1章 カンパニュラの祝福
意識の外側で轟音がして、リュウヤは跳ね起きた。
窓の外がぼんやりと赤い。
朝日というよりも、夕焼けに近いような色合いがカーテンをすり抜けて狭い部屋を照らしている。
ばたばたと
「……なんだぁ……?」
リュウヤは慌てて布団をのけ、ベッドから足を下ろした。底冷えするので、宿のご隠居に貰った藍色の上着を羽織ってドアを開ける。ちょうど部屋の前を通りがかったらしい店主の男性が、「うおっ」と素っ頓狂な声を上げて、のけぞった。
「どうかしたんっすか?」
「どうしたって……いや、そんなこと言ってる場合じゃない、にいちゃんも早く逃げろ」
「逃げる……?」
「ああもう、ほら行くぞ」
逃げるって何から、と言いかけたリュウヤの腕を乱暴に掴み、彼はずんずんと階段を降りて行った。
階下のカウンターの前には、不安げな表情で立ち尽くす姿がいくつかあった。リュウヤに古い上着をくれた老女と、食堂で給仕をしていた中年の女性、重そうなリュックを担ぐ男性客。そこに店主の男とリュウヤが加わる。
「これで全員か?」
「ええ、他の部屋は空っぽだったわ」
店主の問いかけに、中年女性――宿屋の奥さんが頷く。ふっくらとした身を柔らかなキャメル色の寝間着に包んでいる。麻製のネグリジェはくるぶしまですっかり覆われる丈で、ご隠居と色違いのものである。
「それで、どこに逃げるんです?」
リュックを背負った男が、青ざめた額に流れる汗を手の甲で拭いながら言った。
「騎士警備団の駐在所は、カンパニュラにないんでしょ。どこに行けばいいんです?」
「教会に向かいましょう。あそこなら崩れにくいし、他のみんなも逃げてるはずよ。……神父様は明朝お戻りになるそうだし、騎士警備団の定期巡回だって明日来る予定だし、それまで教会で耐えられれば」
「だな。それが最善だろう」
行くぞ、と店主が顎で促した。宿屋の奥さんとリュックの男性が両側からご隠居を支えて歩く。リュウヤも慌てて後に続く。
宿の主人が、体当たりするように玄関の扉を押し開けた。
瞬間、視界一面に広がったのは赤い街だった。
「え……?」
リュウヤの喉元から、枯れた音が絞り出された。
ちらちらと粉雪を被った街は既にない。目に入る建物の多くは半壊し、中には火が燃え移っているものもあった。火柱が轟々と音を立てて燃え上がるさまは現実味がなく、映画の一場面でも見ているようだった。
悲鳴のような叫び声が聞こえてきた方に目をやると、崩れた瓦礫の下から一本の固まりが覗いていた。付近に赤い液体が飛び散っている。その固まりが人間の腕だと判ったのは、衣服の端に包まれているのと、身内らしい男性が泣き叫びながら懸命に引っ張り出そうとしているからである。
赤い景色の中で、数えきれない往来が眼前を通り過ぎていく。
寝間着のままの人々はそれぞれに顔を引きつらせ、怒号を飛ばし、幼い子どもの手を引いていた。
「何で……?」
「魔獣だよ」
リュウヤの問いに応えるように、店主が大きく息を吐いた。厳つい顔は苦いものを思いっきり噛み潰したように顰められている。
「魔獣が出たんだ。くそ、氷の季だぞ、冬眠してるんじゃなかったのかよ」
「……まじゅう?」
店主は、ごつごつと節の目立つ指を掲げた。その指先が示すのは、宿屋の正面に位置する民家よりももっと大きな――
「虎」である。
開いた口から、残忍な微笑をたたえた牙が覗く。
額に生えた一本の角がぬらぬらと照らされる。
ぞっとするほど禍々しい姿の、虎。
表面の毛色は、「生前」リュウヤが幼い頃に動物園で見た虎の、まさにその色である。しかしサイズが全く違う。目の前にいるのは、遠くの山を見上げるのと同じくらいの大きさである。二階建ての家屋よりも遥かに大きな怪物である。背中の方で、ゆらり、ゆらりとはためいているのは尾だろうか。火の燃えているような不思議な形状の尾をしていた。
不意に、角を振り回すかのごとく、虎が頭を動かした。上顎と下顎の隙間から鋭い犬歯がちらりと見えた瞬間、その場に咆哮が轟いた。
「ぁ……⁉」
リュウヤは咄嗟に耳を強く塞いだ。
それは、地面が揺らいで立っていられなくなるように錯覚するくらいの。
それは、聴いただけで、体の芯から末端まですべての細胞が生命の危機を訴えるくらいに。
脊髄を裏打つように鳴る鼓動がうるさかった。獣の咆哮が脳を貫通して、ぼろぼろと体が崩れていくんじゃないかと思った。
うっすらぼやけた視界に、街の住民たちが同様に耳を手で守っているのが映った。店主の大きな背中が小刻みに震え、リュックの男性客は宿の奥さんやご隠居と一緒にしゃがみこんでいる。
(いやだ……嫌だ嫌だ嫌だ!)
死ぬのは嫌だ。
虎がこちらに顔を向けた。黒真珠の眼球と視線がかち合う。
怖い。
魔獣の前足が近くの三角屋根を掠めた。石積みの屋根と壁とが瞬きのうちに押し潰される。邪魔そうに低く唸りながら、足の先をこちらに向けた。
怖い。
ゆっくりと虎獣が近づく。リュウヤとそれとの間に盾になりそうな建物はなく、いつの間にか、不気味な全身をじっくり観察できるほどの距離になっていた。前方から虎、後ろからは鳴き声の混じったさまざまの悲鳴。
脳は逃げろと言っている。しつこく警鐘を鳴らしている。逃げなければ、足を動かさなければ、すぐに殺されてしまうと。伴わないのは身体だ。がくがくと震える足で立っているのが精一杯だった。
(怖い!)
「あなたと向き合ってるのは私でしょうに。他所見するなんて無粋ね」
たん、と軽い足音が鳴る。
強張った頬の産毛を、安らかな風が撫でた。
炭酸水の純然な声音がリュウヤの耳へ届いた。
おそるおそる顔を上げると、淡い金色の髪が一束、熱気を含んだ風にふわりと揺らめく。
目の前に小さな壁として立つのは、風になびく黒い固まりだった。
「……嬢ちゃん?」
「きみ、は、」
宿屋の主人が呟いたのと、リュウヤの掠れた声とが重なる。
黒々としたフードを暑そうに外すと、涼しげな色白の顔が現れた。つんとした控えめな鼻に花びらのような唇。長い睫毛に縁どられた、大きな青い眸。なめらかな首筋。はためくローブの間から、上着の下に着ているらしい真っ黒なワンピースが垣間見える。小さな布製のリュックサック――本でも入っているのか、やけに角ばっているそれを背負っている。
リュウヤの宿代を出してくれた、あの金髪青眼の少女だった。
彼女は愛らしい顔をぴくりとも動かさず、背後のリュウヤらに視線を寄越した。
「教会へ。結界を強化してるから少しは安全です。邪魔になるので、さっさと逃げてください」
淡々と言い終えると、要件は済んだとばかりに虎型魔獣へ向き直った。リュウヤと宿屋メンバーはぽかんと呆けたように立ち尽くした。
咆哮を上げる虎獣に、少女が手をかざす。眉をきゅっと寄せ、苦しそうに歯を食いしばるような顔つきをしていた。
「『ラピス』」
彼女の周囲に石の礫が出現する。一つ一つは赤ちゃんの拳ほどの大きさだが、その数は百数個以上であり、おまけにそれぞれの先端が尖っている。人間の柔らかい皮膚に突き刺されば、骨に届くまで深く沈みこみそうな鋭さだ。
それらはばらばらの方角を指していたが、少女が柏手を打った瞬間、魔獣に向きを定めた。石の礫どもは一直線を描いて対象へと向かっていく。
(流星群みたいだ)
手品か魔法のような光景にリュウヤは声を出すことも忘れる。
空を切り裂いて飛ぶ石の群れに、耳を震わせながら虎獣は前足でなぎ落とし、軽く避けた。
「耳がいいね。――『ラピス』」
少女が呪文のような言葉を連ねる。再び数えきれないほどの礫が顕現した。今度は石礫の向きを変え、器用に軌道まで変え、四方八方から虎獣を狙う。その一つが角の生えた額に当たり、ある一つは頬髭を掠め、また一つが足を直撃した。無数の石礫を受けるうちに虎はバランスを崩し、よろける。すかさず少女が「『ヘルバ・スティルプス』」と唱え、虎型魔獣の体を、長く太い蔓草が縛り上げた。その体が地面に倒れるとともに、どすんと重々しい音と振動が地を這った。ぎゅう、と捕らえられた獣が目を回す。
(……はは、)
一筋の汗がリュウヤの顎を伝う。
(こんなの、映画の世界じゃん)
燃え崩れた家々。巨大な怪物との戦闘。魔法だか幻術だか知らないが、とにかく特殊な能力で怪物に立ち向かう女の子。
あまりにも現実味のない眼前の光景に、リュウヤの口から乾いた息が漏れた。心臓が耳の鼓膜を突き破って出てくるのではないかと思うほど、鼓動の刻みが速い。体が熱い。赤と瓦礫と虎から、目を他に移すことがひどく難しい。上着の裾を引っ張られる。リュウヤはそれを振り切り、震える足で踏み出した。
「おい、にいちゃん!」
あ。
そっか。
これ、映画だ。
映画か何かの撮影だろう、きっと。間違えて紛れこんじゃったんだ。日本とは違う街並みといい、宿屋の看板や料金表の文字といい、虎の造形といい、よく作りこまれている。というか作りこみすぎだ。俳優たちの表情も動きも真に迫っていて、シーンとしては一段落ついただろうに、いまだ現場に緊張感が残っている――。
ふらふらと足取りは進み、気付けば瓦礫の上に倒れている虎獣の近くまで来ていた。横になったそれをじっと見る。中に動力源の入った着ぐるみか、あるいはワイヤーで吊って動かす方式をとっているのか……。いずれにしろ、作り物とは思えない出来である。腹回りが一定の間隔で上下する様や、妙にリアルな毛並みの光沢と、まるで本当に生きているとしか思えない。
崩壊した煉瓦片の上へ投げ出された前足は太く、リュウヤの胴体ほどもあった。毛むくじゃらの五本の指には、それぞれ丁寧に鋭い爪が生えていて、一本一本が小型ナイフのようだ。
「戻れ‼」
「なにしてるの⁉」
野太い叫び声と、焦りの混じった炭酸水のような声とが遠くで聞こえた、気がした。
リュウヤは高揚した頭で、半ば恍惚の色を浮かべた両目で、しげしげと横たわる獣を眺めた。非現実な非日常を目に焼きつけるように。「作り物」だと判って、先の恐怖がすっかり吹き飛ばされたように。
スニーカーが砂利を踏みしめる僅かな音に、獣の髯がぴくんと震えた。
(……あれ? でも、)
これが映画の撮影なら、カメラはどこにあるんだろう。
そう思った刹那、右肩に熱が走った。
「ぐッ……‼」
数秒にも満たない合間のことだった。ぶん、と強い風圧に吹っ飛ばされる。訳が分からないままリュウヤの体はボールのように転がった。二度、三度と膝や背中、全身が堅い地面に打ちつけられたのち、柔らかいものに抱きとめられてようやく止まる。
「あえ……」
「あなた、なにしてるの⁉ 邪魔になるから逃げてって言ったでしょう!」
いくらか怒気の込められた、涼やかな声が頭上から降ってくる。頭を動かすと、苦しそうに細められている青い双眸と目が合った。にこにこと微笑めば随分と可愛いだろうに、とリュウヤは場違いな感想を抱く。
後頭部に当たる柔らかさから、少女に寄りかかる姿勢になっていることに気付き、リュウヤは慌てて体を離した。少女が微かに表情を歪める。その胸元に赤いものがべったりと付いていた。
血である。
「えぇ⁉ ……
リュウヤは血の付いている部分を指さして「どうしたのそれ」と訊こうとしたが、その瞬間、稲妻のような痛みが脳天まで一気に走り抜けた。短い悲鳴を上げる。ひときわ、ひどく熱を上げている右肩におそるおそる手をやると、べたりと湿った赤が付いた。これまた血である。
「えっ⁉ おれの血⁉」
このときばかりは痛みよりも驚きが勝った。間抜けな声がリュウヤの喉から発される。
四本の線が上着とパーカーを貫通して、肌まで刻みこまれていた。肉を薄くえぐり、じわりじわりと滲む赤は上腕を伝って土の上に滴を垂らす。
それに加えて、全身、至る所がじくじくと痛みを訴える。先ほど強く打ちつけたせいだろう。
「うぁ……いたい……熱い、痛い、血ぃめっちゃ出てるぅ……」
「ええ、痛いでしょうよ。魔獣の爪をまともに受ければね。あなた、ばかなの?」
少女が苛々と頬を膨らませ、リュックから白いスカーフを出した。リュウヤの肩回りに巻きつける。
「え、汚れるから悪いよ」
「……」
慌てて止めようとするが、少女は無言でスカーフの端をぎゅっと結ぶ。きつく縛っているので、どうやら止血しようとしてくれているらしい。
「おぅい、にいちゃん生きてるか?」
おずおずと短い緑髪の男が声をかけた。宿屋の主人だ。
少女に背中を支えられて、リュウヤはよろよろ立ち上がる。右肩の白い布が、さっそく赤く染まっていくのが痛々しい。
「生きてるよぅ。めっちゃ血ぃ出てて痛いけど」
「あぁ、痛いだろうよ。致命傷じゃないからいいけどよ。おい、瘴気は浴びてねえよな?」
「ショウキ? おれは正気だけども」
「気が確かなのはよかったわ。骨は折れてねえか? 教会まで走れなかったらおぶってやるよ」
「ありがと、おっさん。たぶん走れる」
ごつい顔に心配の色を乗せた男が、リュウヤは親指を立てて応えてみせた。横で少女が小さく溜め息をつく。――そのとき。
「ガァァァァァアアアアア‼」
轟音が辺りを支配した。背後を顧みれば、虎獣がカッと両目を見開いて身を起こしていた。炎のような尾が背中の方でゆらゆらと揺らめいている。体を拘束していた蔓草はすっかり焼き切られ、炭塵が虎の足元で舞っていた。
「魔獣が起きたっ……!」
近くにいた、街の住民らしい青年たちが顔を引きつらせた。額から血の筋が流れている女性を背負った壮年の男性が「逃げろ逃げろ逃げろ!」と周囲に向かって叫ぶ。
「あっ、おっさん、奥さんたちは⁉ お婆ちゃんは⁉」
「リュックのお客さんと一緒に、先に教会に向かわせたよ。にいちゃんもそこで手当てしてもらおうぜ」
宿屋の主人の言葉に、リュウヤはほっと息をついた。
(よかった)
彼らが先に安全な場所へ向かったことに安心した。スープを椀いっぱいによそってくれた宿屋の奥さんも、横でもりもりベーコン炒めを食べていたリュックサックの男も、もこもこした分厚い上着をくれたご隠居も、巨大な虎に踏みつぶされてほしくない。たった数時間の知り合いだが、彼らにはすでに親しみを感じていた。もちろん、目の前の店主にも。少女にも。
「じゃあ、おれたちも――」
店主の男性と顔を見合わせて頷く。君も、と少女に手を伸ばすが、やんわりと腕を下ろされた。
「私は結構。しばらく食い止めますから、あなたたちはさっさと逃げてください」
「え、」
「次、またここにいたら怒るので。それでは」
少女はそう言うと、リュウヤたちの横をすり抜けていった。揺れる淡い金髪の残した柑橘の香りがふわりと鼻をくすぐる。
すっと細めた目の青が、眼前の赤をまっすぐ見据えた。
虎が、顎が外れそうなほど口を大きく開けて吠える。前足で瓦礫を押し潰し、尻尾の炎をぶんぶんと振っては建物の屋根に燃え広げていく。獣の巨躯に対して、彼女の背中はひどく小さく見えた。形の良い唇が何かを呟くとともに先のような石礫が宙に浮かび、蔓草が地面から生え伸びる。虎の体を巧みに避けて距離を取りつつ、絶え間なく礫をぶつけては蔓で動きを抑える。
リュウヤは、ぐいぐいと上着の裾を引っ張られながら、憮然とその攻防を眺めていた。
(おれは、死にたくない)
大型トラックにぶつかった衝撃も、身体の熱が失われていく感覚も、まだ覚えている。思いだすだけで怖くて、痛くて、芯まで冷えていくようで。
死に方がどうであれ、再びあの感触を味わうことはしたくない。
二度と繰り返したくない。
怖くて仕方がない。
映画の中のようなこの世界も、いまだに現実だとは受け止めきれていない。
(でも、あの子が死ぬのも嫌だ)
あんなに馬鹿でかい虎と一人で対峙していては、遅かれ早かれ尽きるはずだ。どれほど強いかは分からないが、生身の人間であれば必ず体にガタがくる。そうして隙ができれば、後は一瞬のことだろう。体力の限界の次にくるのは生命の危機である。
(まだあの子の名前も、笑った顔も見てないのに)
見ず知らずの人間のために、宿の料金を代わりに出してくれた。
教会へ逃げろ、と安全な場所を示してくれた。
血で汚れるのも構わずに自分を抱きとめ、怪我した肩にスカーフを巻きつけて止血してくれた。
そうして今は、自分の身を危険に晒してまで、他人が逃げる時間を稼いでいる。
にこりとも微笑まないが、きっとすごく優しい子なのだろう、とリュウヤは思う。
だからこそ。
(でも、どうすれば……)
考えがまとまらず、リュウヤはカーゴパンツの端をぎゅっと握りしめる。ふと、ズボンの裏生地を通してポケットに何か入っているのに気付いた。ごそごそと探ると、硬く冷たいものに触れた。
「おいっ、にいちゃん」
宿の主人がぐいっとリュウヤの袖を引き、焦りを含んだ声でささやく。
「何してんだ。早く動かねえと――」
「おっさん、」
店主の言を遮り、ゆらりとリュウヤは顔を上げた。不純物のない両眼が一直線に他者を貫く。
「空、飛べたりする?」
彼の手に握られているのは、鈍色に輝く一つの笛である。