿りついた。本拠地の建物から近くの森まで歩いて行ったところに、第三修練場はあった。
 普段使われることがないのか、雑草が伸びきっている。第二修練場の半分くらいの広さで、少人数で練習試合をするのには向いているんだろうか。陽当たりはわりとよさそうで、どんよりとした印象はなかった。
 奥の方に背の高い男性が立っていた。ドラコニフ教官と同じ黒い手帳を眺めている。

「あ、あの」

 近寄り、声をかけた。遠くから見てもすらっとした長身だったが、こうして近寄るとかなり見上げないといけない。ずっと一緒にいると首が痛くなりそうだな、なんてあほなことを思った。

「ああ、ドラコニフのとこから来た研修生か。シリウスだ、よろし――」

 彼はこちらに目を向け、口が「し」の形のままで固まった。間抜けな状態ではあるが、相当端正だ。さらさらと長い銀髪を黒い紐で結い、紺色の制服をラフに着崩している。垂れ目がちの目は形がよく、その眸はエメラルドのような綺麗な緑色。鼻筋が通っていて、顎のラインと相まって彫刻みたいな造形美を醸し出している。こんな美形いたんだ。アル兄と並ぶくらいだ、と育ての親の一人を思い浮かべた。
 シリウス大佐は私と手帳との間で目を往復させ、最後にまた私を見つめた。すっと息を吸い、頬が紅潮していく。

「君がアリス?」

「はっ、はい」

「やっぱりそうだ……ねえ、俺のこと知ってる?」

 満面の笑みをぐいっと近づけて、シリウス大佐が訊ねた。

「えっと、その…………ぅ、すみません」

 きらきらとした笑顔に嘘をつきづらく、素直に答える。笑顔が少しだけ曇った。

「そうなの……? じゃあ、幼い頃に王宮に行ったことは?」

「それなら、一回だけあります。三歳か四歳のとき」

 私は貴族じゃないからそういう機会は全くないんだけど、育ての親のもう一人に付いて、王宮へ入ったことがある。小さいリボンが袖についた、可愛らしいワンピースを着せてもらった。大人たちの話は分からず、ぼんやり覚えているのは庭園の花々の光景だけだ。

「やっぱり!」

 にぱーっと笑って、がっしりとした両手が私の右手を包んだ。持っていた手帳は地面に真っ逆さま、さっきまで見ていたらしいページを開いて草の上に乗っかった。

「やっと会えた」

 耳元で甘い音が囁いた。



 ***



 前々から、体力面で研修についていくのが厳しい新入団員がいる、とドラコニフに聞いていた。

「俺が特別訓練でも組もうか?」

 夕食後の食堂で、相談を持ち掛けてきたドラコニフに、俺は提案した。

「いいんですか。助かりますよ……私では何とも難しくて」

 茶色の練り物のような四角い顔に、ほっとした表情が浮かぶ。長年、騎士警備団で働いている彼は、ここでは先輩であっても貴族としては貴方の方が上なのだからと、俺には敬語で話す。別に変わんねえと思うけどな。公爵だろうが伯爵だろうが。

「御手を煩わせることになってしまいますね。申し訳ありません。しかしまあ……、辞めさせるのが良い判断なんでしょうけどね。娘と同じ年齢で、朝一番に来て頑張っている彼女を見ていると何とも。魔法面では悪くないんですからね……問題は体力だけです」

 ふぅん。俺も結婚したらそう思うようになるのかね。
 って、

「彼女って……女性か、そいつ」

「ええ」

 男所帯のここには珍しい。今年の入団試験受験者の中で女性は四人ほどだったのだが、それでも多い方だ。

「へえー……可愛い?」

「娘ほどではありませんが、まあ可愛いものです。座学では授業後に質問しに来ますよ、よく」

 ドラコニフ伯爵家の令嬢は父親似だと聞くが。まあそれはいい。
可愛くても可愛くなくても、自分から辞めるまでは俺が育ててやる。



 ではお願いしますね、とドラコニフに言われた通り、第三修練場で待っていた。
 指導教官用の黒い表紙の手帳を渡されたので、とりあえず開いてみる。
 ――アリス。家名無し。爵位等家柄確認できず。年齢十四。身の丈一五五ほど。……。

「アリス……?」

 心臓が一瞬だけ飛び跳ねた。どこにでもある普通の名前で、彼女とは限らないのに。

 俺が九歳のとき、全てがつまらなかったとき、陽を当ててくれた。
 王宮の庭園だった。
 花びらが薄い金色の髪にいくつもくっついていて、精霊みたいだった。
 自分よりも年上だろうに、ほわほわと微笑みながら頭を撫でる顔と声が、脳裏をよぎる。

 食い入るように手帳を眺めていると、下の方から「あの、」と涼しげな声がした。

「ああ、ドラコニフのとこから来た研修生か。シリウスだ、よろし――」

 よろしく、と言いかけて体が石化した。
 騎士警備団の紺色の制服を身に着けた、小柄な少女がいた。ふわふわとした薄い金髪は片側が長く、後ろはさっぱりと短く整えられている。透き通るような白い肌に落ちる睫毛の影。
 幼さの残る、ふっくらとした頬。一番目を引くのは大きな青い眸で、記憶の彼女と酷似していた。
 手帳に目をやる。アリス。目の前の少女。
 やっぱりそうだ。
 違いない。

「君がアリス?」

「はっ、はい」

 緊張しているのか、声が震えている。俺のことを知っているか、と訊くと首を横に振ったが、幼い頃に王宮に行ったか訊ねるとうなずいた。
 年齢的にも合う。
 何よりこの青い眸がそうだ。
 やっと会えた。
 俺は手帳を放って手を伸ばし、その小さな柔らかい右手を包み込んだ。
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