〈死後九百年の、二年前〉


 執務室から図書室へ向かう途中、シリウスは何度目かの溜め息をついた。
 長い銀髪を後ろでお団子にまとめ、紺色の制服をぴしっと着こなしている。すっと通った鼻筋に柳眉、すらりとした体躯に長い脚と、彫刻のような端整さのある青年だ。
 今朝は妙な夢を見た。
 自分はソファか何か、柔らかいものに腰かけている。
 膝にずっしりと重みがあると思ったら、仔猫のような少女が乗っていた。自分が恋々と想いを募らせている相手である。耳の下ですっきりと切り揃えた金髪を撫でてやると、彼女は目を細めて微笑む。柔らかい肩を抱きしめると、こちらの胸に頬をすり寄せる。細くて頼りない首に唇を落とすと、今度は、きゅっきゅっと可愛らしい声を立てて笑った。

「もっと撫でて」

「ん」

「ぎゅってして」

「はいはい」

「シリウス先輩」

「うん?」

 涼やかに済んだ声音が耳を心地よくくすぐる。
 少女はこちらの背中に腕を回し、ぎゅっと抱きついた。

「大好き」

 そこで、目が覚めた。
 瞬時に起きたことを後悔した。

(もうちょっと寝ればよかった。いいとこで頭冴えやがって)

 書類仕事が溜まっているから起きないといけないのだが、いいところで断ち切られた感が強い。二度寝しても続きは見られないだろうと諦め、シリウスは身支度を始めた。
 愛する少女に求められるという何とも幸せな夢だが、しかし、同時に彼女はあんなことしないという虚しさがやってきて頭をかきむしりたくなる。解釈違いというやつである。煩悩がそのまま出力されたか、と思うとちょっと情けない。
 実に複雑な心境のまま出勤すると、案の定、執務室に報告書と申請書の山ができていた。
 シリウスが所属しているのは、大陸的組織「騎士警備団」。この国ディランであれば国の中枢から末端まで、人々の暮らしを幅広く守る組織として知られている。彼らの業務は王族の護衛、戦闘訓練、大陸研究、魔法研究、魔石の収集、魔法道具の開発、貿易関連その他の手続き、……などと多岐にわたる。
 王都に構える本拠地は広く、数えきれないほどの部屋と研究用施設と保管倉庫とがある。
 その一角にあるのが、図書室だ。所蔵図書数としては王立図書館に劣るものの、団の記録や魔法書、薬学書、魔獣図鑑などといったものは一通り揃っている。
 執務室に積み重なった書類のうち、魔石に関する研究報告書で見覚えのない魔法書の引用があった。それで、原本を確認しようと、とりあえず本拠地の図書室に向かったのだ。

(ここに無ければ王立図書館だな)

 扉のすぐ近くに座って分厚い魔法書を読み進める司書に会釈し、シリウスは左右にそびえる本の壁を見回す。お目当てのタイトルと筆者名を走り書きした紙片を手に、うろうろと本棚の間をさまよう。

(これか)

 黒ずんだ背表紙の本を一冊取り出す。ずいぶん古くに出版されたものらしく、黄ばんだ紙を開くとパリパリと音がした。ページをめくって引用箇所を確認した後、本を元の位置に戻した。

(ん、確認完了。ページの写しは……今回は要らんか)

 さて執務室に、と踵を返したところで、小柄な団員と衝突しそうになった。

「すまない」

「いえ、こちらこそすみません」

 咄嗟に頭を下げる。お互いの声が重なった。聞き覚えのある声だと思っていると、淡い金色の短髪がふわふわと揺れていた。

「アリスじゃないか」

「あれ、先輩じゃないですか」

 シリウスが小声で名前を呼ぶと、きょとんとした顔が見上げてきた。
 彼女はシリウスの直属の部下、アリスだ。ふわふわした金髪に青い目の愛らしい子で、夢に出てきた少女である。今日の恰好は、白いシャツに紺色のベスト、下は黒いワイドパンツを合わせている。素朴な格好だが、可憐なアリスによく似合う。腕に何冊もの絵本を抱えていた。

「あぁ、これ借りようと思って。読み書きの勉強には絵本がいいよって教えてもらったので」

「なるほどね。重くないか? それ」

「……正直、ちょっと」

 苦笑交じりに答えるアリスの腕から絵本を引き受ける。いちばん上に重ねられたものの書名に隣国の地名が入っていて、あぁあの民話かと思い出した。夢で見た蝶を追い求め、螺鈿細工の職人が美しい蝶の装飾を作り出す話である。確か。

「ごめんなさい、お忙しいでしょうに」

 司書に貸借手続きをしてもらい、そのままシリウスが絵本を運ぶ。
 アリスは申し訳なさそうに眉を下げ、ぽてぽてと彼の横を離れないように歩いた。

「構わん。俺も執務室に戻るから、ついでだよ」

「そうですか? ……ありがとうございます」

 えへへ、と彼女は柔らかくはにかんだ。可愛い。このまま執務室に連れて行こうか、などと考えながらシリウスは微笑を返す。
 シリウスの執務室前まで来たとき、アリスが、

「あ、えっと、先輩、」

と上着の裾を引いた。澄みきった青い双眸がこちらを一直線に見つめる。

「あの、あのね、……読んでて分からないところあったら、また訊きにいっていいですか?」

 ひゅっと息を吸いこんだシリウスが一瞬、石像のように固まる。たっぷり五秒ほど動きを止めたのち、再び動き始める。絵本を渡しながら頷く。

「勿論。……それは俺と君だけで?」

「? 他のひと要ります?」

「要らんな。いや、問題ない。ちなみに、どうして俺をご指名で?」

「先輩の教え方がいちばん分かりやすいんです。あと、私が変な質問しても笑わないでしょう」

 シリウスは湧き上がる衝動を抑えきれず、にまにまと頬を緩ませる。

(そうだ、こういう子だった)

 甘えた仕草も媚びるようなこともしない、余計な不純物の混じらぬ眸で見つめてくる子である。そこには打算も下心も存在せず、あるのは純粋に彼を上官として、頼れる知り合いとして慕う心である。
 そんなところに心底惚れたわけだが。
 夢で見た求められ方をしてくれるまでに、どれだけかかるだろうかと思いながら、シリウスは執務室のドアを開けた。
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