〈死後九百年〉本編

 馬車に揺られている。
 リュウヤは座席の後方から顔を出し、流れゆく景色をぼんやりと眺めていた。穏やかな昼下がり、薄雪の積もった土の上に、二本の線が長く続いていく。ひんやりとした冷気が頬の産毛を撫でては通り去っていった。
 がたん、ごとん、と車輪の振動が台板を通して、三角座りの腰に伝わってくる。時折、路傍の岩に軽く衝突するものの、案外乗り心地は悪くない。自動車やバス、電車とはまた違った心地だ。
 カンパニュラを出て、数時間ほど経った。
 しばらくは他に二、三人ほど乗客がいたが、それぞれ途中で降車していき、今はリュウヤとアリスだけである。

「王都ってさぁ、まだ遠いの」

 腹と太腿の間に挟んでいたトートバッグから焼き菓子を取り出しながら、リュウヤは訊ねた。宿屋のご隠居に貰ったものだ。丁寧にラッピングされ、袋留めのシールまで付いているところを見ると、どうやら店で買ったものらしい。入っていたクッキーを一枚、口に放りこむと、さくりと小気味いい音がした。バターの芳醇な香りが鼻を抜けていく。指先についた塩っ気をぺろりと舐めた。

「遠いですよぅ。馬車だけで行くなら、六日か七日くらいは軽くかかりますもん」

 質問を向けた相手はアリスだったのだが、御者の青年が代わりに応じた。小麦色の肌にそばかすが散った顔で、全体的にひょろっと細長い。焼きトウモロコシのような笑顔に愛嬌があった。

「一週間⁉ 長っ!」

「これでも早い方ですよお。もっと早く王都に着きたいなら、竜車りゅうしゃに乗り換えるのもいいかも。あと十数分くらいでマトリカリアに着きますから、そこで乗り換えるといいですよぅ」

 御者は荷台を振り返らず、間延びした口調で返した。

「りゅーしゃ? りゅーしゃって何、アリスさん」

「竜が引く荷台車です」

 淡い金色の横髪を耳にかけながら少女が答える。眠たげに青い眸を伏せ、御者台に近い位置にちょこんと小さく座っている。リュウヤは、いそいそと彼女の方に移動し、クッキーを一つ手渡した。

「……馬車のドラゴン版ってこと?」

 っていうか、ドラゴンいるんだ。
 魔法といい、巨大な虎の魔獣といい、ドラゴンといい。リュウヤが「生前」生きてきた日本ではいずれも空想の類だったのに、ここでは平然と存在しているようだ。
 さくさくとクッキーを齧りながら、アリスは頷く。

「そんな感じです。大概の竜種は家畜化に向いてないので、竜車はかなり希少なケースですね。私も、ちっちゃいころに一回だけ乗ったきりです。この先の街……マトリカリアに乗り場がありますけど、他の街ではあまり見たことがない」

「へえー」

「それより」

 間の抜けた声を上げるリュウヤに、アリスは静かに顔を向けた。炭酸水を思わせる澄んだ声音だが、まだ眠気が抜けきっていないのか、若干呂律がたどたどしい。

「『さん』は不要です。リュウヤくんの方が年齢は上でしょう」

「んぐ」

 勢いよくクッキーを口に放りこんだせいで、喉に詰まった。リュウヤは慌てて自らの胸をドンドン叩き、どうにか落ち着かせる。少女が差し出した瓶を受け取り、冷たい水を喉に流しこんだ。

「ごめん、ありがと」

「いえ」

「これ、口つけちゃったけど大丈夫?」

「構いません」

「……怒ってる?」

「怒ってません。何を怒るんですか」

 そう返されると、今度は言葉に詰まってしまう。気怠げな眸は長い睫毛が陰を落としていて、その表情を伺うことができない。淡々とした声も、ぴくりとも動かない口角も、少女の感情を読み取るのに十分な情報を与えてくれない。
 リュウヤは決して人の感情の機微を読み取るのが苦手なタイプではない。アリスが表に出さないのだ。笑みを浮かべることをしなければ、極端に愛想のない――例えば、死んだ魚のような目で睨むようなことをしない。つまりは無表情なのである。それも、ロボットのものではなく、奥に血の通っているのを感じさせるものだ。
 いつか、温かく柔らかな笑みを見せてくれるかもしれない、と期待させるような。

「じゃあアリスって呼ぶけど、アリスもおれのこと、呼び捨てでいいよ。年齢、そんなに違わないでしょ。いくつ?」

「十六です」

(高校一年生くらいか)

 幼さの残る顔立ちに小柄な身の丈からすれば妥当な年齢だろうか。しかし、冷静な身のこなしや言動を考えれば、年相応というよりは少し大人びている、と思う。

「……意外と子どもだったんだな」

「ご不満?」

「いやいやいや、別に⁉」

 ぼそりと独り言を呟いたつもりだったが、聞こえていたらしい。リュウヤの背中を冷汗が一筋、流れ落ちていく。

「…………怒ってます?」

「別に怒ってません」

「ほんと? ……あの~、アリスさん、できたら、ちゃんとこっち見てくださいます?」

 アリスは小さく溜め息を漏らした。整った小さな顔をリュウヤの方に向け、「本当です」と念を押すように言った。だるそうに瞼を下げる。

「リュウヤくん」

「はい」

「……クッキー、まだありますか」

「あります」

 リュウヤは、きりっとした顔で焼き菓子の袋を探った。どうぞ、と残っていた最後の一枚を渡す。睡魔を拭いきれない表情で、少女はバターの甘い香りのするそれを頬張った。

 ごとごと、座席に微かな振動が伝わる。
 馬車による旅路は、もうしばらく続く。



 ***



 ぎりり、と歯噛みする音が広い廊下に響いた。血の色より彩度の高い赤に染められた絨毯が廊下一面を覆う。高い天井には豪奢なシャンデリアが付けられており、通路というよりも大広間のような空間である。
 そこに、しゃがみこむ少年が一人。

「親愛なる虎ッ子……オレの虎ッ……よくも……よくも、人間風情が……」

 獅子のたてがみのごとくツンツンと逆立たせた金髪。黒い毛皮の首巻き。小柄な体躯を身軽な服装に包んでいる。眉を寄せ、顔を顰めてぎりぎりと歯噛みを繰り返しながら、ぼつぼつと呟いていた。

無様ぶざま

 そのとき、廊下の奥から靴音とともに一つの人影が現れた。少年は反射的に顔を上げる。

「ほんに勿体ない」

 聞き覚えのある声だと気付き、少年の眉がムムッとさらにひそめられた。

「戦力の無駄遣い……否、どうせ貴様のことだからまだはあるのだろう」

「ああッうるせえ‼ 言いたいことあるならハッキリ言いやがれ、ケドルス=ザック!」

「先から申している」

 しかつめらしい顔に不機嫌を乗せた男が足を止める。ケドルス=ザックと呼ばれた彼の、短く刈り上げた襟足を冷気が撫でた。背の高く、ほどよく筋肉のついた体つきである。顔の両側についた耳飾りは光を反射しない黒で、三本線に斜めの一本線が突き刺すような形をしていた。

「鬼子の手記を回収しろという命令ではなかったのか」

「うっせえ」

「ハッ、失敗したのか。それで、のこのこ戻ったと。無様だなサイネル」

「うるっせえ!」

 獅子髪の少年……サイネルは、拳をガッと絨毯に叩きつけた。向かい合う男がそれを見て、ますます嘲笑を濃くする。

「なんでお前はいつもそうッ……!」

「『そう』、何だ? 言いたいことがあれば明確に示せ。貴様が先に言ったことではないか」

 玩具を見つけたと言わんばかりに、ケドルス=ザックがにんまりと唇の端を吊り上げた。サイネルは短く舌打ちする。
 そのとき。

「――やだなあ、喧嘩しないでよ。同じ『七冠ななかん』なんだから仲良くしよう」

 コツ、コツと堅い靴音が二人の男の耳に届いた。
 薄暗い廊下を、また別の人物がこちらへ歩いてくる。彼の姿を視界に捉えたサイネルは潰れた蛙のように呻き、ケドルス=ザックは思い切り眉を寄せて不快感を顕わにする。
 その人物は二人の男の手前で足を止め、小首を傾けた。くるんと癖のある赤い毛先が揺れる。

「ねえサイネル、僕は何てお願いしたっけ」

「……」

「虎ちゃんが殺られたからって、わざわざここまで戻ってくる必要はないんだよ。ね?」

 おっとりとした口調で言い含める。まるで聞かん坊を相手にしているような話し方だ。

「ケドルス=ザックも、どうしてこんなところでサイネルに構ってられるのかな。手記がまだ向こうの手元にあるってことは、君も行ってもいいんだよ。ね、僕はまだ体がだるくて動けないからお願いしてるんだ」

「我は貴様の命など請けん」

 ケドルス=ザックは腕を組み、フンと顔をそむけた。

「そも、貴様が赴けばよい話であろう」

「話聞いてた? 僕、まだ体の調子が完璧じゃないんだってば。この前の風邪がまだ残ってるの」

 そう言って彼は大袈裟に肩をすくめてみせた。ケドルス=ザックがフンと鼻を鳴らす。獅子髪の少年を見やれば、彼は彼でそっぽを向いていた。反抗的な態度を見せる二人に、穏やかな殺気がじわりと忍び寄る。

「反抗するのも勿論、君たちの自由だよ。でもね。――いいから、黙って従ってくれるね?」

 あはは、と朗らかな笑い声を立てる。赤髪金眼、豪奢な詰襟のついた服に身を包んだ青年はゆらりと顔を上げた。
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