1章 カンパニュラの祝福


 甲高く耳障りな笛の音が、カンパニュラ全体を支配するように鳴り響いた。
 これ以上息を吐きだせなくなったところで、リュウヤは笛を口から離した。大急ぎで新鮮な空気を吸いこむ。酸欠になる寸前である。
 イールの『強化』とやらによる効果なのか、リュウヤの耳には大した影響はない。しかし、音が消えてなお身体の表面がびりびりと震えている。それほど威力が高かったようだ。
 荒い呼吸で肩を大きく上下させ、リュウヤはおそるおそる虎の横顔を覗きこんだ。

「うおっ」

 黒い真珠のような両目は白目を剥いており、だらしなく開いた口元から長い舌と泡とが流れ出ている。でろりと投げ出された四肢は動く気配がない。
 どうやら、鼓膜直近で放たれた大音量に、一発でダウンしたらしい。

(そんなにすげえ音だったんだ……)

 いくらか申し訳なくなりながら、リュウヤは魔獣の上から地面へと降りる。

「リュウヤ君!」

「にいちゃん! 大丈夫か!」

「凄い音量だったけど……耳、破れてない?」

 宿屋の主人らが駆け寄り、口々に話しかけた。それぞれに心配の色と、音の大きさに顔を顰めた様とを浮かべている。

「おれは大丈夫。みんなは?」

と問い返すと、青年団の面々はニッと相好を崩したり親指を立てたりした。馬鹿でかい音量ではあったが、音の発信源と距離が離れていたため、彼らにそこまで酷い影響はないようだ。リュウヤはひとまず、胸を撫で下ろす。

「リュウヤ君、魔獣は」

 ウェルシズが訊ねる。リュウヤは背後へ顔を向けた。
 瓦礫の狭間に、黄と黒の毛塊が倒れていた。燃え盛る尾がペタンと地面に乗っている。ホイッスルの音で完全にのびてしまった魔獣を見て、グウィンが「もしかして」と小さく呟いた。

「魔獣、倒した……?」

 炎を反射して銀色に光るホイッスルを首から下げた青年は、多分、と戸惑いがちに頷く。
 住民たちの表情が変わる。
 わっと歓声を上げ、両腕を空に突き出す者。安堵の息を深々と漏らす者に、へなへなと力が抜けてその場にしゃがみこむ者。張り詰めていた緊張が解け、思わず涙を浮かべる者。
 彼らの綻んだ表情や、安心した声々に、リュウヤは自らの口角を緩めた。
 よかった。
 おれ、ちゃんと生きてる。
 みんなも生きてる。
 よかった……。

「それじゃあ、これ以上、アレに攻撃しなくていいということだね?」

 口髭を生やした壮年の男性が確かめるように言った。
 ウェルシズも、うんうん、と頷く。

「では、街の消火をしようじゃないか。まだ燃えてるところがあるだろう」

「ああ、そうだな。じゃ、さっき言った通り――」

 不意に彼らの話し声が途切れた。むぐむぐと口が動いているところを見ると、何か指示しているらしい。急にくぐもって聴こえ始めた外界の音に、リュウヤは体を固まらせる。レヴォルドが焦った顔で何か話しかけているようだが、それすらも曖昧な音の連なりにしか捉えられない。
 眼前がふっと遠くなる。
 視界が一気に横転し、気付いたときには左の頬と腕がひんやりした土の上にあった。地面にぶつかったのが、怪我している方じゃなくてよかった、と、リュウヤは遠のいていく意識の中で思った。



 ***



 瞼を押し上げると、うっすらと柔らかな光が広がった。
 右肩にじくじくした痛みと熱がまだ残るものの、やけにすっきりした心持ちである。

「起きたか、にいちゃん」

 見覚えのあるような、ないような天井の景色に、ひょっこり厳めしい顔が入りこんだ。その腕には木桶と布端を持っている。

「……れゔぉるどの、おっさん」

「おう。水飲むか」

 リュウヤは頷き、ゆっくり体を起こした。胸元までかけられていた布団をはがすと、知らない白い服に包まれた半身が現れた。ぺらぺらのバスローブのような白い寝間着だ。いつ着替えただろうか、と首をかしげるが思いだせない。
 それより喉の渇きを潤す方が優先である。
 水をそそいだコップを差し出されるままに受け取り、リュウヤは一気に飲み干した。冷たいものがカラカラに乾燥した口の中から食道に流れ落ちて、腹の底まで到達する。

「ぷへー生き返るぅ」

 ついでに出てこようとするげっぷを堪えるリュウヤに、宿の主人はごつい顔を和ませた。

「元気そうでよかったよ。急にぶっ倒れたから心配したわ」

(……あ、やっぱそうだったんだ)

 おれ、倒れたんだ……とリュウヤは胸の内で呟く。
 虎の魔獣をダウンさせた後、突然視界が暗くなり、世界がころりと転げた。それまで張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れたのだろう。体中の力が抜け、意識を手放すように眠りついた。そして、今は宿の――昨夜泊まった部屋に寝かせてもらっている、ということか。
 剥がれかけた天井や壁紙を眺め、リュウヤは苦笑いを男へ向けた。

「ごめん」

「何で謝んだ。にいちゃんのおかげで俺ら助かったんだぞ」

 レヴォルドがベッドの脇にある椅子を引っ張ってきて、腰を下ろす。

「にいちゃんがいなかったら、魔獣あれと戦おうなんて思わなかった。みんな、そうだ。咄嗟のことだったから、逃げることしか考えられなかった」

 短い緑髪を撫でつけるように額に手をやる。
 レヴォルドは、にっかりと照れたような笑みを浮かべ、それから深々と頭を下げた。

「おかげで、街があれ以上崩れなくて済んだ。俺もみんなも感謝してるよ。にいちゃんのおかげだ。もっと偉そうにしてもいいくらいだぜ」

「そっ……か」

 感謝の意を示す男に、リュウヤは控えめに口角を緩めた。
 彼が言うほど、大したことはしていない。リュウヤ一人じゃできないことだったし、一回で魔獣をダウンさせられたのもたまたまだ。協力と偶然とが重なって今に至る。自分ではそう思っている。
 それでも、嬉しかった。

(そっか。おれ、役に立ったんだ)

 にまにまと抑えきれない衝動が湧き上がってくる。
 虎獣の爪を受け、熱を帯びていく怪我痕を実感して。全身の細胞が震えるような恐怖を覚えて。瓦礫に押し潰される人と、その傍らで助け出そうと必死に瓦礫を動かそうとしている人を見て。一人で足止め役を担おうとするあの子を見て。
 こんなの、他の誰にもこれ以上味わわせたくない、と思った。
 自分が死ぬのは当然いやだ。
 でもそれ以上に、他が苦しむのを見るのもいやだった。
 最善な方法も最適な手段もリュウヤには無いし、分からない。
 ただ、ゼロとイチは違う。
 できるできない、救える救えないじゃなくて、するかしないか……足を動かさないよりは震えていても情けなくても半歩でも、動かす方が絶対にいい。
 そしてその結果、上手くいったみたいなのだから、万々歳である。

「……おっさん、いろいろ訊いていい?」

「ん?」

 レヴォルドの野太い相槌が、呼びかけたリュウヤを促す。それは腹の中にすとん、と落ちるような優しい声音だった。父さんが生きてたら同じように訊き返してくれたかな、と考えかけて、そんなわけないかと思い直した。

(まるでタイプが違うんだもんな)

 ひょろひょろと頼りなく伸びた細身を折り曲げて、リュウヤに微笑を寄せる父。
 目の前にいるガタイのよい男に面影を感じるのは、さすがに無理があった。

「あのさ、虎、どうなったの? 街の炎は?」

 リュウヤの質問に、レヴォルドは親指をクイッと傾けた。窓を指す。

「俺が言うより、見た方が早いかもな。立てるか?」

「うん」

 ベッドから足を下ろし、リュウヤはレヴォルドと窓辺に寄る。窓を開けると、ひんやりした冬風が肌を撫でていく。
 家々や建物の荒れ崩れた街がそこにあった。瓦礫があちらこちらに山を作っており、ウェルシズやグウィンなど見覚えのある住民たちがせっせと片付けていた。バケットタイプの一輪車や荷台付きの馬車がいくつも見える。
 昨夜と違うのは、禍々しい炎の赤がないこと。ぐったりと横になった虎獣の体が、ぼんやりと淡い光に包まれていること。その周りを、肩から白いストールを垂らした人物を中心に人々が囲んでいること。

「……?」

 あれは何をしているんだ、と訊きたげなリュウヤの視線に、レヴォルドが首をかしげる。

「見たことねぇのか?」

「う、うん」

「……にいちゃん、どっから来たんだほんとに」

(え、これ常識的な光景なの)

 対象物(虎)を囲い、中心に要る人物が何やら唱えている。怪しげな集まりの怪しげな儀式のようにしか思えない。
 レヴォルドが、白いストールの人物を指差した。黒を基調としたコートのような服を纏った壮年の男性である。人の壁の隙間から、皺の深く刻まれた穏やかな横顔が垣間見えた。

「神父様が魔獣を浄化してるんだよ。一昨日くらいから出張に行かれてたんだが、ようやく今朝お戻りになってな。ああやって浄化してくれてる」

「へえー」

 リュウヤは思わず間抜けな声を漏らした。正直よく分からないが、宿屋の主人が言うには魔獣の後処理みたいなものらしい。
 魔獣というのは、魔力の強さが高じて呪いのようなものになった生きものである。その体内を流れる血には瘴気が含まれている。瘴気というのは、すなわち「毒」だ。触れるものが人間であれば人体に、血が滴れば土壌に、液として吸収すれば草花や穀物に害を与える。ゆえに死骸を放置するわけにも、食用とするわけにもいかない。そういうわけで、「浄化」を行うことのできる特別な職業――主に、教会に携わるような聖職者が、魔獣の体そのものの浄化と土地の浄化を担うのだそうだ。

(うん。わからん)

 まぁいいや、とリュウヤは窓枠に肘をつき、外を眺めた。ふとグウィンと目が合う。彼は、横で煉瓦片を一輪車に積んでいるモナを誘って、こちらに手を振った。
 虎を覆う淡い光が薄くなり、空にぱっと霧散する。神父は、微笑みをたたえた柔らかい双眸でそれが消えきるのを見届けた後、周りの人々に小さく一礼した。

「終わったの?」

「そうっぽいな」

 レヴォルドが頷く。

「虎、どうなるの」

「さてな。騎士警備団の方で引き取ってもらえりゃいいが、あのでかさだから俺たちで解体した方がいいかな」

「ふぅん」

 解体かぁ……とリュウヤは微妙な顔をする。魚を捌いたことはあるが、四足動物の肉を捌いた経験はまだない。おれも手伝うべきなんだろうか、と考えては少し尻込みしてしまう。
 と、窓辺で話す二人に、ノックの音が訪問者を伝えた。
 レヴォルドが「はいはい」と軽快に返事し、ドアを開ける。

「おう、嬢ちゃんか。うん? ……あぁ、いいと思うぜ。だいぶ回復したみたいだから」

 どうぞ、と野太い声に促されてノックの主が部屋に入る。彼女の眸の青が、窓辺で顎肘をつくリュウヤを捉えた。ふわふわした金髪を首元で無造作にまとめ、おずおずと胸の前で手を組んでいた。

「あ」

 リュウヤは、ぱっくりと口を開けた。
 入ってきたのは、金髪青眼の少女である。
 素寒貧なリュウヤの宿代を肩代わりしてくれ、街の人たちが逃げる時間を稼ごうと一人で魔獣と戦った、あの少女だった。

「よかった、君も無事だったんだね! 怪我とかしなかった?」

 右肩に走る痛みに一瞬顔を歪ませながら、リュウヤはニカニカ笑いかけた。
 少女は微かに目を見開き、何か言おうと唇を開いた。が、すぐには言葉が出てこないようで、顔を俯かせる。

「なぁ、嬢ちゃんもいることだし、俺は外に行ってこようと思うんだが、いいか? 瓦礫の片付け手伝ってくるわ」

 戸の側に立っていたレヴォルドが訊いた。リュウヤは親指をぐっと立てる。

「ついでに、後で昼メシ持ってくるけど何か食べたいもんあるか」

「にくたべたい」

 任せとけ、と宿屋の主人は自らの胸をぽんと叩いて応じた。



 レヴォルドが部屋を出た後、少女はベッドの傍らにある椅子に腰を下ろした。

「ありがと」

 清涼感のある柔らかな声が、静かに溶けていった。いそいそと窓辺から移動していたリュウヤは、きょとんとする。
 少女が、えっと、と言を重ねた。ふくふくと柔らかそうな白い頬に、睫毛の影が落ちている。

「私だけだと、限界だったと思う……から。助かった。ありがとう」

 あぁそういうことかとリュウヤは腑に落ちる。

「予想よりすっげぇ上手くいっただけだよ。おれだけの力じゃないし、君が戦っててくれたから、みんなに作戦話したりできたわけだし。お礼言うのはむしろこっち」

 リュウヤが、ぼすんとベッドに腰を沈めた。ほんの少し背中を丸め、俯いた少女の目と自分のそれとを合わせる。

「ありがとう。宿代出してくれたことも、おれたちが逃げれるようにって虎と戦ってくれたことも。全部、ありがと」

 やっと言えた。
 リュウヤは小さく息を漏らす。
 彼女がいなければ、宿に入ったときも、魔獣のときも、今より悪い状況だったはずだ。リュウヤの作戦が功をなしても、それは少女がしたことの土台があったわけで、リュウヤだけが成し得たことでは断じてない。
 だから、全部きみのおかげ。
 リュウヤがそう言って唇の端を持ち上げるように笑うと、健康的な八重歯がちらりと覗いた。窓から差しこむ冬の陽光が、彼の横顔を柔らかく照らす。

「ぁ……わたし、私は、なにも……」

 少女は先程と同じように、わずかに目を丸くした。ついで緩々と首を横に振るが、それも違うと思ったのか、控えめに留める。黒い裾をぎゅっと握りしめる拳はひどく幼く、頼りなかった。それっきり少女はきょときょと青い眸を彷徨わせて言葉を追加せず、部屋の中に沈黙が訪れる。

(どうしよ)

 リュウヤは焦る。

(えっ……と、どうしよう。女の子って何話したらいいんだろ)

 ご近所のおばあちゃんやご婦人たちとはそれなりに話すが、同年代の女の子とは何を話していいのか分からない。小中高と仲の良い男子たちに囲まれて育ってきたので、クラスの女子と話す機会はあまりなかった。無論、恋人がいた経験もない。あ、名前とか訊いてもいいかな。いいよな。

「あ、あのさ、おれ、リュウヤ。緒方竜也。君の名前は?」

「……アリス、です」

「アリスさんね! いい名前だね」

(どうしよ‼ 訊いたはいいけど会話続けられねぇ!)

 あはは……と笑い声を上げてみるが、その一方、心の中では汗をダラダラ流しながら叫ぶ。頭をかきむしりたくなるほど、女の子との会話のセンスがない。
 リュウヤはぐるりと目を回し、とりあえず思ったことを口にする。

「あー、ねえ、アリスさんはさ、何でここに来たの? 宿屋に泊まってるってことは、この街に住んでる人じゃないんだよね?」

 言いにくいことだったら別に言わなくていいんだけど、とリュウヤは付け加えた。
 頬にかかる髪を耳にかけ、少女……アリスが花びらのような唇を開く。

「――死に場所を探しに来たの」
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