〈死後九百年〉資料集
ムーゲンドルフェンの町は、港のある賑やかなところです。
市場には常に人々が溢れ、子どもたちは笑い声を上げて駆け回ります。中央通りを覆うように商家が立ち並び、商人たちの活気ある声々が宙を飛び交います。
浜辺では、毎日、漁師たちが網を引き揚げます。イカや、貝や、エビや、青魚やらが獲れ、それを自分たちで料理したり、市場に並べたりします。市場に並んだ海産物を買った料理人たちは、それぞれの店でパスタに、グラタンに、ピザに、テリーヌにします。そうして料理屋に寄った人々が、美味しい、美味しいと顔を綻ばせながらフォークを進めるのです。
ムーゲンドルフェンは幸せな町でした。
しかしそれは太陽の上がっている間のことです。
陽が沈み、月が姿を表せば、人々は家に帰ります。市場はテントを畳み、漁師たちは網をくるくると巻き収め、料理人たちは店に鍵を掛けます。
ひとたび月が来れば、町はすっかり寂しくなってしまいます。
「月なんていらない」
ある男の子が、そう言いました。
先月、五歳になった男の子は、乳製品の貿易で富を築いた商家の一人息子です。お父さんたちは知り合いの農場から仕入れた牛乳やらバターやらを、海の向こう側にいる人たちに売って益を得ているのです。
太陽が町を照らす間、厳しい顔で商談相手と話をしているお父さんも、せっせとお洋服を仕立るお仕事をしているお母さんも、この男の子が可愛くて仕方がありません。どんなお願いもわがままも、くるみ割り人形にくるみを割らせるのと同じくらい容易く叶えてくれます。
男の子は、ちょうど今日の夕食後、帰ってきたお父さんから新しいボールを貰いました。ぴかぴか、つやつやした綺麗なボールです。さっそく友達に見せたい、と思ったけれど、窓の外は、すっかり濃い青色に包まれていました。その中に、ぽっかりと金色の月が浮かんでいます。濃いバターを纏った、まんまるいクッキーのような月です。
「どうしてだめなの。遊びにいきたいよう」
「精霊に攫われるからよ」
お母さんはそう言って、にこにこと優しい顔で窘めました。
「それに、もう夜よ。真っ暗は怖いでしょう」
「こわくない。こわくないもの。少し遊んだら、いい子で帰ってきます、だから遊びに行ってもいいでしょう?」
男の子はボールを抱きかかえたまま、首を横に振りました。
「ねえ、早く朝にして。月をどこかにやって、太陽を持ってきて」
お母さんが、男の子の頭を撫でます。
「おやすみしたら、すぐに朝になるわ」
「いや。いや。今すぐ太陽を持ってきて」
男の子は泣き出しました。
彼の聞かん坊は、今に始まったことではありません。けれども、いつもはお母さんやお父さん、古くから勤めているメイド頭に宥められると泣き止むのに、今夜ばかりは大粒の涙をぼろぼろ零しつづけています。
駄々を捏ねる男の子に、お父さんが厳しい声で言いました。
「いい加減にしなさい。また明日、友達に会えばいいじゃないか。そんなに夜に出歩きたいなら、月精霊 にでも攫われてしまうぞ」
いつもは聞いたことのない怒鳴り声にびっくりして、男の子は部屋へ逃げ帰りました。そうして頭から布団をかぶって、しくしくと再び泣き始めました。
どうして分かってくれないんだろう。
以前から、男の子には不満でした。ひっそりと静かな市場。家に閉じこもって出てこない町のみんな。家々にぼんやりと灯る火の他は、まるで生気を感じない町。
月さえ空に昇ってこなければ、昼間の活気がずっと続くはずでしょう?
幼い子どもにとってベッドの中で過ごす夜は長く、つまらなく感ぜられます。
太陽が町を照らせば、人々は動き出します。活き活きと顔を輝かせ、溌溂と明るい声で喋り始め、魚や野菜を手に取るのです。男の子の大好きなムーゲンドルフェンが戻ってくるのです。
月がどんなにバターのように芳醇な金色をしていても、夜空の星々が美しくても、夜はいらない。ムーゲンドルフェンには、朝とお昼だけでいいのです。
それなのに、どうして誰も分かってくれないんだろう。
男の子は涙で濡れた頬を拭いながら、布団の隙間から顔を出しました。泣き疲れて、喉が渇いていました。
すると、窓の外が淡く光っているのに気付きました。
蝶の羽のようなものが、ちらちら窓端に見え隠れしています。
男の子はベッドから足を下ろし、窓を開けました。途端に、びゅうと風が舞いこんできて、男の子の可愛らしい前髪を吹き飛ばしました。
再び目を開けると、深い藍色の夜闇に美しいひとが立っていました。豊かな金髪は足元まで流れています。長い睫毛を震わせた奥には、金色の二つの眸。薄い衣は、されど体を確かに覆っています。上質な絹の光沢を放った肩掛けを上に纏う、不思議な恰好をしていました。
そのひとは、柔らかな声で言いました。
「月を攫いに行こう。おいで」
スポンジケーキ生地にたっぷりのブランデーを滲みこませたような声音に、男の子は酩酊したかのごとく足を一歩前へ出します。
差し出された手を取ると、男の子の体は、ふわりと宙に浮きました。
そのまま窓の外に引っ張られました。
芳醇なバターにも似た、甘い匂いが、男の子の鼻をくすぐりました。
海のすぐそばにある町で、ある商家から一人の男の子が消えました。
ムーゲンドルフェンに太陽が昇ります。
また、朝が始まります。
市場には常に人々が溢れ、子どもたちは笑い声を上げて駆け回ります。中央通りを覆うように商家が立ち並び、商人たちの活気ある声々が宙を飛び交います。
浜辺では、毎日、漁師たちが網を引き揚げます。イカや、貝や、エビや、青魚やらが獲れ、それを自分たちで料理したり、市場に並べたりします。市場に並んだ海産物を買った料理人たちは、それぞれの店でパスタに、グラタンに、ピザに、テリーヌにします。そうして料理屋に寄った人々が、美味しい、美味しいと顔を綻ばせながらフォークを進めるのです。
ムーゲンドルフェンは幸せな町でした。
しかしそれは太陽の上がっている間のことです。
陽が沈み、月が姿を表せば、人々は家に帰ります。市場はテントを畳み、漁師たちは網をくるくると巻き収め、料理人たちは店に鍵を掛けます。
ひとたび月が来れば、町はすっかり寂しくなってしまいます。
「月なんていらない」
ある男の子が、そう言いました。
先月、五歳になった男の子は、乳製品の貿易で富を築いた商家の一人息子です。お父さんたちは知り合いの農場から仕入れた牛乳やらバターやらを、海の向こう側にいる人たちに売って益を得ているのです。
太陽が町を照らす間、厳しい顔で商談相手と話をしているお父さんも、せっせとお洋服を仕立るお仕事をしているお母さんも、この男の子が可愛くて仕方がありません。どんなお願いもわがままも、くるみ割り人形にくるみを割らせるのと同じくらい容易く叶えてくれます。
男の子は、ちょうど今日の夕食後、帰ってきたお父さんから新しいボールを貰いました。ぴかぴか、つやつやした綺麗なボールです。さっそく友達に見せたい、と思ったけれど、窓の外は、すっかり濃い青色に包まれていました。その中に、ぽっかりと金色の月が浮かんでいます。濃いバターを纏った、まんまるいクッキーのような月です。
「どうしてだめなの。遊びにいきたいよう」
「精霊に攫われるからよ」
お母さんはそう言って、にこにこと優しい顔で窘めました。
「それに、もう夜よ。真っ暗は怖いでしょう」
「こわくない。こわくないもの。少し遊んだら、いい子で帰ってきます、だから遊びに行ってもいいでしょう?」
男の子はボールを抱きかかえたまま、首を横に振りました。
「ねえ、早く朝にして。月をどこかにやって、太陽を持ってきて」
お母さんが、男の子の頭を撫でます。
「おやすみしたら、すぐに朝になるわ」
「いや。いや。今すぐ太陽を持ってきて」
男の子は泣き出しました。
彼の聞かん坊は、今に始まったことではありません。けれども、いつもはお母さんやお父さん、古くから勤めているメイド頭に宥められると泣き止むのに、今夜ばかりは大粒の涙をぼろぼろ零しつづけています。
駄々を捏ねる男の子に、お父さんが厳しい声で言いました。
「いい加減にしなさい。また明日、友達に会えばいいじゃないか。そんなに夜に出歩きたいなら、
いつもは聞いたことのない怒鳴り声にびっくりして、男の子は部屋へ逃げ帰りました。そうして頭から布団をかぶって、しくしくと再び泣き始めました。
どうして分かってくれないんだろう。
以前から、男の子には不満でした。ひっそりと静かな市場。家に閉じこもって出てこない町のみんな。家々にぼんやりと灯る火の他は、まるで生気を感じない町。
月さえ空に昇ってこなければ、昼間の活気がずっと続くはずでしょう?
幼い子どもにとってベッドの中で過ごす夜は長く、つまらなく感ぜられます。
太陽が町を照らせば、人々は動き出します。活き活きと顔を輝かせ、溌溂と明るい声で喋り始め、魚や野菜を手に取るのです。男の子の大好きなムーゲンドルフェンが戻ってくるのです。
月がどんなにバターのように芳醇な金色をしていても、夜空の星々が美しくても、夜はいらない。ムーゲンドルフェンには、朝とお昼だけでいいのです。
それなのに、どうして誰も分かってくれないんだろう。
男の子は涙で濡れた頬を拭いながら、布団の隙間から顔を出しました。泣き疲れて、喉が渇いていました。
すると、窓の外が淡く光っているのに気付きました。
蝶の羽のようなものが、ちらちら窓端に見え隠れしています。
男の子はベッドから足を下ろし、窓を開けました。途端に、びゅうと風が舞いこんできて、男の子の可愛らしい前髪を吹き飛ばしました。
再び目を開けると、深い藍色の夜闇に美しいひとが立っていました。豊かな金髪は足元まで流れています。長い睫毛を震わせた奥には、金色の二つの眸。薄い衣は、されど体を確かに覆っています。上質な絹の光沢を放った肩掛けを上に纏う、不思議な恰好をしていました。
そのひとは、柔らかな声で言いました。
「月を攫いに行こう。おいで」
スポンジケーキ生地にたっぷりのブランデーを滲みこませたような声音に、男の子は酩酊したかのごとく足を一歩前へ出します。
差し出された手を取ると、男の子の体は、ふわりと宙に浮きました。
そのまま窓の外に引っ張られました。
芳醇なバターにも似た、甘い匂いが、男の子の鼻をくすぐりました。
海のすぐそばにある町で、ある商家から一人の男の子が消えました。
ムーゲンドルフェンに太陽が昇ります。
また、朝が始まります。
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