2章 王都にて
がくん、と首が大きく揺れて、リュウヤは慌てて瞼を押し上げた。先々の街で貰った上着を体に巻きつけているが、どことなしに肌寒さが襲ってくる。思わず、水を浴びた犬のようにぶるるっと身を震わせた。その弾みで、包帯を巻き替えた右肩がズキンと痛み、リュウヤは顔を顰めた。
「着きましたよ、お客さん」
御者台から、歌うように呼びかけられる。今まで、荷台の床下から腰へ絶え間なく伝わっていた僅かな振動が、ぴたりと止んでいた。目的地に到着したので、車体を引く竜が足を止めたのだ。
リュウヤは、先に竜車の荷台を降りていった少女に続いて立ち上がった。トートバッグを忘れず引っ掴む。堅い木の床板に座っていた尻をさすりながら、ひょいっと飛び降りる。
昼下がりの穏やかで眠気を誘う匂いがした。顔を上げると、視界いっぱいに、人々が賑やかに行き交っている。十歳ほどの少年たちが、ぱたぱたと走り過ぎた。ガタイのよい坊主頭の男性が、ずらりと野菜を並べ、手を叩きながら客を呼び込む。小さな子どもの手を引いた夫婦が紙袋を抱え、話しながら歩いていった。
「どうでした、竜車の乗り心地は」
御者の男性が、リュウヤに話しかけた。暗い赤茶色の帽子を被り、ぽっこりと腹の突き出た中年の男である。にこにこと柔らかい笑顔で、地面に大人しく身を伏せる竜の頭を撫でている。
「うーんと、結構スピードが出るんだなって思ったっす。馬車よりもビューンって駆け抜けてく感じかな。その分、揺れが大きかった気がするっすね」
「はは、やっぱり竜車の揺れはまだ課題か。でも、そのわりにはお客さん、よく寝てたね」
素直に答えるリュウヤに、御者の男は笑みを深くして、からかうように言った。気付かれてたか、とリュウヤは八重歯を覗かせ、後頭部を掻いた。
「リュウヤくん」
てってって、と先を歩いていた少女――アリスが、停車した竜車の元に戻ってきた。彼がついてきていないことにようやく気付いたらしかった。流麗な声音に焦りが混じる。
「あ、ごめんごめん。すぐ行くから」
リュウヤは小さく手を振った。御者の男と竜に会釈し、彼女の方へ足を向ける。
「またのご利用を」
御者がにこやかに言うとともに、頭を伏せていた竜が一鳴きした。
黄、赤、青、緑、白……と色とりどりに塗られた石畳の上を跳ねるように歩いていく。
がやがやと賑わう人々の往来をすり抜け、前を歩くアリスの上着の裾を掴んだまま足を進める。途中、数人と肩がぶつかって、そのたびに小さな雷がピリピリと全身を巡っていくようだった。せめて左肩がいい、と右半身をかばうように歩く。
「すっげえ人……」
「王都の中央通りですから。迷子にならないようにしてください」
ちらちらと振り向きながら、アリスはずんずん進む。リュウヤは周りの活気に心を奪われつつ、はぐれないように彼女の背中を追った。
リュウヤがいるのは、「ディラン」という王国だそうだ。
王立国家ディランは古くから魔法利用の発展により栄えてきた。現在では王都、北区、西区、東区、南区の五つのブロックに分かれている。国全体を統治するのは王族だが、各地を実質的に治めているのはそれぞれ領地を所有する貴族だという。
数日前まで滞在していたカンパニュラは、西区に位置する街の一つ。そこからゆっくりと南へ向かい、ディランの中心地――王都フォーランまで辿り着いた、という形らしい。
乗合馬車に乗ってカンパニュラを出発。途中、マトリカリアという街にて竜車へ乗り換える。そこからほぼ一直線で街道を突っ切ってフォーランに到着。ここまで、だいたい三、四日くらいかかった。夜は馬車や竜車が止まるらしく、宿駅とやらで過ごしていたので、実質的に車体が動いていたのは二日半分くらいだろう。
「整備された道路とはいえ、魔獣や盗賊が出没する恐れもありますから。街灯がある道ならいいけど、真っ暗闇なところもあるので宿駅に泊まった方が確実に安全なんです」
アリスが言うには、そんなところだそうだ。「生前」の世界でいう終電みたいなものだろうか、とリュウヤは変な納得をした。
ふと、少女が左へ曲がる。
(え、そっち、路地裏じゃ……)
薄暗い道をしばらく進むと、アリスの足が止まった。リュウヤは一瞬つんのめりそうになる。
「ここです」
眼前にあるのは、二階建ての建物だった。木製の扉に、これまた木目調のプレートがかかっている。相変わらずプレートに書いてある文字は何が何だか分からない、ぐにゃぐにゃだ。
(ここが薬屋かぁ)
賑やかな喧噪を振りほどくような、静謐さをたたえた場所である。建物の前に立つ自分たち以外に出入りする様子の人は見られず、また堅い扉の向こう側を窺うこともできない。どことなく寂れたような雰囲気が漂っていた。
(……そういえば、さっきの中央通りも崩れかけの建物があったよな)
それも、一軒や二軒ではなく、目に入るほとんどの家や建物がそうだった。崩れかけ、というよりは復興途中というような――。
アリスが、扉を押して中に入っていく。ぼけっとしていたリュウヤは慌てて彼女に続いた。
「しっ、失礼しまっす……」
「アリス‼」
リュウヤがおそるおそる室内に足を踏み入れると、女性の声が真っ先に飛び込んできた。次いで花弁を煮詰めたような濃い芳香がガツンと鼻先を突いた。
先に入っていったアリスは、背の高い女性に抱きしめられていた。その傍らで、少し露出の多い服装の若い女性たちが二人、おろおろと見守っている。
「どこまで行ってたの⁉ 何も言わずに出て行っちゃって……!」
長い栗色の髪を背中に垂らした女性が言った。ブーゲンビリアの花色を映した紅いワンピース――膝丈でふんわり裾が広がったそれに身を包んでいる。小柄な少女の肩に顔を押しつけ、くぐもった声音に涙が織り交ざる。
「もうっ、心配したのよ⁉ 二週間も帰ってこないんだもの……、わたしがどれだけ不安だったか分かる? ひとりで残された方の気持ち、解るでしょう?」
「……ごめんなさい、セレネママ」
ぎゅうぎゅう抱きしめられたアリスが、喉奥から絞り出すようにささやく。セレネママ、と呼ばれた女性はバッと身を離し、唇を嚙みしめる少女に言い含めた。
「帰ってきたからよかったけど、次、同じように黙って出て行ったら許さないから。わたしだってそこまで心広くないんだからね」
「うん。ごめんね」
淡い金色の横髪を、長い指が掬う。くすぐったそうに目を細めてアリスは「ごめん」と繰り返した。
「それで、どこまで行ってたの……って、あら? そっちの子は?」
女性のぱっちりとした茶色い双眸が、リュウヤを視界に捉えた。室内の目線がすべて彼に集中する。女性陣から一斉に見つめられてどぎまぎしながら、アリスに手招きされるままにリュウヤは彼女らの側へ寄った。
アリスがリュウヤを見上げ、片手で女性を示した。
「リュウヤくん、こちらセレネママ。この薬屋のオーナー。――セレネママ、こちらリュウヤくん。カンパニュラで保護しました。自分がどこから来たか、どこへ行くのか分からないそうなので」
実に簡潔な紹介である。リュウヤは思わず目を剥いた。説明があまりに短すぎる。
「えっ? ……え? 保護? っていうかアリス、あなた、西区まで行ってたの?」
栗色の長髪の女性が眉を上げ、新たな疑問符を浮かべる。戸惑う瓜実顔は目鼻立ちがハッキリしており、豊かな胸元や優美な肢体と相まって華やかな美貌を示す。踵の高い靴を履いているのもあるだろうが、アリスより頭半分ほど背が高い。
リュウヤはごくりと唾を飲みこみ、勢いよく敬礼した。
「初めまして!
「えっ……え~~~?」
あらあらあら、と瓜実顔の美女は口元に手を当てる。
「ご丁寧にどうも。セレネです。アリスの――この子の保護者よ」
セレネは会釈しつつ、そばの少女を引き寄せた。その表情には、うっすら不信そうな様相が含まれている。
(うっ……まぁそりゃ警戒されるか)
あからさまに態度へ出さないものの、セレネが内に抱いている感情は、リュウヤが察した通りだろう。
警戒と混乱、不安。おまけに不審。
一緒に暮らしていた子が黙って姿を消し、二週間も後にようやく帰ってきたかと思えば見知らぬ男と一緒にいる。その男はどこから来たか分からず、一緒に住ませろと言う。
戸惑わない方が無理だ。
説明の順番をミスったか。
「あのッ……」
説明を足そうと口を開いたリュウヤを、アリスが手で制する。
「リュウヤくん、右肩を怪我してるの。ミシェさんのところに連れて行こうと思うんだけど、セレネママも一緒に来てくれないかな」
「えっ、怪我してるの⁉ 先に言いなさいそういうことは!」
わっと女性陣がリュウヤを囲む。一気に襲いかかる香水の強い匂いにむせかえる。
「右? 右肩だっけ? 止血した? 消毒は?」
「い、今は血ぃ止まってるっすけど……」
「カンパニュラって、街医者いなかったっけ」
「いるけど、それどころじゃなかったの。街が魔獣に襲われちゃってね」
「魔獣⁉」
アリスを除く女性陣は皆、肩や腕を剥き出しにし、胸元の大きく開いたドレスのようなワンピースを着ている。滑らかな肌と宝玉の一部が垣間見え、中々に刺激が強い。クラクラと目を回しかけるリュウヤに、アリスが静かにその手を引いた。もう片方の手で女性陣を制する。
「あぁ、ごめんなさいね。いきなり囲んだら驚くわよね」
ようやく我に返ったらしく、セレネが身を引かせた。思案するように艶やかな唇へ指を当て、呟く。
「まずはミシェのところかしら。……ごめんなさい、貴女たち、もうしばらく店番頼める? あまりお客さんは来ないと思うんだけれど」
傍らにいた二人の女性が同時に頷き、揃ってニコリと微笑した。
薬屋を出て、ひっそりと人影の少ない路地裏をうねうね歩く。角を曲がり、路傍に転がっている麻袋を飛び越え、野良猫の家族が寝ている横を通り、また角を曲がると、目の前にこぢんまりとした建物が現れた。先の薬屋とは異なり、こちらは一階建て、擬石仕上げの外壁である。
先頭を歩いていたセレネが、硬い石製のドアを押し開ける。
するとまた別のドアが現れた。扉の上部には蛇を象った小振りなペディメントが付いていて、そこから小さな釣り鐘のついた長い紐が垂れさがっている。セレネは紐を三度引っ張る。
りん、りん、りん、と可愛らしい音が響きわたった。
「一見の来客は、たいてい鐘一回しか鳴らさない。怪我の治癒で訪れたことのある人たち……騎士警備団の子たちが多いかしら、そういう人は二回。ミシェと個人的に親交のある人は三回。ミシェの家を知ってる人は、鐘を鳴らす回数で合図するの」
と、セレネが言うが、どういうことなのか、いまいちピンとこない。
リュウヤは説明を加えてくれることを期待してアリスを見るが、当人は微かに首をかしげただけだった。残念ながら目配せでは伝わらなかったらしい。
待つこと十数秒。ドアが重々しく開き、中から一人の女性が顔を覗かせた。
「はいはーいっ、あ、セレちゃん! おひさ!」
弾んだ声が親しげにセレネを呼んだ。オレンジ色に近い金髪は毛先が紅く、全体としては耳の下で切り揃えている。左右に細く一房ずつ垂らし、玉の髪飾りでまとめている。すらっとした身体に、初夏の若葉色を映したベアトップを合わせ、下は動きやすそうなパンツスタイル。胸元には新緑の宝石が飾られていた。
しかし、ひときわ目を引くのは、額にぱっくりと開いた……眼であった。
本来あるべき場所に双眸があるのに加えて、額にも同形の眸がはめ込まれ、生き生きと輝いている。柔らかな黄みがかった三つの眼。それらがほぼ同じタイミングで瞬きし、細められ、軽やかにセレネとコミュニケーションを交わしている。
リュウヤがまごついていると、三つ目の女性がこちらを向いた。ニッと目を細めて笑う。
「やぁやぁ、初めましてだね。きみが怪我人かな? ま、中に入んなよ」
彼女は、治癒魔導士の『ミシェ』と名乗った。