1章 カンパニュラの祝福

 ざわざわと風の音が耳を通り過ぎた。
 冷え冷えとした空気が肌を覆う。冷凍室にマグロの切り身を取りに行ったときと似た冷気である。
 身震いしつつ瞼を開けると、そこは見知らぬ町だった。三角屋根の民家がずらりと並んでいる。生地の厚いもこもこした衣服に身を包んだ人々が往来を行き交う。リュウヤが立っているのはその真ん中で、棒立ちの彼を二人連れの女性たちが邪魔そうに避けていった。自動車や自転車は一台もなく、代わりに荷台車に繋げられた馬が数頭見えた。

「どこだ、ここ……? ってか、雪降ってんじゃん!」

 立ち並ぶ茶色の屋根には、薄力粉をふるいにかけたような白が積もっている。ふわりと舞い降りてきた雪がリュウヤの腕に吸いつき、解ける。また一段と体の温度が下がったようで、びしょぬれの野良犬のごとくリュウヤは体を震わせた。どおりで寒いわけだ。

(どうしよう。おれ、このままだと凍死しちゃう)

 暮れかけた街並みに夕陽が傾き、ぽつり、ぽつりとランタンが灯り始める。ぼんやりした明かりは幻想的で、一瞬、現実世界から自分の体が乖離したような気さえした。
 明らかなのは、スマホも財布も着替えも何も持っていないこと。自分が知っている町ではないこと。そもそも日本ではないのかもしれない。通り過ぎる人々の髪や目の色を見ても、町並みを見ても、どこか異国っぽい雰囲気である。

(ナッシング装備じゃ死ぬ! 死んでしまう‼)

 がちがちと歯の根を鳴らし、リュウヤは周囲を見回す。すると、旅行客だろうか、大きく膨れたリュックサックを背負った男が目の前の店に入っていった。三階立ての、堅い木造の建物だ。看板には流れるような文字らしき印字と、家の絵が描かれている。
 なりふり構っていられない、とリュウヤは凍りつきそうな足を動かした。



 堅い木の板で造られた戸を開けると、暖気が体当たりしてきた。

「らっしゃい」

 野太い声とともに、奥から筋骨隆々とした男性が顔を覗かせた。彼が宿の主人らしく、藍色のエプロンを着けている。
 店内は広く、木目調の温かい壁である。入り口の正面にはカウンター。その右側には客用らしいソファが置かれている。先ほど入っていった大きなリュックサックの男が体をだらしなく預けていた。
 反対側を見やれば、ぱちぱちと薪を燃やしている、大きな暖炉があった。そばの丸いテーブルで、肩までの長さの金髪を垂らした少女が、紙の束に書きこんでいる。

「にいちゃん、寒そうな格好してんね。旅のもん……にしては荷物が少ないのな」

 おそるおそるカウンターに歩み寄るリュウヤに、店主の男性が話しかけた。さっぱりとした短髪は深い緑色で、染めたにしては髪の根元までやけに馴染んでいる。

(地毛……? ってことは、日本人じゃないのか? 顔も西欧っぽいっていうか……のっぺりってよりもガッシリ……)

「あ? にいちゃん、どうしたよ。泊まるの? 泊まらないの?」

 店主の訝しげな声に、我に返った。
 料金は……とカウンターの上に置いてあった紙を見て、リュウヤはまた止まる。

(読めねえ!)

 看板同様、ぐねぐねとした文字がいくつも連なっている。リュウヤから見れば、ただの曲がりくねった線の集合である。日本語でも英語でもないことだけは分かる。

(会話は通じてるから、それだけが救いだなー……)

 しょげた顔で、リュウヤは「あの、一泊、いくらっすか」と訊ねた。

「三十シアン。一泊でいいのかい」

 シアンって何だ、何円なんだ、と突っこみたくなるのを抑え、リュウヤはポケットに手を入れた。

「……あ!」

 おれ、お金、無い。
 それどころか、何も持ってない。
 サッと血の気が失せる。

「あああああの!」

 リュウヤは引きつった顔を上げ、店主をまっすぐ見据えた。

「お、おう、どうしたにいちゃん」

「おれ、金、持ってなくて! う、馬小屋でも物置でも何でもいいんで、空いてる部屋があったら泊めてくださいっす‼」

 がばっと勢いよく頭を下げる。
 宿屋中の視線がリュウヤに集まってくる。
 恥は承知だ。
 仕方がない。
 馬と添い寝してもいい、埃だらけの堅い床でもいい。野宿で凍死よりはましだ。

(言うは一時の恥‼)

 床板を熱心に睨みつけていると、店主の溜め息が降ってきた。

「そりゃ、馬小屋も空き部屋もあるけどよ。こっちも商売だからな、金がなきゃ泊めることはできねえんだわ」

「うっ……」

 そっすよね、とリュウヤはゆっくり体勢を戻す。

「じゃ、じゃあ、ここ以外に宿屋とか、泊めてくれそうな馬小屋とかないっすか?」

「何で馬小屋にこだわるんだ」

 店主は緑髪を刈り上げた後頭部をさすった。

「カンパニュラにゃ、いま開いてる宿屋はうちだけだよ。氷の季で、旅行客もとんと減ってるから、うち以外は店仕舞いしてんだ。隣の町まで行きゃ、他にも宿屋はあるだろうが……」

 カンパニュラ、というのは、この町の名前だろうか。

「そんなぁ……。あのう、馬小屋、やっぱだめすか」

「人が寝るには向いてねえよ、あそこは。蝶番が錆びて、戸が上手く閉まらないんだ。夜風が入ってくるから、外とあんまり変わんないだろうさ」

「物置は」

「ちっちぇガキなら入れるが、にいちゃんが寝転ぶには狭すぎるな。それに、あそこには過去の宿帳をしまってるから、おいそれと人を泊めるわけにいかねえのよ」

 完全に無理である。
 野球部員たちの百本ノックを素手で受けろと言われたような表情で、リュウヤは立ち尽くした。凍死、死後の世界に舞い戻り、金、の三単語がぐるぐると脳内を駆け回る。
 店主の男性は、「悪いな」「こっちも商売だから」とごつい顔で申し訳なさそうに言う。彼が悪いわけではない。むしろ、さっさと追い払おうとせず金無しの話を聞いてくれただけ、情があるといえる。何ならしつこく言い募れば一晩くらい許してくれそうだ。

(でも、それは、おっさんに悪い)

 しかし、他者に迷惑をかけない道を選んだところで待っているのは凍死だ。どうしよう。
 うだうだと悩むリュウヤの視界に、黒いものがまぎれこんだ。

「書き終えました」

 凛とした声が左を横切る。暑い日に炭酸水を飲み干したときの清々しさに似た、涼やかな音だった。リュウヤは思わず声の主に視線を向ける。

(あ、可愛い)

 ふわふわとした淡い色の金髪が、肩にかかっている。透き通るように白い肌。大きな青い眸を縁どる睫毛は長く、頬に薄く影を落とす。控えめな鼻に花びらのような唇と、可憐な顔立ちをしている。黒いローブをぶかぶかに羽織っていて、体の線は分かりづらいものの、あまり背の高くないリュウヤから見ても小柄である。
 丸いテーブルで紙の束にペンを走らせていた少女だ。
 リュウヤは慌てて右にずれ、彼女にカウンターを譲る。
 店主が、彼女の差し出している紙束を受け取った。

「あぁ、どうも。二泊延長ね。五十五シアンになります」

 紙束は、どうやら宿帳らしい。相変わらず文字は読みとれないが、ちらりと見えたページは何本かの線で区切られていて、その左端に日付のようなものが書いてある。

(数字は、おれが知ってるのと結構近いっぽいな。問題は文字だなー……文字が読めなくてもできる仕事なんて、限られるよなあ……)

 はぁ、と深い息をつく。

(ああ、まだ働くこと考えてる。ここが日本じゃなくて、常世さんの言う『異世界』なら、もう借金のこと気にしなくていいはずなのに)

 染みついてきた仕事魂は、なかなか抜けないようだ。
心の中で小さく嘲笑った。
 ぼんやり、店主と少女とのやりとりを見守る。

「五シアンのお釣りね。部屋は同じところでいいかい?」

「はい。……あ、もう一部屋、空いていますか」

「空き部屋は沢山あるよ。今日の客は嬢ちゃんと、あっちのにいさんぐらいだからね」

「では、一部屋一泊分お願いします。そちらの人に」

「えっ?」

 話の矛先が、急に自分の方に向いた。
 ぼやっと呆けていたリュウヤは、急いで姿勢を正す。

「何だ。にいちゃん、嬢ちゃんと知り合いだったのかい?」

「いや、え、えぇぇ……?」

 ごつく厳めしい顔と、可愛らしい顔との間で、リュウヤの視線は行ったり来たり。

(いやいや知らん知らん。初めて会った子だわ)

 少女はカウンターに銀色の丸い貨幣を三枚重ねて置き、無言で踵を返した。用は済んだと言わんばかりに髪を揺らして歩き去る。宿泊する部屋は二階より上にあるらしく、トントンと軽い足音とともに階段を上っていく。

「え! ま……」

 待って、という前に黒いローブの裾が、すっかり見えなくなってしまった。
 残された二人の男は顔を見合わせる。

「……知り合いじゃねえのか?」

「…………」

 リュウヤはカウンターに置かれた銀貨を見やった。

(……うん、考えるのやめよ)

 とりあえずまあ、見ず知らずの彼女の厚意に甘えることにする。



 ***



 ぴゅう、と口笛が鳴った。
 月明かりのない晩である。木の枝に何かが飛び乗る音がして、茂みを移動する兎やリスが顔を上げた。

「さァお出ましだ、お出ましだ。オレの可愛い虎ッ子のお出ましだ」

 暗がりに、ツンツンと逆立った鮮やかな金髪が映える。

「匂うぞ匂う。鬼子の手記の匂いだ」

 目玉をぎょろりと動かし、躍るように肩を揺すった。口角は緩み、自然と締まりのない顔つきになる。
 まるで酒に酩酊しているような様だ。

「熱い血肉、弱っちい骨がひしゃげる音、飛び散る瓦礫の味、踏みつぶす悦……!」

 これから起こるすべては、いまだ妄想の域を出ない。
 しかし直に現実になる。
 ケタケタと嗤う声が、森の奥でひそかに響いた。



 ***



 布団って素晴らしい。
 堅い床の上と、もこもことした布の上とでは、体にかかる重みがまったく違う。
 リュウヤは風呂上がりの火照った体をベッドに投げ出した。当然、着替えがないから、水色の半袖パーカーと黒いカーゴパンツをそのまま着ている。ごろりと仰向けになり、壁紙の剥がれかけた天井を眺める。

(みんな、優しいんだな。おれ、無一文で素寒貧なのに)

 少女――結局あれから姿を見ていない――のおかげで野宿を免れ、宿の夕食と風呂、そして寝床にありつけた。宿主の奥さんが大盛りに盛ってくれたスープは温かく、芯からぽかぽかしていくようだった。人に作ってもらう食事は久しぶりだ。それだけじゃない。宿屋のご隠居と廊下ですれ違い、頭を下げると、何と上着をくれた。深い藍色の、もこもこした厚い生地のものだ。使っていないものだからとのことだが、生地のほつれがないうえに洗濯されてあった。

「いや、受け取れないっすよ」

「いいから、いいから。お金も取らないから」

と、老婆と思えないほどの力で押しつけるように渡された。
 ――リュウヤ自身は気付いていないのだが、彼は「生前」から老人キラーである。持ち前の溌溂とした声で挨拶し、重そうな荷物があれば代わりに持ってやり、退屈そうにしていれば屈託のない笑顔で喋りかける。血の繋がった孫よりも孫らしい、と近所ではささやかな人気者であった。宿屋のご隠居も、それにやられたのだろう。枯れ枝のような老婆はリュウヤの笑みを見るなり、即座に部屋へ消え、上着を手に一瞬で戻ってきた。宿の主人である息子のお古だそうだ。

(ひとまず、これで外出ても寒くないな。ちょっと安心)

 本当に貰っていいのか何度も訊ねたが、がくがくと首が取れそうな勢いでうなずかれるだけだった。ひとまず、ありがたく頂くことにする。

「は~~~……」

 長く息を吐き、リュウヤは瞼を閉じた。いろんなことありすぎだ。脳の処理が追いつかないくらい、いろんなことが起こりすぎている。

(明日、あの子に会ったらお礼言お)

 ベッドにめりこみそうなほど体が重い。疲れと眠気がどっと押し寄せてきた。枕元の低いテーブルに置かれた灯りを手探りに消した。
 うつらうつらと夢に沈む間もなく、リュウヤはすぐに意識を手放す。
 後に残るのは、微かないびきと呼吸音だけである。
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