1章 カンパニュラの祝福
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甲高い笛の音が鳴り響き、虎の巨躯が地面に倒れこんだ。自分がどれだけ魔法攻撃を費やしても倒れなかった魔獣は目を回して、微かにも動かない。
「にいちゃん⁉ おいっ、大丈夫かよ‼」
宿屋の男が太い腕で、一人の青年を抱き起こした。ツンツンとはねた茶髪に、首から紐のついた小振りな笛を下げた青年である。青ざめた童顔を宿の主人の二の腕にぐったりと預けている。右肩に巻いた白い布に血の染みが、その色を濃くしていた。
「リュウヤ君っ」
「ちょっ、気ぃ失ってるんじゃないか⁉」
街の住民たちが、彼の周りを取り囲む。
「レヴの宿屋はそこまで被害受けてなかったよな?」
暗い茶髪を短く刈った男が、宿の主人に話しかけた。主人は空いた方の片手で、深緑の後頭部を撫でる。
「ああ」
「連れてってやれ。ちゃんとしたところで寝かせた方がいいだろう」
「そうだね、それがいい」
「教会の方がいいんじゃないかしら」
「いや、ここからはレヴの宿の方が近いだろう」
わいわいと騒ぐ群れの内から、のそりと緑髪の男性が出てくる。がっしりとたくましい背中におぶっているのは、先の青年。青白い両瞼が力なく閉じられていた。
残った人々は心配気に見送りながら、次の行動に移る。ある者たちは火の燃え広がっている家々に向けて水魔法を唱えた。別の者たちは近くの家に入って、麻縄やバケツを持ち出した。太く長い縄で、魔獣の巨躯を地面へ縛りつける。水の入ったバケツを火元に傾ける。じゅう、じゅわり、と音を立てて炎が少しずつ鎮まっていく。
それらから離れたところに、一人の小柄な少女が呆然と立ち尽くしていた。白いローブに、喪服を思わせる真っ黒なワンピース。すっきりと澄んだ青い双眸は、戸惑うように前方を眺めている。
街に燃え広がっていた火の勢いが弱まっていく様を。
往来とともに交差する、住民たちの活発な声を。
恐怖と怯えの消えた、彼らの顔を。
ふと、熱の和らいだ風がふわりと髪を攫った。惹かれるように空を見上げる。形のよい後頭部は糸で引っ張られるごとく。
視界いっぱいに広がる濃藍は、あちこちに細々とした星々を散りばめていた。
双眸に、輝きが降る。
こんなに綺麗な星空だったろうか、と、街の炎が消えて初めて気が付いた。
***
「死に場所を探しに来たの」
ふわふわと緩い癖のある金髪を耳にかけながら、少女が呟いた。窓からふわりと舞いこんだ風はひんやり冷たく、リュウヤの首筋をチクチクと刺すように撫でる。
涼やかな声が紡ぐ言に、リュウヤは浮かべていた笑みをそっと消した。彼女の俯いた顔を静かに見つめ、言葉の先を促す。
「……家が」
アリスは膝に置いた指を組み換えた。ふくふくとした指の端はつややかな桜貝のような爪だ。
「薬屋をしてて。私はその手伝いをしてるんだけど、材料が足りなくなったから採りに行こうと思ったの。それで、カンパニュラまで来た。それだけだった……けど」
窓の外で歓声が湧き上がった。話し声から察するに、魔獣の解体をしているらしい。怖がっているのか、ひぃひぃと幼い泣き声も聞こえてくる。野太い男の声が、「そっち、足の方を持ってくれ」と指示を飛ばしていた。
「ひとりだったから、ひとりになったから、急にどうしようもなく耐えられなくなった」
だから、死に場所を求めた。
以前、カンパニュラよりも奥に行けば、渓谷があると聞いたことがあった。そこでもよかった。
アリスはそう語り、落ち着きなくまた指を組み換える。
(……あぁ)
リュウヤは少女の整った愛らしい顔立ちを眺めながら、心の中でひっそり思った。
(ちっっっっともわからん! ごめん! めちゃくちゃ悩んでるのは分かったけど! ごめんッ分からん‼)
眉をぎゅっと寄せ、くしゃみをする寸前の顔で止まるリュウヤに、ベッド脇の椅子に腰かける少女は少し体を引かせた。ちなみに当の彼は、そんな表情になっているのに気付いていない。
ちょっと慌てた様子でアリスが言葉を重ねる。
「でもね、今はどうでもよくなったから。だから、……明日にでも帰ろうかなって、思ってる」
(あー、家出してたのか)
リュウヤはようやく納得した顔になった。
心底わからなかったのだ。目の前にいる少女が、可愛らしい顔で自分の生を憂うのが。父親の借金やバイト先のクレーマー、定期試験など頭を悩ませることはあったものの、それらから逃れる手段を選ぼうとは思ってこなかった彼である。悩んでもムッとしても消化不良でも、一晩寝たら「ま、いっか」とカラッと忘れている彼のことである。
ある意味、自分の悩みにも他人の悩みにも鈍いといえる。
「でも、帰るところがあるだけいいよ。おれなんてどこ行ったらいいか分かんないもん」
リュウヤは、あははっと炭酸の泡粒が弾け飛ぶような笑い声を立ててみせる。行く当てがないことを打ち明けると、少女は「え」と面食らった声を発した。
(そりゃ変な顔するよなぁ)
組んだ指を膝上に乗せたまま固まるアリスに、当然の反応だ、と苦笑しつつ頷きたくなる。
「そもそもここがどこかも分かってないし。……あ、そうだ。アリスさんと一緒に行ってもいい?」
そう、屈託のない笑顔で言った。
冗談交じりの軽口のつもりだった。半分は。
「薬屋さんだっけ。重いもの持ったり掃除したりとか、雑用でも何でもするよ。調合とか専門的なのは……ちょっとむずいかもだけど。体力にはそこそこ自信あるから、重労働もいけるよ」
この世界で生活していくのなら、衣食住の確保が何より優先である。
現在リュウヤが持っている装備はパーカーとカーゴパンツ、下着一セット分、スニーカー、ホイッスルという最低限のものだ。あまりに頼りなさすぎる。ここの通貨に換えられそうなものはないし、どれか一つでも手放したところで貧相な装備がさらに寂しくなるだけだ。
アリスについていくか、あるいは
「それにさ」
リュウヤは、ぐいっと背を伸ばした。星々を吸いこんだように両目がキラキラしている。
「アリスさんの魔法、すげえかっこよかった」
膝の上の指がぴくりと動いた。
「ほらっ、あれ。石が大量にブワーッて空中に浮かんで、びゅーんって虎に向かって飛んでってさ。流星群みたいで見惚れたもん。めっちゃ綺麗だった。すごいって思った」
ばたばたと身振り手振りを交えながら、リュウヤが熱っぽく、やや早口で語る。そこには媚びも営業用の褒め言葉も他意も存在せず、ただひたすらに本心のみが浮かぶ。
リュウヤは照れくさそうに頬を掻いた。
「だからおれ、そんなすごい人の手伝い、できたらいいなって――」
「じゃあ」
柔らかくすべすべした指先がリュウヤの首元に伸びる。目の端で淡い金髪がなびいた。ぐわりと襟元を掴まれ、少女の愛らしい顔が至近距離にまで寄せられる。
「私と一緒に死んでくれる? 死に場所を見つけてくれる? リュウヤくん」
吸いこまれるような青い双眸だった。特段、深くも浅くもない色はどこにでも存在していそうなものなのに、見つめる者を惹きつけてやまない。長い睫毛に縁どられた青が震えながら自分を捕らえて離さない。
「私と一緒に行動するってそういうことだよ。私は私のこと、いつ落としてもいい命だって思ってる。のうのうと生き延びたくせに何一つできてない中途半端な人間なんだよ」
幼さの残る顔が苦しそうに歪められる。同じ表情を見た覚えがあったが、どのタイミングで見たのかは思い出せなかった。
リュウヤの両眼が一直線に少女を見据える。
唇の隙間から、健康的な歯がちらりと覗いた。
「いいよ」
反射的に答えていた。
彼の発した一言に、青い眸が大きく見開かれた。襟を掴む力がわずかに緩む。
「それって、おれが必要ってことだよね?」
リュウヤは平然と言う。
「死に場所を探すのも生き延びるのも君の自由だから、おれはそばで見てるだけだ。それでも……ほんのちょっとでも必要としてくれるなら一緒に死ぬよ」
――必要とされると断れない。
幼い頃から引き継がれてきた、リュウヤの悪癖の一つだ。
小学校のうさぎの世話当番を押しつけられても文句ひとつ言わず、休日に学校へ来てまで給餌や水の交換、小屋の掃除をした。申し訳なさそうにシフトの交代を頼まれたら、だいたい快諾した。必要なら断る理由はない、自分に頼まれたのだから自分がやるべきだろうという考えが、彼の中で緩やかに加速し続けていた。
そしてそれを当然のことだと信じて疑わない。同じことを他者に求めはせず、自分の理念と決めてそらさない。信念は片側から見たものに過ぎず、裏を返せば悪癖となる。当人の与り知らぬところで、邪に利用されるように。
ただ、リュウヤの直感はこう告げる。
眼前に迫る
(おれを利用するつもりなら、もっと上手いこと言うはずだもんな)
半ば脅すような言葉も、苦しげな表情も、彼女なりの警告なんじゃないだろうか。
自分は関わるべき存在でない。頼るべき相手じゃない。突飛で不器用な言い方だが、アリスの声は、もっと他の頼るべきところがあるのだと示しているように聴こえた。
(それに、おれ、アリスさん死なせたくないもん)
固いアスファルトの上で熱の引いていく感覚を思い出す。体の内側を巡り回る血液の温かさが
リュウヤは右手を差し出した。
「一緒に生きよ。アリスさん、おれのこと必要にしてくれる?」
アリスが長い睫毛を瞬かせる。
「正気?」
「正気だよ」
「ほんとのほんとで言ってる?」
「うん」
数秒黙りこんだのちに、アリスは長く息を吐いた。襟元を掴んでいた手がゆっくり離され、リュウヤの体がすとんとベッドに沈んだ。
「……呆れた。いいよ」
頬にかかる横髪を払いのけ、少女は差し出された掌をじっと見た。
「明日の朝、ここを出るから。準備しておいてね」
「うっす!」
ぱっと顔を輝かせて勢いよく敬礼を返すと、右肩がまたじくりと疼いた。
***
「ほい、これも持ってき。これも。あれも。それも」
「そんなに貰えないっておばあちゃん」
宿屋の前で、リュウヤはぐいぐいと押しつけられる衣服の固まりを押し返していた。寝癖の目立つ後頭部に、穏やかな冬の朝の陽が射している。日が昇って間もないからか、街の人影は少ない。どこからか鳥の朝を告げる声が聞こえてくる。屋根に積もった薄雪が解け、軒先から滴が垂れ落ちていた。
「いいからいいから。お古なんだから」
「こんなにたくさんは申し訳ないっすから。一昨日も上着貰ったんだから」
「も~おばあちゃんったら、リュウヤ君困ってるでしょ」
宿の奥さんが見かねて、ご隠居を引きはがす。不満気にブツブツ言う老女は、何としてでもリュウヤに貢ぎたいらしい。昨日の夕食後に彼が街を出ると聞いてから、たびたび部屋をノックしては非常食用の乾燥肉(紙袋入り)だの日持ちする焼き菓子や干菓子だのを持ってきた。果ては財布まで取り出すので、何とかなだめるのに大変だった。食料ならまだ可愛らしいが、さすがに金銭を受け取るのはいかがなものか。それも赤の他人から赤の他人へである。
「あ、奥さん、ごはんごちそうさまでした。めっちゃ美味しかったっす」
リュウヤは宿の食事を思い出す。体の芯からぽかぽか温まるスープに、香ばしく焼き目のついたベーコン。昨夜は、チーズのたっぷり乗せられたミートグラタンだった。熱々をスプーンでひとすくい、口に運ぶと、まろやかなチーズに包まれたひき肉と野菜の旨みが喉を通過していく。その他にもキノコの卵とじやキャベツに似た葉野菜のサラダ、ひよこ豆のトマト煮など、どれをとってもどんどん食べ進めたくなる料理ばかりだった。思い浮かべるだけで、また涎が出てくる。
「いいえぇ。たくさんお代わりしてくれたから、作り甲斐があったわ」
ふっくらと肉のついた頬を緩ませて、奥さんが笑う。と、その後ろからレヴォルドがひょっこり現れた。
「おう。って、何だこの服の山は」
「おばあちゃんがリュウヤ君にって、引っ張り出してきたのよ」
「薄着じゃ風邪引くじゃろ」
まだ諦めていないらしく、ご隠居が薄手のトレーナーをリュウヤの体に合わせる。青年時代のレヴォルドが着ていたものだそうで、今のリュウヤには少し肩幅が合わない。裾に穴が空いたのを、深い青色の糸で刺繍して繕っているのが何とも可愛らしかった。
「……うん、まあ、着替えの一着くらいは持って行け。俺のお古で悪いが」
宿屋の店主が顎をさすりながら、苦笑ぎみに言った。
「おっさんのお下がりってのは別にいいんだけどさ、俺、貰ってばっかじゃない?」
「そんなことねえよ」
レヴォルドは一度店内に引っこみ、生成り色のトートバッグを手にまた出てきた。
「好意を受けるだけの理由はちゃんとある。ほれ、これに入れて持ってけ」
リュウヤは渡された布バッグに薄手のトレーナーと濃紺のズボンを一枚ずつ入れた。昨夜ご隠居から貰った菓子や干し肉をズボンのポケットにしまっていたので、そちらもバッグに移す。すかさず老女が、これも、と青鈍色の丸襟シャツを差し出してくる。押し負けたリュウヤは、シャツをトートバッグに収めた。
「トートバッグはうちにいくらでもあるから、それ持ってっていいぞ。やるよ。あと、そん中に包帯の替えも入れてるから使えよ」
レヴォルドがリュウヤの背中をぽんと叩いた。
「ほんのちょっとだけど、消毒液の小瓶も入れてる。傷口はできるだけ清潔にね」
「もっとお菓子いるかい? 持ってこようか?」
奥さんとご隠居が言い添える。
ふはっ、と思わずリュウヤは吹き出した。無邪気な童顔を穏やかな陽ざしが照らす。
「リュウヤくん」
背中から涼しげな声がした。アリスだった。淡い金色の猫毛を無造作に結い、小振りのリュックを背負っている。
「忘れものはありませんか」
「うん、多分」
もともと荷物ゼロだったし、とリュウヤは心の内で呟く。
「もうすぐ乗り合い馬車が出発します。行きましょう」
アリスは淡々と告げると、宿屋の面々に向き直る。
「嬢ちゃんも元気でな。にいちゃんのこと頼んだぜ」
「お菓子いるかい?」
「おばあちゃん、お菓子はもういいから」
ごつい顔をくしゃくしゃに和ませるレヴォルドや、お菓子を渡そうとする老女に、アリスが面食らいながら、ぺこりと頭を下げる。ぴくりとも笑わないその顔の中で、口角が微かに緩められた、気がした。
「じゃあ、行くよ」
二人は馬車乗り場へと足の向きを定める。
リュウヤが手を振ると、レヴォルドらも手を振り返した。
「元気でな。怪我すんなよ、にいちゃん」
「ちゃんと食べるのよ」
「またおいでぇ」
宿屋の面々がそれぞれに温かい言葉を投げかけてくる。
ぶんぶんと左手を頭上に掲げて振りながらリュウヤは、ありがとう、と幾度か叫び返した。
彼らの姿が豆粒ほどの大きさになったところで、リュウヤは腕を下ろし、アリスに話しかけた。
「えっと、それでさ、おれたちこれからどこ行くの?」
「あれ、言いませんでしたっけ」
少女が顔を傾けると、横髪がさらりと肩をすべり落ちた。
「カンパニュラより南側――王都フォーランです」