2章 王都にて


 岩山のように大きな氷の塊が、魔族の男を目掛けて落ちる。一瞬、誰かが叫ぶ声が聞こえたが、氷塊が空気を刻む音にかき消された。
 どしゃり、と派手な音を立てて地が揺れた。

「うっわぁ……」

 片方の手首を斬り落とし、逃げられないように氷柱で取り囲んだ上でのこれだ。シリウスの容赦のなさに、リュウヤは少し引いた。しかし、先に攻撃を仕掛けてきたのは向こうなのだから、正当防衛といえば正当防衛……いや過剰防衛に当たりそうなものだがとにかく。

「とにかく倒したんなら、早く薬屋にもど」

「待て」

「むぎゅ」

 すぐさま駆け出そうとするリュウヤの頬を片手でつまみ、シリウスが制した。顎を上げ、斜め上の宙を睨んでいる。頬を長い指で挟まれたまま、リュウヤも視線を上げた。
 大柄なシーミアルフの腕――手首から先が繋がっている方の腕を重そうに引っ張り上げようとしている青年が、宙に浮いていた。

「ひぃっ」

 シーミアルフを両手で持ち上げている青年が、顔を引きつらせて小さく叫ぶ。首に下げたペンダントの先には、まん丸い石のようなものが付いている。左右非対称に切り揃えた前髪の下から、怯えた両目が覗く。遠目にも見えるほど、目の下の隈が青黒い。ぼろぼろに千切れた裾が、揺れ動く空気を受けてはためいた。

「お仲間の登場か。魔族二人となるとが悪いな」

 先ほどまで男がいた空間に剣先を向けていた腕を下ろし、シリウスは低く呟いた。

「いっそのこと斬り刻んでおけばよかった」

「しいうす、いーから、てぇはなしてくんないかな」

 ごつごつと骨ばった野郎の指でつままれ続けるのは、あまり気分のいいものといえない。

「み、みみみ、みつ、見つかった、見つかっちゃった」

 空中に浮かぶ青年が声を震わせて言った。

「見つかっちゃったじゃないかケドルス=ザック! あぁもうアンタに関わるとろくなことがないな本当に!」

「我の所為せいじゃないだろうが……それより、……ぐッ、早く転移しろ……」

「アタシ、今、両手塞がってんの! 分かるでしょ、アンタみたいな重いの持ち上げてんだよこっちはさ‼ ほらこれ、このペンダント握って」

 シーミアルフの大きな手が、青年の首元から下がっているペンダントを包む。男はギロッとこちらを睨みつけ、声を張り上げた。

「人間どもめら、この借りは必ず返すぞ……」

「あー俺、そういうの忘れっぽいんだわ。どうぞ忘れて」

 シリウスは手をひらひらさせて返す。その挑発的な言動にシーミアルフの眉間の皺がこれまでにないほど深くなり、目尻はますますきつく、般若のごとき顔つきになる。ぴりっとした空気が肌の表面を迸った。
 両腕が限界なのか、彼に任せていられないと察したのか、シーミアルフを持ち上げる青年が素早く「『転移メタスターシス』ッ」と叫んだ。
 ペンダントトップの丸石が淡く光を発する。
 次の瞬間、彼らの姿は消えていた。
 残ったのは、雪の上につけられた足跡と鮮明な血の赤である。

「消えた!」

「ちくしょう。叩き落として、でたらめ肉塊にしておくべきだった」

「むっ惨い……」

 彼らが戻ってこないかと氷柱の突き刺さった辺りに目をやりつつ、リュウヤは脱いで放っていた上着とマフラーを探した。ぼんやりとした明かりの中、雪に埋もれかけていたのを見つける。ぱたぱた振って雪を落とす。

「うぇー……ちべたい……」

「ついでに俺のも探してくれ」

「やだよ。自分でしなよ」

「……チッ」

 シリウスが睨んでくる。渋々、自分の脱ぎ捨てた制服の上着を探しに行った。すぐ舌打ちする男は好かれないよ、と言ってやりたい。リュウヤは静かに、洗濯機で脱水したあと冷凍庫に入れておきました、というほど冷えた上着とマフラーを脇に抱え直した。



 木製の外壁に頭突きする勢いで、薬屋の扉を開ける。

「あり――」

「あら、お帰りなさい。ごはん冷めちゃうわよ」

 リュウヤが叫んだのを、艶々しい声が遮った。セレネが奥からひょっこり顔を出す。呑気な表情に、男二人はぽかんと口を開けたまま立ち尽くした。

「どこ行ってたの……って、二人ともなぁにその恰好。寒くないの? 雪まみれじゃない」

 リュウヤは、思わずシリウスの顔を見る。彼も彼で、何とも言えない表情をしてこちらを見ていた。

「……セレネ嬢、今日のうちで何か変わったことはなかったか」

「えっ? 何かあったの?」

 セレネが首を傾げた。とぼける様子は微塵もない。
 どうやら、敵の襲来は杞憂に過ぎなかったみたいだ。

(よかったぁ……)

 リュウヤはその場に膝を折ってしゃがみたくなった。体中から力が抜けていく。一瞬でも刹那の間でも、薬屋のぼろぼろに崩れている姿を想像してしまったから――彼女らの倒れているところを想像してしまったから、何もなくて本当によかった。

「あらあら、どうしたのかしらね。ねえ、シリウス君もごはん食べてく? シチュー、ちょっと作りすぎちゃったのよ。今、アリスとナビキ君が食べてるけど、まだお鍋にたくさんあるの」

「あ、あぁ……いただくよ」

「雪は玄関で払い落としてから、来てちょうだいね」

 栗色の髪を翻し、瓜実顔の美女は奥へ戻っていった。
 リュウヤとシリウスは再び顔を見合わせ、ほぼ同時に大きく息を吐く。吐き出されたそれは空中に白い靄となって、しばらく揺蕩ったのちに跡形もなく消えた。



 ***



 ――時間は、リュウヤとシリウスの二人が魔族に襲来を受けたときより一時間ほど前に遡る。

 薬屋の二階、その一室でページを眺めていたアリスは、ふと顔を上げた。白い頬に纏わりつく横髪を冷たい風が撫でた。
 寒いからと閉め切っていたのに、窓が開いている。
 その木枠の上に、室内を向いて腰かける女性の姿があった。
 伏せた目は瞬きもなく、薄い唇は呼吸を漏らすこともなく、凪いだ水面のような顔つきをしている。藤色の長い髪を後頭部の高い位置で結わえている。重ねた両手は膝の上。武器の類は持っているように見えない。
 何より目を引くのは、その身に纏うあわせと、額に青白く生えた双角である。
 不意に女性が声を発した。

「アルストロメリアは、死んだのですね」

 それを聞いた瞬間、アリスは唇をきゅっと引き結んだ。

「ああ、やっぱりそうなのですね。アルテミシアが亡くなったのち、彼が逃げ出してから消息は掴めなかったものの、同族は同族。気配に敏感な者が、一つ消えたと言うからまさかとは思ったのですけれど」

「……」

 ぺらぺらとよく喋る、とアリスは顔を顰める。
 この辺りではまず見ない異装。薄く開いた目の黒。額を伸びる二本の角。わずかな特徴でありながらそのいずれもが、義兄あにと酷似する。
 彼女は、義兄と同じ……鬼族だ。
 閉鎖された集落で暮らす長寿種。
 それらは、黒目や額の双角という特徴を以て人間と種族を分かつ。
 ここ数十年ほどディランを支えてきた勇者一行のひとり、アルテミシアによって鬼族の優れた肉体能力や魔法能力が解明されてきたものの、未だ解らぬことの多い種族だ。
 義兄が逃げつづけたしがらみの一つである。
 片方の角を躊躇いなく折ったほどに。

「……私があなたに話すことは一つもありません。お帰りください」

 毅然と言い放ったつもりだった。
 その実、涼やかな声音は、雨に打ち捨てられた仔猫のごとく震えていた。
 女性の方から、溜め息をつくような音が聞こえてくる。

「こちらとしても話し合う心持ちはありません。単刀直入に申しましょう。……彼が遺した手記があるのでしょう? それを寄越して下されば、わたしは、貴女に短剣を向けることも鎌を振るうこともしません」

 彼女は、つい、としなやかな指先でアリスの膝上を指差す。ページを開いたままの本を。アリスは本をぱたんと閉じ、ぎゅっと抱きしめた。

「あなたがたの手に渡らぬよう、私が持っているんです。義兄が書いてきた記録です。義兄の生きてきた記憶です。私だけが持ってていいの」

「……そう」

 藤色の髪先を、ひんやりとした風が揺らす。

「聞き分けの悪い子は嫌いよ」

 ぞわりとした。
 女性の声音は柔らかい。ぐずぐずと泣く幼子を窘める音なのに、反面、後ろ襟から背筋へ毒虫を流し入れたような不快感を孕んでいる。相反する印象が、眼前の女性を構成する。
 蝋燭の灯が揺らめくかのごとく女性は立ち上がり、窓枠に手をかけた。

「また伺います。一時の感情に従って行動を取れる身分ではございませぬゆえ」

 女性は一礼し、窓枠から足裏を離した。着物の裾が視界いっぱいに翻ったのち、彼女の姿は消えた。
 アリスは見開いた両目で、しばらく窓を見つめ続けた。花のような唇から荒れた呼吸が繰り返される。

(どうしよう……どうしよう、どうしようどうしようどうしよう)

 義兄の手記が狙われている。

(ライリィだけじゃない……鬼族も奪いたがってるなんて……)

 守りたいのに、守ると約束したのに、手が震えてしょうがない。これから敵対するであろう相手とたった数分話しただけなのに、怖くて仕方がない。喉がつかえて、目の奥が熱くなって、背中を丸めてラグの上に蹲って。
 ちっちゃい子みたいに声を張り上げて泣けたらよかった。
 アル兄さん、と、上手く発音できないままに義兄の名を呟く。くぐもった小さな声は、受け取る相手のいない空中に溶けていった。



 ***



 義兄は、緩い癖のある美しい黒髪に、左右で色の異なる綺麗な目を持ったひとだ。
 アルストロメリア、という名前は長くて呼びづらく、自分はずっとアルと呼んできた。育て親としてたっぷり愛情をそそぎこんでくれた女性は、彼をアルスと呼ぶ。母親と似た名前だから、混ざらないようにしているのだと言っていた。
 アルは自分の恩人だ。
 命を救ってくれた恩人であり、魔力の扱いを教えてくれた師であり、――そして、ただの心優しい不器用な兄である。
 紙とインクとフラスコと瓶の散乱する部屋に籠りがちで、普段は薬屋で売る魔法薬や治癒薬の精製か、趣味の魔法研究をしていた。自分はしばしばそこへ入り込み、義兄の手元を眺めた。そのたび、義兄は自分の頭を撫でて、危ないから触るな、と注意した。邪魔だっただろうに嫌な顔ひとつせず、自分が眠そうにうつらうつらしていると毛布を持ってきてくれた。

「君は、僕が怖くないのか」

 あるとき、そう訊かれた。
 自分が四歳……もしくは五歳のことだっただろうか。よく晴れた日に、シロツメクサの敷き詰められた丘の上で遊んでいた。花を摘んでは、育て親が三つ編みにしてくれた髪に差して飾った。

「こわいの?」

 訊き返しながら、千切れかけた花冠を義兄の頭に乗せた。漆黒の髪に、ツヤツヤと白い花弁がよく似合っていたのを記憶している。

「僕は鬼だ。人間じゃない」

「しってるよ」

「角が生えてる。目の色が左右で違う。こんな異形、気持ち悪いだろう」

 義兄は端整な顔を俯かせ、ぽつりぽつりと呟いた。

「体格に恵まれなかったくせに腕力だけはある。怖いくらい魔力が体中に満ちている。爪を切ってもすぐに鋭く伸びる。無害だと言い切れない、醜悪な代物だ。君みたいなちっちゃいのが安心してべたべた触れられるようなものじゃないんだ」

 堰を切ったように言葉が流れ出る。
 それら一つ一つの言葉は難しくて、当時の自分にはよく分からなかった。それでも、怖い、気持ち悪い、というのは彼が彼につけた評価なのだと幼心に察せられた。
 私は静かに義兄へ体を寄せ、ぎゅっと抱きついた。

「ぜんぶかっこいいよ」

 薄い胸板に顔を押しつけた。温かかった。皺の寄った薄青色のシャツは、朝に食べた玉葱スープの匂いが残っていた。

「つのも、おめめも、アルにいにしかないものでしょ。まっすぐで、たけのこみたいなつのだよ。すっごくきれいなおめめだよ。わたしの好きなとこばっかり!」

 心臓の音を聴きながら。ゆっくり、確かめるように言った。

「アルにい、大好きだよ」

 頭に触れる手のひらも、じんわり伝わってくる熱も、低くぼそぼそとした喋り方も、時折緩める表情も、全部、ぜんぶ大好き。
 大好きなのに、もう見ることができなくなった。
 王都災害のせいで。



 ***



 ラグの上に蹲った身を起こす。
 窓の外の陽はすっかり沈んでいて、夕方から夜に近づいた匂いがした。

(……ああ、そっかぁ)

 恩人だから愛したんじゃない。
 彼だから――アルストロメリアという「ひと」だったから、そばで安心して眠れるようなひとだったから大好きだったんだ。
 アリスは小さく息を吐き、目尻を拭った。

(兄さん、愛してる)

 義兄の手記を抱きしめる。
 堅い感触がほんのりとわずかな熱を持っていて、冷えた手に心地よかった。
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